時は13世紀。モンゴルの時代。
圧倒的な力を背景に、世界各地を支配下に置いていくモンゴル。
ヨーロッパも例外ではなく、モンゴル軍に大敗。
「このまま、ヨーロッパも支配されるのか…」と誰もが思った矢先、
突然、モンゴル軍が一斉撤退。
結果的に、ヨーロッパの大部分はモンゴルの支配から逃れ、
現在に至るまでモンゴルの支配下に入ることはありませんでした…
いったいなぜ、快進撃を続けたモンゴルは引き返したのでしょうか?
そこには、悲しい運命と、人間の性が隠されていました…!
今日は前回記事の続編です!
◯なぜ、バトゥは引き返したのか!?
出生の疑惑から、不遇の身にあったバトゥ。
そんな中、当時の指導者オゴタイが与えた千載一遇の大チャンス。
この一世一代の大勝負を完璧に生かしたバトゥ。
破竹の勢いで西へ西へと勝ち進み、ワールシュタットの戦いでヨーロッパ勢力も撃破。
このままヨーロッパでもモンゴル軍の快進撃!!と誰もが思っていましたが、
突如バトゥの軍勢はヨーロッパから引き返し、モンゴルへ戻っていったのです。一体バトゥに何があったのでしょうか‥?
ヒントとして、
「バトゥはどんな予測不可能な事態が起こったらモンゴルに帰るか?」
を考えてみてください。きっと現代の私たちでも、バトゥと同じ行動を取る人が多いでしょう‥。という流れで前編を終えました。
字数の都合で分けたのですが、じらしたようになってしまいすみませんでした。
では答えを申し上げましょう!!!!
◯オゴタイの死…
このままヨーロッパに突き進む、と思っていた矢先、訃報が入るのです。
部下「オゴタイ様が…オゴタイ様が逝去されましたっ…!!」
1241年12月21日のオゴタイ死去から約3か月後(当時の交通手段から言うと妥当な数字と言われています)の、本国からの使者による訃報でした。
「え…でも遠征中なら引き返さずに攻めてもいいんじゃない?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
ここで大事なことは、月並みですが、バトゥの気持ちを想像してみて下さい。
不遇な自分にチャンスを与えてくれたのはオゴタイです。
オゴタイがいなければ、今の自分はない、ということをバトゥは誰よりも感じていました。つまり、バトゥにとってオゴタイは、恩人です。
自分を見出してくれたオゴタイの死は、バトゥにとって大きなものでした。
訃報を聞いて、バトゥはヨーロッパから急遽引き返すのです。
※一説では、オゴタイが死ななくてもバトゥの遠征はここまでだった、という見解もありますが、私はそうは思いません。なぜなら、訃報を受取った後も攻撃中の街を落とし、部下に追撃させているからです。具体的には、部下の侵攻はウィーン近くまで迫っていたのです。それでも、総帥バトゥは引き返しました。総帥を失った部下の侵攻はそれ以上進むこととができず、勝ち取ったハンガリーも放棄して帰還しています。
◯ヨーロッパがモンゴルの支配から逃れた、たった1つの理由とは
バトゥが引き返した理由が分かった所で、記事タイトルの問いに戻ってみましょう。
この問いに答えるならば、ズバリ
「オゴタイが亡くなったから」です。
なんという偶然、なんというタイミングでしょう。
「歴史に”もし”はない」という格言がありますが、”もし”を考えずにはいられません。
「もしオゴタイが死ななかったら…」を想像すると、
バトゥは更にヨーロッパ中央部・西部へ進入していたでしょう。
そして、当時の中世ヨーロッパは、十字軍の勢いも弱くなり始め、イスラーム勢力に勝ちきれずにいた時代です。戦費がかさみ、教会組織の膨張も限界点に達しています。
キリスト教が力を発揮するのは、「別の宗教」に対して団結した時です。モンゴルは、宗教結社ではありません。ヨーロッパが「VSモンゴル」で団結できたかというと、微妙でしょう。
むしろ逆にモンゴルと手を組んで、ライバル国・諸侯を滅ぼそうとする勢力が出ていたかもしれません。
いずれにせよ、バトゥ(モンゴル人)がヨーロッパを支配する…という想像をもってしまいます。
そう考えると、「オゴタイの死」が「ヨーロッパ」を保つ上で非常に大きな役割を果たしたことが伝わるでしょうか…
◯バトゥが勝ち取った領域を国に!
あなたなら、国名は何にする?
最後になりますが、「じゃあバトゥが勝ち取った地域はどうなるの?」という問いを考えてみましょう。
モンゴル〜南ロシア〜東欧に至るこの地域には、バトゥの国がその後も存続することになります。大モンゴル帝国の一部ですが、実質的にはバトゥの国です。
あなたなら何と言う国名をつけますか?
(生徒に問うと、バトゥの名を国名に入れる回答が多いです)
ちなみに、高校世界史ではこの国を一般に「キプチャク=ハン国」と呼びます。キプチャク高原を中心に展開した国だからです。
でも、実はこの「キプチャク=ハン国」よりも使用されていた国名があるのです。
ここでも大切なのはバトゥの気持ちです。
◯バトゥが感謝している人は誰だろう?
もう一度家系図を掲載しますが、バトゥが感謝している人は、オゴタイの他にもう1人いるのです。この家系図の中に…。
そう。正解は、
父親のジュチです。
不遇な扱いをされながらも、自分を育ててくれた。
遠征に次ぐ遠征がたたり早くに亡くなってしまったけれど、まぎれもなく今の自分があるのは、父・ジュチによるものです。
(ここは私の脚色ですが)だから、バトゥは自分の名ではなく、「お父さん、ありがとう」という感謝の思いで
「ジュチ=ウルス」(ジュチの国)と名付けたのです。
wikipediaも、ジョチ・ウルス - Wikipedia を正式名称としています。
◯おわりに
いかがだったでしょうか?
歴史を「過去の事実の羅列」として捉えるのではなく、「そのときを生きた人々によるストーリー」として語り直すことで、生徒もぐっと食いついてくれます。
歴史を学ぶことは、過去と現在と未来をつなぐことだと考えます。「人間」っておもしろいなあ、と教えている自分が一番感じていますね。笑
「人になるには小さいときから、良い馬になるには子馬から」
(どんな人になるかは、小さいときから始まっている)
というのはモンゴルのことわざ。
教育に携われることに感謝ですね。また来週も授業が楽しみです。(明日土曜日も仕事だということに今愕然としています…笑)