NHK高校講座

世界史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:20〜2:40
※この番組は、昨年度の再放送です。

世界史

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今回の学習

第13回

十字軍の時代

  • 世界史監修:一橋大学教授 大月 康弘
学習ポイント学習ポイント

1.十字軍の背景 2.地中海と異文化交流 3.十字軍とフリードリヒ2世

  • 今回のミッションは、「十字軍の時代」

「マジカル・ヒストリー倶楽部」にようこそ!
今回のミッションは、「十字軍の時代」です。

十字軍とは、11世紀から13世紀、キリスト教の十字を掲げてイスラームの領域に侵攻した軍隊のことです。

眞鍋さん 「宗教的な対立ということだね。前回は、西ヨーロッパがキリスト教を中心にまとまっていった様子を見たよね。」

永松さん 「それが一歩進んで、西ヨーロッパが外の世界へと膨張し、イスラーム世界と激しく衝突しました。これは、今の社会にも繫がる、大きな出来事でした。」

  • 訪れる場所と時代
  • 文化の衝突と交流

今回のビューポイントは、

1.十字軍の背景
2.地中海と異文化交流
3.十字軍とフリードリヒ2世

の3点です。

訪れる場所は、地中海を中心とした西ヨーロッパから中東にかけて。時代は、11世紀から13世紀後半です。

まずは、地中海の東にある、エルサレム旧市街を訪れます。
ユダヤ教、キリスト教、イスラームの3つの宗教の聖地です。
しかし、今も多くの宗教的な対立が起こっています。

これまで、エルサレムをめぐって、さまざまな民族が争ってきました。
そのきっかけとなったのが、11世紀末に始まった十字軍の遠征でした。

そして、地中海に浮かぶ美しい島、シチリア島を訪ねます。
ここは、ヨーロッパ各地と中東やアジアを結ぶ貿易の要衝として栄え、文化の交差点といわれています。

地中海を舞台とした、文化の衝突と交流の歴史を知る旅に、出かけましょう!

  • 十字軍の時代

眞鍋さん 「地中海っていうと、リゾート地も多いし、温暖な気候で良いところだなって感じがするよね。でも、宗教の対立が起こった舞台でもあったんだ。」

永松さん 「僕も歴史を調べてみて、地中海の意外な側面を知ることができました。今回の十字軍の時代は、11世紀末から約200年続いたんです。十字軍の遠征は、地中海を中心とした地域で行われました。」

1.十字軍の背景
  • エルサレム旧市街
  • 3つの宗教の聖地が集まっている(空撮)

マジカル・ヒストリー・ツアー、最初に訪れるのは、地中海の東にある世界遺産「エルサレム旧市街」です。
1キロメートル四方の城壁に囲まれ、その中に、3つの宗教の聖地が集まっています。

  • 嘆きの壁
  • 聖墳墓教会
  • 岩のドーム

一つは、ユダヤ教の神聖な祈りの場所、嘆きの壁です。(左写真)
次に、イエス・キリストの墓とされる、聖墳墓教会があります。(中央写真)
そして、イスラームの預言者ムハンマドが天に昇ったと伝えられる、岩のドーム(神殿の丘)です。(右写真)

ここでは現在も、宗教的な対立を背景に、緊迫した争いが絶えません。

いったいなぜ、ここで宗教の対立が起こったのでしょうか。
その背景を探るために、マジカル・ジャンプ!

  • セルジューク朝がエルサレムを占領

11世紀ごろ、ローマ・カトリックのキリスト教は、西ヨーロッパに広く普及していました。
人々の宗教への情熱は高まり、聖地への巡礼が盛んに行われました。
キリスト教の聖地の一つが、イエス・キリストの墓があるとされる聖墳墓教会のある、エルサレムでした。

エルサレムは、7世紀から、イスラーム勢力の支配下にありました。
しかし、ユダヤ教徒やキリスト教徒たちとも、おおむね平和に共存していました。

11世紀後半、イスラームのセルジューク朝が発展し、領土を広げてきました。
そして、1077年、エルサレムを占領します。
さらにセルジューク朝は、ビザンツ帝国の領土を次々に奪っていきました。

  • ウルバヌス2世
  • 第1回十字軍 出発

セルジューク朝の進出に対して、ビザンツ帝国の皇帝は、ローマ教皇ウルバヌス2世に救援を求めます。

1095年、フランスのクレルモンで、聖職者たちの会議が行われました。
そこで、ウルバヌス2世は、聖地エルサレムを奪還しようと呼びかけました。

西ヨーロッパの王侯や騎士たちが、教皇の呼びかけに応えて集まりました。
1096年、第1回十字軍が、エルサレムの奪還を目指して出発します。

  • エルサレム王国建設
  • ジハード

エルサレムに着いた十字軍は、多くの犠牲者を出しながら、1099年に聖地を占領します。
そして、エルサレム王国を建てました。

このとき、多くのムスリムが殺されたといわれています。
イスラームの指導者は、異教徒に対する聖なる戦い「ジハード(聖戦)」を呼びかけました。
そして、1187年、イスラーム勢力が聖地を奪回します。
それに対して、ローマ教皇は、再び十字軍を招集しました。

