「保守革命」への戦略と課題
「保守革命」への戦略と課題
自己決定能力を失い、「白い共産主義」に脅かされながら、国際社会の荒波の中で漂流する日本。今必要なのは、戦後リベラリズムに基づく国家路線を百八十度転換することだ。
自民党新幹事長に安倍晋三前内閣官房副長官が就任した。誰もが予想することすらできなかった仰天人事である。小泉内閣支持率は早くも六〇パーセ ント台に跳ね上がったとマスコミは報じている。本人もいうように、新幹事長の任務はまずは選挙で勝利することと思われるが、その後は精力的に自らの保守路線を打ち出していくこととなるのだろう。前途は恐らく神経をすり減らすような苦労の連続だろうが、しかしそれを乗り越えてこその幹事長であり、新しい自民党だともいえる。まさに自民党丸、というより日本政治の舵が、確実に保守の方向へ大きく切り替えられていくことを期待したい。
こうした中、本誌ではこの絶好の機会を捉え、今後打ち出されていくべき保守路線とは果たしてどのようなものであるべきかを考えてみたい。このような「歴史的転回点」ともいうべき重要な時点に立って、日本の政治がまず問題として見据えるべきものは何なのか、そしてそれをどのようなものとして捉え、解決に取り組み、日本政治トータルの路線転換へとつなげていくべきなのか――。
こうした問いに対するわれわれの日頃の考え方とでもいうべきものを、ここはまず試論的に、概略的に示してみたいと考えるのである。
改革不能症候群
まず、わが国が直面する現実をどう捉えるかである。この中で、われわれが今とりわけ対象として見据えるべきものは何だろうか。以下、三つの現実を指摘してみたい。
第一は、「自己決定」能力を失い、国際社会の荒波の中を「漂流」しつつあるともいえるわが国の国家としての現実である。国家といえばまずは主権国家としての独立の維持、そしてその威信をも含めた国益の追求が課題として挙げられる。にもかかわらず、その基本そのものを喪失し迷走しているのが、わが国の現実でもあるからだ。つまり、そこには揺らぐことのない「国としての基本意志」が見当たらないのである。
無原則な「謝罪と譲歩」が既定の路線と化したかの感のある対中韓外交、国際貢献という美名の下での毎度お決まりの無原則・かつ泥縄式の自衛隊派遣、外圧がなければ国策決定すらままならない政治家・官僚たち、そしてこれまで拉致問題すら毅然として提起できなかった対北朝鮮への腰抜け外交……等々、そこには他国からの圧力に自己を失い、ひたすら右往左往するしかない「国家意志喪失」の現実があるといえる。ここでは国家の「自立」や「自己決定」は話題とすらされることなく、むしろ外圧への一方的屈服が「国際協調・国際相互理解」という名の下の「国家主権の自己抑制」、つまり新時代外交の「理想の実践」でもあるかのごとくみなされるという“倒錯ぶり”が現実なのである。
第二に、わが国は今、一部左翼勢力による「社会解体運動」の執拗な攻勢の下、歴史・道徳・家族、そして国家の枠組みをさえ崩されようとしているという現実である。「個の自立」「人権」「自己決定」「性別役割分担の否定」「国家と宗教の分離」「国家主権の相対化」といった一連の“崩しの思想”を媒介としての社会攻勢である。それが靖国神社参拝に関わる問題であり、偏向教科書の問題であり、夫婦別姓の問題であり、ジェンダーフリーの問題であり、ゆとり教育の問題であり、外国人地方参政権の問題であり……といった一連の憂うべき現実なのだ。
それはP・J・ブキャナンいうところの文化マルキストによる「文化闘争」(社会制度の広汎にわたる解体)の実践ということでもあり、われわれがいう「白い共産主義」による革命戦略――国家融解戦略の浸透ということでもある。しかし、国民の大半はかかる危険に関心を抱くことすらなく、むしろこうした一見「やさしげな」主張に理解を示すことが進歩的な姿勢でもあるかのごとく誤解しているのが現実でもある。
第三に、わが国は今、こうした問題への対応をも含め、これまでの国家のあり方の抜本的な改革を迫られているにもかかわらず、かかる改革実現は絶望に近く困難――という現実である。あるのは旧来的思考の惰性であり、それに基づく体制への寄りかかりであり、既得権益のしがらみであり、社会のコンセンサスを向こうに回してでも改革に立ち向かわんとすることへの“覚悟のなさ”だといえる。改革への躊躇・逡巡・抵抗はいわゆる守旧派のみならず、実は改革派の中にさえ厳然として存在する性向だということなのだ。
憲法は変わらず、教育基本法も変わらず、それどころか集団的自衛権の解釈変更も、防衛庁の「国防省」昇格といった政治の決断一つに関わる問題さえも全く変わらない。つまり、評論家的には改革へのもっともらしい理屈は語られても、それが一旦「戦後的思考枠組みへの挑戦」となったその瞬間、むしろ政治家のみならず国民の大多数がたじろぎ、抵抗勢力に転じてしまうという現実なのである。かくて時間だけが無為に過ぎゆき、この国には「改革不能症候群」ともいうべき病患がいよいよ深く浸透していく。
