本日、4月29日は「昭和の日」ですが、その意味をご存知でしょうか?
そう、昭和天皇の誕生日です。
「国民の祝日に関する法律」では、「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」とされています。
この機会に、昭和天皇のお人柄に迫る数々のエピソードとともに、昭和の時代を顧みてみようと思います。
◼︎イソップ物語好き(1912年3月16日)
幼いころ「イソップ物語」が好きで、ご自身で創作されていた。第1作は「海魚の不平」と題され、ホウボウ、タイなどがそれぞれほかの魚の才能を妬む。それをメクラウナギがたしなめるというお話だった。
◼︎名字で呼んで欲しかった
学習院時代、学友たちがお互いを名字で「呼び捨て」で呼び合うことを羨ましがり、御印から「竹山」という名字を作り、呼び捨てにしてもらおうとした(この提案に学友が従ったかどうかは不明)。
◼︎史上初の皇太子の外遊(1921年)
イギリスやフランス、ベルギー、イタリア、バチカンなどヨーロッパ諸国を公式訪問。フランスのヴェルダンを訪れ、第一次世界大戦の激戦地を訪問された際、「戦争は実に悲惨なものだ」と感想を漏らされた。
◼︎ロンドンの地下鉄にて(1921年)
欧州訪問の際に、ロンドンの地下鉄に初めて乗車された。このとき改札で切符を駅員に渡すことを知らず、切符を取り上げようとした駅員ともみ合いになったが(駅員は日本の皇太子だとは知らなかった)、とうとう切符を渡さず改札を出られた。この切符は後々まで記念品として保存されたという。
◼︎婚礼の儀を延期(1923年)
関東大震災における東京の惨状を視察した際に大変心を痛め、自らの婚礼の儀について「民心が落ち着いたころを見定め、年を改めて行うのがふさわしい」という意向を示し、翌年1月に延期された。
◼︎夫婦円満
香淳皇后のことを「良宮」(ながみや)と呼ばれていた。夫婦仲は円満で、結婚当初から、当時の男女としては珍しく、手をつないで散歩に行かれることがあった。

◼︎東京大空襲(1945年3月10日)
焼け跡を視察され、市街地が徹底的に破壊されたのを見て、ショックを受けた。「関東大震災のときよりも胸が痛む」と、藤田侍従長に語られた。
◼︎空襲の火災が皇居に飛び火(1945年5月26日)
火災の一報が入った時は「正殿に火がついたか、正殿に! あの建物には明治陛下が、たいそう大事になさった品々がある。大事なものばかりだ。何とかして消したいものだ」と咳き込んで語られたが、鎮火後は犠牲者の有無を問いかけた。焼け落ちた正殿に「みんなと同じになった」と諦観された。
◼︎終戦の聖断(1945年8月9日)
ポツダム宣言受諾決議案について御前会議にて長時間議論したが結論が出なかったため、天皇の判断(御聖断)を仰ぐことになった。 昭和天皇はポツダム宣言受諾の意思を表明し、8月15日に玉音放送を行う。
2度目の御前会議にて昭和天皇は以下のように語ったと言われている。「国民が玉砕して君国に殉ぜんとする心持ちもよくわかるが、しかし、私自身はいかになろうとも、私は国民の生命を助けたいと思う」
◼︎マッカーサーとの初顔合わせ(1945年9月27日)
「私は、国民の遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身を代表する諸国の裁決にゆだねるため、おたずねした」と話され、「命乞いにきた」と予想していたマッカーサーを驚かせたという。
◼︎全国巡幸へ(1947年2月)
戦後の復興と、国民を励ますために全国巡幸を決意された昭和天皇。これは戦後最大の功績と言われている。
「退位も考えたが、全国をくまなく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために勇気を与えることが自分の責任。宮内官たちは、私の健康を心配するだろうが、自分はどんなになってもやりぬくつもりである。宮内官はその志を達するよう、全力を挙げて計画し実行してほしい」
◼︎相撲好きとして知られていた
昭和天皇は大の相撲好きで有名でしたが、ひいきの力士については質問されても決して明かさなかった。その理由はひいきの力士を言えば世間が騒ぎ、色々な人に迷惑がかかると配慮されたという。
