真田丸散歩、続きます。
今度こそ最終回です。たぶんね・・・。
前回は愛染堂(勝鬘院)の多宝塔についてお話ししたところで終りましたが、やはり天王寺まで来て、「四天王寺」に立ち寄らないわけにはいかないのでは・・・。ということで、天王寺で最も有名な寺院、「四天王寺」へと向いました。
途中、
現存する世界最古の企業、(株)金剛組の社屋を発見。
聖徳太子によって百済から召喚された宮大工がこの会社を興し、以来、戦乱や災害によって何度も焼失や倒壊を繰り返す四天王寺を、その度にこの金剛組が再建してきました。
現在は高松建設の子会社となっています。
そして、四天王寺。
日本仏法最初の官寺。
かの聖徳太子が、
「もしも物部氏との戦に勝てたなら、必ず四天王を祀るお寺を建てる」
と誓願し、見事勝利した後に建てたと言われているお寺です。
最近は聖徳太子の業績を見直す動きもあるので、いずれ説明が変わることもあるかもしれませんが、それにしても日本で最も古い由来を持つ寺院のひとつであることは確かでしょう。
この日もたくさんの参拝者が見られました。
なんども建て直されてはいますが、美しく印象的なお堂。
近くで見ると圧巻の存在感です。
また一般的に、この四天王寺には、西門(石の鳥居とも)から入るのですが、
その西門は特別な意味を持っています。
四天王寺西門。
ここは西方の極楽浄土に通じると言われ、真西を向いているために、彼岸にはここからまっすぐ夕陽が差します。
今でこそ、この界隈は内陸になりますが、昔はすぐそこまで海が迫っていたので、この門から眺める、西の海に沈む夕陽の美しさは、当時の人々にはさぞ神々しく見えたに違いありません。
なので、上町台地西側には「夕陽ヶ丘」の名前が冠せられています。
この「夕陽ヶ丘」という美しい地名。
私と同じ世代の人には、「ゆうひが丘の総理大臣」なんてドラマを想起させるのではないかと思います。
懐かしいですねえ・・・子どもの頃、一生懸命見ていました。
中村雅俊さんがかっこよくてね・・・。
「夕陽ヶ丘」という美しい名前を持つ土地が、大阪以外にもあるのだろうかと思いながら見ていた子ども時代を思い出します。
耳にするたびに、ふと立ち止まるように胸に響く地名「夕陽ヶ丘」。
その名前を噛みしめるために、最後にもう一つだけ、ある神社を訪ねることにいたしましょう。
「大江神社」
愛染堂(勝鬘院)のすぐ隣に位置する神社ですが、由来は古く、聖徳太子が四天王寺を鎮守するため建てた7つの宮のうちのひとつとして有名です。
境内には、
「夕陽岡」の碑も。
この碑のすぐそばには、芭蕉の句碑も建っています。
”上町台地の西端に沿う一帯は「夕陽ヶ丘」と呼ばれており、その昔、この台地のすぐそばまで海がせまり、西の海に夕日が沈み行き、茜色に染まる空の美しさにいつしか「夕陽ヶ丘」と呼ばれるようになったといいます。境内には俳句碑があり、芭蕉の句としても有名です。
あかあかと 日はつれなくも 秋の風 翁
よる夜中 見ても桜は 起きて居る 三津人
網の子の 名にやあるらん 杜宇 千季
春風の 夜は嵐に 敷れ鳧 暁臺”
(大江神社HPより)
平素、忘れがちですが、実は、大阪の歴史は京都よりもずっと古いのです。
その古い歴史の中でも、遠い、気が遠くなるほど遙か遠い昔には、この句碑のすぐそばまでが海でした。
その海に沈む夕陽を、遠い過去の日本人もやはり美しいと思ったからこそ、この地の名前が「夕陽ヶ丘」なのでしょう。
日本全国に「夕陽」の名を持つ土地がどれほどあるのか知りませんが、この土地につけられた「夕陽」の名ほど古く、そして由緒正しいものはありません。
時代も人も移り変わり、ひとつとして永遠に続くものはないけれど、西の空に沈んでいく夕陽の、空を赤く染める様を「美しい」ものとして、かけがえなく愛しむ気持ちに、時代の差があるでしょうか。
西方に極楽浄土が実在するとは言えないことを知っている現代人の私もまた、古の人々と同じく、この地の夕陽をこよなく「美しい」と感じながら、今回のお散歩を終りたいと思います。
おまけ。
大江神社にいた猫さん。
人なつっこい様子。
おまけ2
前回のコメント欄でセネシオさまとちょっぴりお話しさせていただいた真田山・
旧第四騎兵連隊の騎兵営址忠魂碑。
おまけ3
最近、知人から「マミーのブログには食べ物要素が少ない!」と指摘されました。
人一倍食べてるんですが・・・でも、食べる前に写真を撮る習慣がどうしてもつかないの・・・気づいたら食べちゃってるんだもの。
でも今回は食べる前に思い出した!写真のこと!
阿倍野ハルカス13階「中国料理桃谷樓」で食べた何か・・・。
なんだったかな?・・・とにかくおいしかったです!
おしまい。
長々と冗漫なお散歩におつきあいくださって、ありがとうございました。