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| 南方神社[みなかたじんじゃ] | ||
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枕崎市鹿篭麓町に鎮座する南方神社は、14世紀後半に宇敷山[現在の蔵多山(くらおくやま)]の山頂に現在の長野県の諏訪大社を勧請したことが創祀です。その後、15世紀の中頃に現在地に移されています。 枕崎市誌によると、南方神社は古来、健御名方命(たけみなかたのみこと)と事代主命(ことしろぬしのみこと)の二神を祀り、諏訪神社と呼ばれ、鹿籠(明治の初めまでの枕崎市区域全体の地名)の産土神として奉祀されています。
御祭神については、明治5年に、神官、本田出羽が県令の命を受けて臨検し、事代主命にかえて、御祭神の一柱を八阪刀売命(やさかとめのみこと)とし、社号を南方神社と改名させています。 明治5年に諏訪神社から南方神社に改称されたわけですが、これに先立ち明治政府は明治元年に神仏分離令を発令します。鹿児島においては廃仏毀釈の形で先鋭化し、徹底した仏教弾圧が行われたといいます。 西海最古の名刹である坊津の一乗院も明治2年に廃寺が決定され、この一乗院の廃寺の処置をしたのが、南方郷の軍務所であったといいます。 当時の坊泊郷・久志秋目郷は喜入氏私領鹿籠と合わせて南方郷となり、南方郷役所のあった場所が現在の枕崎市桜山の城山でありました。 現在の枕崎市と旧坊津町を合わせた地域が「南方郷」であり、その中心地が枕崎市の桜山中学校隣にある城山だったわけです。 当時の城山から西側を望むと、花渡川(けどがわ)を挟んで鎮座しているのが、古来から鹿籠の産土神であった諏訪神社であります。 「諏訪神社」は明治5年に「南方神社」に改称されたわけですが、その理由は、「国家の宗祀」(国と国民が尊ぶべき公的な施設)として神社が位置付けられた時代にあって、諏訪神社を南方郷全域の総鎮守とする目的で、当時の鹿児島県や南方郷の為政者が「南方神社」に改称したのではないかと思われます。 南方神社の読みについては、現在まで「みなかたじんじゃ」という読みが受け継がれており、この読みは南方神社に改称された時の読みであったと思われます。 「南方神社」の名称が当時の「南方郷」に由来すると考えると、当然読み方も同じだと考えられるので、「南方郷」の読みも「みなかたごう」であったと思われるのです。 2015年6月 shusen |
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