◼︎天皇の料理番の辞表に対して
「天皇の料理番」秋山徳蔵が、昭和天皇の肉料理だけ肉をくくるたこ糸を抜き忘れて提供してしまった。秋山が辞表を提出したとき、昭和天皇は招待客に対して同じミスがなかったかを訊ねた。秋山が「なかった」と答えると、「以後気をつけるように」と言って許したという。
◼︎フグに関する冗談
毒に配慮して、昭和天皇はフグを食す事を禁止されていたが、「フグを食べてみたい」と側近に言ってみるのが好きだったよう。侍医は「なぜ、ダメなのか?」という問いに答えられず、困っていた。しかし、これは昭和天皇の冗談らしく、フグは食べられないことは理解されていたそうだ。
◼︎雑草のお話
植物学にも精通されていた昭和天皇は、常々側近に「雑草という草はない」と発言していた。実際に、御用邸周辺の草木の名を全て把握されていたという証言が多く、散歩中、側近に草木の名を教えながら歩かれた。
◼︎女官制度の改革
女官制度を改革し、宮中に一夫一妻制を根付かせた。ご結婚後、皇子がなかなか誕生しなかったものの、側室制度を復活させなかったことも伝えられている。「人倫の大本を、私は乱したくない」と侍従長に語られていた。
◼︎乳人制度について
かつて皇室では「乳人制度(めのとせいど)」といって、生まれた子は里子に出して、民間の女性によって授乳させていた。昭和天皇はこの制度に批判的で、「わが子に対する愛情を体験しないで、どうして国民に対する本当の愛情がわかろうか」と発言されたという。
◼︎口癖について
戦後の全国巡幸で多くの説明を受けられた際、「あ、そう」という一見すると無味乾燥な受け答えが話題になった。ただし、この受け答えは後の園遊会などでもよく使われており、説明に無関心だったというよりは、単なる癖であったと言われている。ご本人も気にされて「ああ、そうかい」と言い直されることもあった。
◼︎テレビ番組について(1975年10月31日)
記者会見で「テレビはどのようなものをご覧になるか」という質問が出た。昭和天皇は、「テレビはいろいろ見ますが、放送会社の競争がはなはだ激しいので、今ここでどういう番組が好きかということはお答えできません」と微笑みつつお答えになられ、記者たちの笑いを誘った。
◼︎歴代天皇で初めての開腹手術(1987年9月)
手術後の第一声は、「良宮(ながみや)はどうしているかな」。
◼︎全国戦没者追悼式にて(1988年8月15日)
全国戦没者追悼式にご出席された昭和天皇。前年に手術を受けられて、体力の衰えが顕著になった状態だったが、静養先からヘリコプターを使われてまで出席を強行された。これが昭和天皇最期の全国戦没者追悼式となった。
◼︎国会開会式への出席
晩年、足元のおぼつかない昭和天皇を思いやって、「国会の開会式には無理に出席しなくとも・・・」という声が上がった。ところが、「楽しみにしているのだから、楽しみを奪うようなことを言わないでくれ」と訴えられてたという。
◼︎吐血(1988年9月19日)
9月19日に吐血された。各地に病気平癒を願う記帳所が設けられ、最終的な記帳者の総数は900万人に達した。イベントや行事、テレビ番組などに自粛ムードが広がった。
◼︎崩御
1989年1月7日午前6時33分、昭和天皇は皇居・吹上御所で崩御された。87歳。
ユーモアあふれるご発言の中から、国民のことを真剣に思いやる気持ちが垣間見えると言えるのではないでしょうか。
戦前、戦中、戦後、復興と、激動の時代を駆け抜けた昭和天皇。
さまざまな評価がなされていますが、タブー視して語らないという事態は避けるべきです。「昭和の日」をきっかけに、この国のこれまでとこれからについて考えるきっかけになればと思います。
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参照・画像出典:Wikipedia/昭和天皇
参照:Amazon/昭和天皇論
参照:Amazon/「昭和天皇実録」の謎を解く
参照:『戦後70年 ニッポンの肖像 -日本人と象徴天皇-』(NHK)
参照:毎日新聞/激動の87年の生涯 昭和天皇
参照:宮内庁
(本記事は上記の報道や情報を参考に執筆しています)
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