朝のリレー(谷川俊太郎「谷川俊太郎詩集 続」思潮社 より)きりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は
朝もやの中でバスを待っている
この地球で
いつもどこかで朝がはじまっている
ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交換で地球を守る
それはあなたの送った朝を
映画を見終わって思い出したのはこの超超有名な詩だった。コーヒーを飲みたくなるだろうか。
こういう風に考えた。
カムチャッカの若者がきりんの夢を見ているとき、『すず』はご飯を作っている。
ニューヨークの少女がほほえみながら寝がえりをうつとき、『すず』は絵を描いている。
すずはあまりにも普通過ぎて、逆に特殊なキャラクターだと思う。物語の主人公キャラではない。日常アニメなら主人公(美少女)が可愛がる同性(美少女だけど眠そう)みたいなキャラ。戦争映画には出てこなかった雰囲気を持つキャラだ。ぼやっとして実業家になる雰囲気も無いので、朝ドラ主人公にもなれない。
でもだからこそ、今のぼんやり生きている自らと重なる。古典的な女性の価値観を描いたら、もしかしたら現代的な日本人になったのかもしれない。
勿論映画にも出てくる徑子義姉さんみたいな人も居ただろう。多くいただろう。しかしあえて、戦争のことなんてなんにも分かってない「すず」が主役になっている。
原作からして、年号と月日が合致して連載されていたというから驚きだが、この作品はつまり身近に戦時中を生きる人たちのことを思えるのだ。
そして身近だからこそ、今もなお世界中で起きる戦争の真下に「すず」が居ると気づかされる。
すずが呉に住んでいるという設定は、上手く出来ていると思う。彼女が生き延びたという事実が、「希望」という言葉ではなく、例えば「絆」だったり「繋がり」だったり「リレー」なんかを表している。彼女のように生き延びた人が居るから自らが生まれているということも実感できるのだ。
心底、世界中にいるすずさんに生きていてほしいと思う。
普段からそういうことを考え生きている人にとっては、「それまで戦争について考えてこなかったのか」と怒られるだろう。
ああ、そうだ。と、この映画を見て思った。何処か遠い世界の片隅の話だと思っていた。
しかし片隅は今自分がいる場所なのだ。それはテロが横行している場所にもある。
映画を見て価値観が変わるというのは、こういうことなのだと実感した。
すずさんはまだ現在も生きている(という設定)らしい。彼女の生きている国に今立っているのだと実感する。
と、まぁここまで書いたのだが何故こういうことが考えられたか?
それはこの映画が最後まで集中してのめり込むように鑑賞できる作品だからだ。
要は、面白いのだ。
別に価値観が変わったところで生き方が変わるわけでも無い。ただ飯を食って寝るだけだ。すずのようにぼんやり生きているので、デモとかそういうことに参加する気にはなれない。(ただなにか他に手立てがあるのではないか、とは考えるくらい)
だからここまで話題になったわけだし、一度は見ていて損は無いと思う。