当初、キリスト教徒の信仰心で支えられた十字軍でしたが、次第に教皇の政治的野心や諸侯たちの領地獲得のために行われるようになっていきました。
こうした十字軍の遠征は、200年近くの間に7回行われ、キリスト教とイスラームは激しい衝突を繰り返したのです。

  • 11世紀ころから農業生産力が向上し人口が増加
  • シチリア島

眞鍋さん 「今でも、イスラームとキリスト教世界の対立が残る地域はあるよね。この中世の十字軍が、その遺恨の一つになっているとしたら、根深いものがあるんだね。」

永松さん 「そうですね。十字軍の背景の一つに、11世紀ごろからヨーロッパで農業生産力が向上し、人口が増えたことがあります。このためヨーロッパ以外の世界の土地や富を求めるようになったという面もありました。」

眞鍋さん 「そんな事情があったんだ。」

永松さん 「しかし、キリスト教とイスラームが敵対するという、不幸な歴史ばかりではありませんでした。同じ時代、地中海では、共存する場所もあったんです。それが、地中海の中心、シチリア島です。(右写真)シチリア島は、異なる文化が交錯する場所でした。」

眞鍋さん 「シチリア島って、すごく人気の高い旅行先でもあるけど、意外な感じがするね。」

2.地中海と異文化交流
  • シチリア島の地図と景色
  • ノルマン王宮

マジカル・ヒストリー・ツアー、続いては、地中海の中心に位置するシチリア島を訪れます。

右写真は、12世紀にシチリアを治めていたローマ・カトリックの国、シチリア王国の王宮です。
この王宮には、キリスト教のイコン(聖像画)が描かれている一方で、イスラーム風の絵柄も描かれています。

なぜ、キリスト教の国に、イスラームの文化があったのでしょうか。
その理由を紐解いてみましょう。マジカル・ジャンプ!

  • 地中海勢力図
  • ルジェーロ2世

12世紀に、シチリア島を支配していたのは、ノルマン系の人々が建てたシチリア王国でした。
シチリア王国初代の王、ルジェーロ2世は、キリスト教を信仰していました。
しかし、ルジェーロ2世は、イスラームの高い文化や知識も大切にしました。

  • アラブ人の書記
  • イスラーム風の絵柄

シチリア王国では、役人や軍人に多くのムスリムを登用し、彼らと共存していました。
ムスリムの他にも、ラテン系やギリシア系の人々など、多くの民族が宮廷で働いていました。
ここでは、数学や天文学などの進んだイスラームの文化や、西ヨーロッパでは忘れられてしまった古代ギリシアの文化を大切にしてきました。

シチリア王国では、イスラームとキリスト教の人々は共存していました。
王宮に描かれたイスラーム風の絵柄は、高い文化で王位に仕えてきた、イスラームの人々を描いたものでした。

  • フリードリヒ2世

眞鍋さん 「両方の文化を大切にしてきたからこそ、発展したというのが、シチリア王国だったんだね。」

永松さん 「このシチリアでの共存は、当時としては、かなり異例なことだったそうです。しかし、このシチリアの国王が、なんと十字軍を率いることになってしまったんです。それがシチリア国王、フリードリヒ2世です(上写真)。」

眞鍋さん 「すごく苦しい立場だけど、フリードリヒ2世、ここからどうするのかな?」

3.十字軍とフリードリヒ2世
  • ローマ教皇から皇帝の冠を授かる
  • 第5回十字軍

幼くしてシチリア王となった、フリードリヒ2世の周りには、多くのムスリムがいました。
フリードリヒ2世は、アラビア語も流暢に操るようになり、数学や科学技術などイスラームの高度な文化も吸収して育っていきました。

しかし、1220年、フリードリヒ2世に大きな転機が訪れます。
ローマ教皇から、神聖ローマ皇帝の冠を授かることになりました。
そして、教皇から、十字軍を率いて聖地を奪還する命令を受けます。それは、イスラームの人たちと戦うことを意味していました。

  • アル・カーミル

フリードリヒ2世は、聖地奪還のためにエルサレムに向かいます。第5回十字軍(1228年〜1229年)です。
戦いの相手は、アイユーブ朝の君主、アル・カーミルでした。
たびたび十字軍の侵攻を退けてきた英雄です。