戦後リベラリズムの「毒」
それでは、このような現実をどのように捉え、本来のあるべき姿へと転ぜしめていくべきなのだろうか。これはいうまでもなく、国家としての存立の根本に関わる危機だといえる。とすれば、われわれはまずこの根底にある真の根因をえぐり出すとともに、その病根をいかに除去し、変えていくべきかの方向性を示さなければならないといえるだろう。
この問題についてわれわれは、以下のように考えている。
まず「戦後リベラリズム」の害毒ということである。占領政策によりわが日本人が「個人」「人権」「民主主義」「平和国家」といった、かかる新たな教義を受け入れさせられたことは周知のところである。しかし、それは他方からいえば「国家否定のイデオロギー」の注入に他ならなかった。その害毒が今日、いよいよその毒性を増し、猛威を発揮しようとし始めているということなのだ。
その結果が先にも述べた「漂流」する国家の現実であり、内部からの解体の危機に瀕する日本社会の現実であった。それは個の権利・自由を野放図に要求しつつ、一方国家となると、その全ての権利、自由を無視し、否定してかかろうとする風潮の帰結だといって過言ではない。その倒錯した風潮を巧みに利用し、とりわけここ十数年、そこに「国家意志」の弱体化と社会解体の策動を更にしかけてきたのが先述の文化マルキストたちであり、利用されてきたのはその風潮にすっかり同化せしめられてきた「片仮名サヨク」ともいうべき政治家・官僚・財界人・知識人たちでもあった。つまり「漂流」する国家と、崩れゆく社会の根底にはかかる「戦後リベラリズムの毒」があるということなのだ。
ただし、このような「戦後リベラリズムの毒」に、わが国の政治は初めから完全に侵されてきたわけではない。占領下、当時の政治家たちはそれに抵抗し、とりわけ独立後はそれを全力をもってはね除けようとしてきたことも事実といえるからだ。その代表が岸信介であったことについては本誌掲載の連載でもかつて触れた。しかし問題はその岸以後、池田ら後継政治家たちによってその路線が二度と継承されることがなかったということなのである。
以後、わが国の政治は戦後リベラリズムの上に立った魂なき経済至上路線となっていく。つまり「経済的豊かさ」の追求が国家の第一の目標となってしまったのだ。それが国家喪失、そして戦後リベラリズムによる社会形成の基本土壌となった。
むろん、それが今度は、文化マルキストによる社会解体の土壌を提供することにもなっていったことについては既に指摘した。しかしそれとともに、それは更に先に触れた「改革不能症候群」を産み出す土壌ともなっていったということが忘れられてはならない。政治が思想を失い、経済的豊かさの追求だけを目的とするに至れば、もはやそれは政治というようなものではない。池田政治以降、この国に行政はあっても、言葉本来の意味での「政治」が存在しなくなってしまったのはこのためだといえる。以後、この国には国家のあり方を根本から考えるという改革思考自体が消失し、政治は単なる利益配分、権力運用の技術になり下がっていく。「国家の基本」というようなものを考えることは逆に危険なこととされ、むしろ国民の欲望が政治全体の準則となっていくのである。この国の政治に「自己決定」の意志が失われ、「改革不能症候群」が広がるのは、まさにかかる流れの必然の帰結だといって過言ではない。
つまり、かかる問題が先に示した憂うべき現実を産み出しているということなのである。
求められる「理念の転換」
それでは、このような現実を変え、この日本を「本来あるべき日本」へと正していくためには、政治は今何をなすべきなのだろうか。
そこで誰もが口にするのが「改革」だともいえるが、ここではむしろ「いかなる改革か」――が問題となるといえるだろう。現実の根元にある問題を正確に見据え、それに正確に照準をあてた改革でなければ、それは空しい「政治の空騒ぎ」に終わる他ないからだ。
とすれば、それはいかなる方向性をもった「改革」なのだろうか。
この方向性としてここで強調すべきは「理念の転換」である。先にも指摘したように、この国の混迷の根元には占領軍が植え付けた「戦後リベラリズム」の毒があり、その上に、以後それを正そうともせずただ経済的利益のみを求め続けた「理念」不在の政治があるのだとすれば、今求められるのはその「理念」に関わる根本的な「転換」に他ならないといえるからである。個々の「政策」というより、むしろかかる「理念」の中にこそ、この国の根本の問題が孕まれているということなのだ。
憲法も、外交も、あるいは安全保障も、教育も、社会政策も、全てこの「理念」の問題と関わってくる。とすれば、われわれが今まさになすべきは、この「理念」を根本的に見直し、転換していくということなのである。「個の自立」「個の権利」は貴重だとしても、それが成り立つためには「国家」が健在でなければならない。国家が他国に侵略されたり、崩壊してしまったならば、そこにはホッブスがいったような、人間が人間に対して互いに狼であるという「自然状態」はあり得ても、そもそも人間的な、個が尊重される平和で秩序ある社会などあり得ないからである。ということは、まず「国家の主権」「国家の自立」が尊重されねばならないということなのだ。
