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2009-10-20

[]「アルバート坊や」は一体誰だったのか?

American Psychologistの最新号に、「アルバート坊や」の消息を辿った論文が。

Finding little Albert: A journey to John B. Watson’s infant laboratory.

Beck, Hall P.; Levinson, Sharman; Irons, Gary

American Psychologist. Vol 64(7), Oct 2009, 605-614.

心理学を学ぶ者なら誰もがその名を耳にするアルバート坊や。実験時にまだ8ヶ月の乳児だった彼は、ワトソンらの条件づけ実験で羽のついた物体や大きな音を怖がるようになり、その後、何らの心理的ケアを受けることなく雲隠れしてしまった、というのがこれまで知られていたこと。で、論文の筆者らはワトソンの手紙や著書、はては国勢調査の結果まで使ってアルバート坊やの母親を捜し出し、その一族にインタビューを試みた。論文の最初に「90年にわたる未解決事件を解明すべく奔走した筆者たちの探偵物語」などど銘打たれているので、これは期待。

元論文にはアルバート坊やの誕生日が記載されていなかったため、まず筆者らは正確な実験開始日の調査に着手。実験を記録したフィルムテープの購入履歴やワトソンの手紙から、1919年11月28日〜12月12日の間であると推定。論文に報告されているアルバート坊やの月齢(8ヶ月と26日)を引き算して、彼の誕生日を1919年3月2日〜16日と推定。

しかし、JEPの元論文掲載号の発行日付(1920年2月)からすると、アルバート坊やはもっと早く生まれていたのではないかという疑問も。ただ、学術雑誌にはよくある話で、もしJEPの掲載号が実際には印刷された発行日付よりも遅れて発行されていれば、つじつまが合う。そこで筆者らはJEPの実際の発行日を調べるため、全米の図書館に掲載号の受領日に関する証拠がないかどうかを問い合わせたところ、コーネル大学で掲載号が1920年8月23日?に受領されたことを不鮮明な記録ながら確認。しかもワトソンはJEPの創刊者のひとりで、何とこの論文は査読を受けずに掲載された可能性も浮上。結局、正確な発行日はわからなかったものの、発行が遅れた可能性は否定できないという結論に。

続いて筆者らはアルバート坊やを捜すために、さまざまな個人情報を集め始める。母親がジョンズ・ホプキンス大学の小児病院で働く乳母ということは元論文に報告されている。しかしワトソンは死ぬ前に研究に関する全ての記録を燃やしてしまったため、捜査は難航。そこで筆者らは1920年に行われた国勢調査のデータを調べることに。「養母」という職業分類がなされていた白人のArvilla Merritteという人物にたどり着く。何とArvillaは偽装結婚で子どもを出産し、本来の名字はMerritteではなかったらしい。そこで旧姓のArvilla Ironsで血のつながりのある人々を探すことに。筆者らはArvillaの親族とコンタクトを取ることに成功し、ArvillaがDouglas Merritteという男児を1919年3月9日に生んでいたことを知る(推測通りの日付!)。

しかし、ワトソンらは「アルバートが本名」と元論文に報告している。ダグラスではない。ここで著書は、当時は倫理規定が存在しなかったが、ワトソンはその重要性に気づいていて本名を用いなかった可能性、また大学病院のシステムの都合で、ワトソンがそもそもダグラスという名前を知らずに実験に参加させた可能性、の2つを指摘している。で、なぜアルバート(正しくは「Albert B.」)かというと、ワトソンのファーストネーム「John Broadus」は、ワトソンの祖母がバプティスト教会の指導者である「John Albert Broadus」から名付けたものだから、と筆者は推測する。要するに、自分の名前にあやかったアルバートという偽名をダグラスにつけた、ということ。

筆者はダグラス=アルバートだと確信し、Arvillaの孫のGary(論文の共著者)にエピソードを聞く。Arvillaはジョンズ・ホプキンス大学を去った後、別の男性と結婚し、Gwendolynという娘を授かる。1988年にArvillaは亡くなるが、Gwendolynが遺品のトランクを調べた時に、Arvillaが男児と一緒にいる写真を見つけ、驚く。Arvillaはダグラスの存在を娘に知らせていなかったのだ。Gwendolynはその後、Garyに写真を委ね、その写真が筆者のところに届くことになる。

アルバートの記録フィルムとGaryから届いたダグラスの子ども時代の写真を比較するものの、さすがに古ぼけた写真だけで同一人物かどうかを判断するのは難しい。そこで筆者は、米国陸軍病理研究所(AFIP)の専門家に2人の写真を見せ、同一人物である可能性が高いとの回答を得る。つまり、アルバート坊やはダグラス・メリッテだったということだ。

ダグラスは1922年に祖母から感染した髄膜炎が原因で水頭症となり、1925年に死亡していたことが確認された。結局、ダグラスがワトソンの実験によって、どのような人生を送ることになったのかは定かでない。

…何とも重苦しい結末ではあるものの、人間を決してモルモットのように扱ってはいけない、という現代では当たり前のことが守られなかった時代のエピソード。心理学が人を不幸にすることだけはあってはいけない。

※ワトソンの元論文はこちら

Conditioned emotional reactions.

Watson, John B.; Rayner, Rosalie

Journal of Experimental Psychology. Vol 3(1), Feb 1920, 1-14.

※アルバート坊やの記録フィルム(DVD)はこちら

Studies Upon the Behavior of the Human Infant: Experimental Investigation of Babies. Penn State Media Sales

※実験の様子

D

asarinasarin 2009/10/21 11:49 情報ありがとうございます!早速両論文を入手し,さらに同僚にも知らせました.同僚によると,「IMD先生(ご本人の大師匠にして学習心理学の大家)がかつてアルバート坊や探索で科研を出そうとして,過去に探索した人がいることを知り,あきらめた(アメリカ人が探して見つからないなら自分が探しても無駄だ)」というエピソードがあったのだそうです.そのときに科研が当たっていたら,そして,探索が行われていれば….

t_ash20t_ash20 2009/10/21 12:02 おお、あのIMD先生も同じことを考えていたとは…科学的な意味とはちょっと違いますが、世紀の大発見になったかもしれませんね。

ちなみに謝辞を見たところ、この論文はNIHのグラント頼みではなく、ボランティアの学生(おそらく指導生)総動員で証拠集めにあたったみたいです。恐るべき根性。

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