イスラームとの戦いを避けたかったフリードリヒ2世は、武力を使わず、外交交渉による平和的な解決を試みます。

フリードリヒ2世は、アル・カーミルにアラビア語で手紙を書きました。
まずは、イスラームの文化など共通の話題から始め、二人の距離を近づけていこうとしました。

これに、アル・カーミルは驚きます。
フリードリヒ2世は、アラビア語を流暢に操り、しかもイスラーム文化を深く理解している。
アル・カーミルは、フリードリヒ2世の明晰(めいせき)さや人柄に、次第に惹かれていきました。

そして、フリードリヒ2世は、率直な要求をアル・カーミルにぶつけました。
「私に、エルサレムを引き渡してくれ。引き渡さない限り、私は国に帰れない。キリスト教徒に対して、面目が立たないのだ。」

しかし、ムスリムに配慮しなければならない立場にあるアル・カーミルは、難色を示しました。
それでもフリードリヒ2世は、粘り強い交渉を重ねます。その交渉は、5ヶ月に及びました。

  • 第1条
  • 第2条

そして1229年、フリードリヒ2世は、ついにアル・カーミルとの平和条約締結の合意に達しました。
このときの条約には、以下の内容が書かれています。

第1条
「イスラーム王朝の君主 アル・カーミルは、神聖ローマ皇帝 フリードリヒ2世が、エルサレムを統治することを認める」
これは、フリードリヒの要求を受け入れたものです。

一方、第2条には、アル・カーミルの立場が盛り込まれています。
「神聖ローマ皇帝 フリードリヒ2世は、イスラームの聖地・神殿の丘を侵してはならない」

こうして、エルサレムの大部分はキリスト教徒に譲渡されましたが、神殿の丘はムスリムの手に残りました。

  • 聖墳墓教会と神殿の丘が並ぶエルサレム

十字軍の時代、エルサレムをキリスト教徒とイスラームで共に統治するという考え方は、それまでにない新しい発想でした。
フリードリヒ2世は、十字軍の歴史の中で唯一、戦うことなく話し合いを重ねることによって平和条約を結ぶことに成功したのです。


眞鍋さん 「フリードリヒ2世、かっこいいね。それを受け入れた、アル・カーミルもすごい。これで、イスラームとキリスト教の対決は、いったん収まったんだ。」

永松さん 「そういうことです。」

眞鍋さん 「お互いの文化を尊重し合えば、うまくやっていけるんだということを、この二人が証明してくれたね。」

Deep in 世界史
  • 大月 康弘先生
  • 十字軍の遠征は7回行われた

マジカル・ヒストリー倶楽部の歴史アドバイザー、大月 康弘先生(一橋大学 教授)に歴史の深い話をうかがいます。

眞鍋さん 「イスラームとキリスト教の対立は、すごく平和的な形で解決したんですね。」

大月先生 「フリードリヒ2世とアル・カーミルは、非常に器の大きい人たちでした。彼らは、10年ほど、エルサレムで平和的に共存しました。ところが、フリードリヒ2世が国へ帰ると、激しく攻撃を受けました。共存なんてありえない、という声があったようですね。」

眞鍋さん 「共存ではだめだという人たちも、多かったんですか?」

大月先生 「そうです。フリードリヒ2世は、それで破門されました。軍隊を差し向けられて、大変な目に合ったようです。」

永松さん 「あれでうまくいって、平和で終わりじゃないんですね。」

大月先生 「残念ながらアル・カーミルの方も、イスラーム世界から非難があり、難しい状況に置かれたようです。その後、(また宗教対立が起こり)十字軍の派遣が続きました。

  • ヨーロッパに一体感が生まれた
  • イスラーム世界に反感が芽生えた

十字軍は、キリスト教とイスラーム世界の双方に、非常に大きな影響を与えたといいます。

大月先生 「ヨーロッパでは、“キリスト教徒” としての一体感が人々の中に生まれました。それまで人々は、広いヨーロッパで、それぞれ地域単位に生きていました。その人たちが、自分たちはキリスト教徒なのだという一体感を持つようになったことは、大きな出来事でした。ヨーロッパ人としての一体感を持ったと言っていいかもしれません。他方で、イスラームの世界は、西の方から十字軍がやってきて攻撃を受けました。そのため、イスラーム世界の人々の中に、キリスト教に対する反発や反感が芽生えてしまいました。これは、残念なことでした。」

眞鍋さん 「それは、今にも残ってしまっている部分があるんですか。」

大月先生 「歴史の記憶としては残っていますね。」

2人 「どうもありがとうございました。」

  • 次回もお楽しみに

眞鍋さん 「歴史に “もしも” はないけど、あの平和的な解決のところでそのままいっていれば、今は違った世界があったかもしれないね。」


それでは、次回もお楽しみに〜!

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