と同時に、そうした国家の根幹が歴史によって形成された精神共同体にある以上、その根底にある国民共有の歴史、そして広義の意味での宗教、つまり「国民の物語」もまた正当に位置づけられなければならないということでもある。それこそが、われわれの社会に一体感、秩序、そして安定をもたらしてくれるものであるからだ。とすれば、政治はこうした「国民の物語」をこそ国民に向けて語らねばならない。と同時に、それを崩さんとするものからは、それを守るための戦いに立ち上がらねばならないということなのである。
とはいえ、それは決して簡単なことではない。「理念の転換」とは、この戦後リベラリズムに基づくこれまでの国家路線の一八〇度の転換――すなわちその「誤謬」の全否定をめざす根元的な戦いに他ならないからである。それは「改革」というより、むしろ「革命」という言葉がふさわしい非妥協的な戦いを意味することになるだろう。とすれば、それはまさに「保守革命」と呼ばれるべき戦いであると思われるのだ。
このような根本的な戦いは、簡単に現実化するようなものではない。心ある者が着実にそれを構想し、周到に準備し、様々な方面からの具体的な働きかけがなされ、その結果色々な力が結集されることによって初めて可能となるものだと考えられるからである。とはいえ、それがまさに切実に求められているのが今日の状況でもあるだろう。その意味で、われわれは今それを用意し仕掛けていく準備作業をこそ、始めねばならないということなのである。
「保守革命」とは何か
そこで最後に、この「保守革命」の課題について触れてみたい。
まず第一に挙げられるべきは、「戦後リベラリズム」という理念に対し、「保守」の理念ともいうべきものを明確に対置するということである。これまで、わが国の保守はこの根本問題に対し、余りにも無自覚であった。保守という政治姿勢そのものは良いとしても、果たしてそれは何を「保守」せんとする政治姿勢であるのか、何が彼らにとってバイタルな原則であるのか――そうした根本的な問題が全く問われることがなかったからである。しかし、それでは「理念の転換」はあり得ない。われわれはまさにそうであればこそ、ここで「保守」の「保守」たる所以を提示し、国民に選択を迫っていく必要があるといえるのだ。
その意味で、ここではとりあえず綱領的なものとして、われわれは以下のようなものを対置してみたいと考えるのである。
・「国民の歴史」の継承
・伝統と共同体の重視
・戦後リベラリズムの系列に属するあらゆる発想の否定
・国家、及びその独立と主権と国益の重視
と同時に、第二として、このような「保守」の理念を踏まえた、それなりのトータルプラン――政策体系を用意することが挙げられなければならない。戦後リベラリズムを前提とする既成勢力のものとは根本的に異なり、かつ日本再生への爆発的な力を秘めた革命的なものである。すなわち、戦後日本社会の風潮・タブーに正面から立ち向かい、戦後リベラリズムのもっとも核心にある制度・政策を破壊し、もって国家と国民精神を取り戻し、この日本の国家としての衰退を根本的に押し戻していくことのできる政策プログラムである。それをいかに説得力あるものとして提示しうるか否かが、「保守革命」の成否をも決する最重要の課題だといえる。われわれはまさに今から、このトータルプランづくりに着手していくべきなのだ。
そして第三に急務なのは、この「保守革命」の担い手となる「象徴的政治家」と、それを支える支持勢力を結集することである。かつての英国におけるサッチャー革命、あるいは米国におけるレーガン革命の先例を指摘するまでもなく、根本的な改革にはそのような政治家のリーダーシップと、国民を惹き付けていくことのできるコミュニケーション能力と、そして国民の側からの支持世論を作り上げていくことのできる強力な運動が求められるからである。とすれば、われわれもまたそうした運動の中での核となりうる政治家を選びだし、それを擁立し、またそのリーダーシップを引き出しつつ、それを政権へと押し出していく強力な運動を巻き起こしていかなければならないということなのである。
冒頭にも指摘したように、今この日本は重大な岐路にさしかかろうとしている。このままこの国は、国家の漂流と社会解体の策動にその運命を委ね続けていくべきなのか、あるいはここで国家再生への道へと、この国の舵を強力に切り替えていくべきなのか――その根本的な選択が問われようとしているからだ。
むろん、われわれが選ぶ道は後者でしかあり得ないことはいうまでもない。とすれば、われわれは今まさにこの「保守革命」ともいうべき改革のあるべき全体像を見据え、それを現実化していくための方策を考え、その手順に着手していかねばならない時だと考えるのである。(日本政策研究センター所長 伊藤哲夫)
