【第五十七話】鰹節行商婦の碑
「かつおに 生きる よろこびを/賛えん われら 枕崎」と市民歌にも言う鹿児島県枕崎の外港に、異色の「鰹節行商婦」の像があります。鰹節を入れた菅笠のような籠を頭上に乗せて左手で支え、右手で幼子の手をひく若い婦人の姿です。同市みなと振興会が昭和63年に建立したものです。背景に「黒島流れ」の惨事明治28年7月24日、枕崎沖合60キロほどにある黒島付近を通過した台風「黒潮流れ」で多数の鰹漁船が遭難、七百十三名の死者をだし、枕崎における海難史上最大の悲劇を生みました。『枕崎市誌』は「時の明治天皇は侍従をご差遣、惨状を視察せしめご下賜金をたまわった。鹿児島新聞社は全国に義援金をつのり二千円に上った。一大惨事として国民の胸をうったことが知られる」 と記し、また次のような或る文献の悲痛な言葉を紹介しています。 「この海上の椿事は聞くだに、戦慄措く能わざるものあり。……黒島に漂着したる数多の死体、その誰たるを識別する由なく、山なす死体は石油を注ぎて焼却し、遭難者の遺族はその骨灰を分配して土葬をなしたり」 遺族が鰹節行商に奮起『枕崎市誌』は「一瞬にして父を夫を失い、明日からの生計の道を断たれて悲痛のドン底に沈んだ遺族たち。この人たちを救済するため取り上げられたのが、婦女子たちによる、鰹節バラ売り行商だった」と述べています。こうして「鰹節は、いいやはんかなあ、という独特の売り声、未亡人たちの汗と足によって、枕崎の鰹節は県内至る所に広がっていった」というのです。 この行商を奨励し応援したのは、とくに遭難者の多かった小湊地区の大願寺の住職だったそうです。そして近隣の多くの寺院を通じて、行商婦人の健気さを宣伝、売上げ支援したのだそうです。 引き継がれている「鰹節は、いいやはんかなあ」枕崎の鰹節行商は、その後も代々その娘・嫁に引き継がれてきました。もちろん黒島流れの哀話とともに、得意先の一般にも語り伝えられてきました。「鰹節行商婦像」は、多くの市民に、あの悲しみの日を想起させ、枕崎女性の健気さを語り伝えようというのです。*参考書 『枕崎市誌』上下二巻 (枕崎市・平成二年発行) |
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