斉藤寛子
2017年1月12日23時56分
1945年の終戦で、外交権を停止された日本の外交官が世界各地から引き揚げた。そんな中、日中関係を立て直そうと任地にとどまった人がいる。中国・南京で公使を務めた堀内干城(たてき)さん(1889~1951)。外務省による12日の外交文書公開で、その経緯が明らかになった。
「残留し中日関係のために貢献したく固く決意している」。堀内さんが46年3月に語った内容が、幣原喜重郎首相(当時)宛ての外務省報告に記されている。
堀内さんは、29年に中国に赴任し、満州事変後の国交調整などに尽力した。戦後、国民党の蔣介石氏側近に「日本の技術者を利用し紡績操業を開始すれば中国経済を潤す」と伝えて手応えを感じ、敗戦で中国側に接収された上海の日系紡績工場を動かすため邦人技術者らに残るよう勧めた。「首相は自分を信頼されるよう切望する」と結ばれている。
邦人技術者と国民党政府の仲介役として「堀内さんの滞留は極めて有用」との声は日本政府内にもあったが、米軍主体のGHQ(連合国軍総司令部)の占領下では、他国に外交官を置けない。46年12月の報告書には、堀内さんが「米側との関係から公使の地位を保持できないのは了解」していたとある。
だが、外務省は事実上公使とし…
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