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【検証・文革半世紀 第2部(6)】工場労働者や農民が一夜にして国家指導者に栄転 脚光浴びるも投獄、故郷に戻れない悲劇も…

【検証・文革半世紀 第2部(6)】工場労働者や農民が一夜にして国家指導者に栄転 脚光浴びるも投獄、故郷に戻れない悲劇も…

 中国の文化大革命(文革)では、多くの中国共産党や政府の幹部が失脚した。それに伴い副首相や閣僚などの重要ポストが空席となり、最高指導者の毛沢東が「人民の模範」と称賛した工場労働者や農民が次々と起用された。一夜にして庶民から国を率いる立場になった者も少なくない。

 陝西省の機械工場の工員、姚連蔚(ようれんい)は熱心に毛沢東思想を学んだとして、文革中の1969年に党中央委員候補に選ばれた。その5年後には、41歳の若さで全国人民代表大会の常務委員会副委員長(国会副議長に相当)に起用された。「出身地、職業、性別、年齢などのバランスを考慮すれば、最もふさわしい」と理由を説明されたという。

 重要会議があれば基調講演を行い、海外の要人が訪中すれば会談しなくてはならない。「中卒の私はこれまで、国や世界のことを考えたことがなかった。自分の発言や判断が歴史の教科書に記録されるかもしれないと考えると、毎日、針のむしろに座る思いだった」。姚は後に、当時の心境を振り返った。

 姚と同じ時期に抜擢された庶民の代表は他にもいた。遼寧省の商店で野菜を売っていた李素文は42歳で全人代副委員長に就任。陝西省の紡績工場で働いていた女性の呉桂賢は37歳で副首相になった。中でも最も知名度が高いのは、60歳で副首相となった農民代表の陳永貴だ。

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 山西省の山村、大寨(だいさい)の党支部書記だった陳は、村民を率いて山の中腹に段々畑を作った。厳しい自然を克服し、毛沢東に「刻苦奮闘の見本」と評価され、「農業は大寨に学べ」運動が全国で展開された。毛と握手する写真が人民日報に掲載され、陳は英雄視された。

 副首相になっても、陳は生活様式を変えなかった。身の回りのことは自分でやり、外遊先のホテルでも自ら寝具を片付け、部屋を掃除して朝食も作った。「電気がもったいない」と、ホテルの廊下の電気を消したこともあったという。

 陳の担当は農業。当時の農民7億人の生活に直結する政策を担う重要な仕事だ。しかし、字がほとんど読めない陳は、部下の報告書を秘書に読み上げさせて判断していたとされる。

 故郷の友人が北京の陳を訪ねると、ほとんど内容も見ず、次々と書類に決裁の署名をしていることに驚き、「読まなくていいのか」と尋ねた。陳は「周恩来首相やほかの副首相が、みなサインした書類だから大丈夫だ。彼らを信用している」と説明したという。

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 文革後の●(=登におおざと)小平ら老幹部の復権に伴い、姚や陳のように、にわかに国の指導的立場になった者はすぐに解任された。それだけではない。「文革推進派」の一味として査問を受け、投獄されるケースもあった。

 「私は政治に興味はなく、指導者になる気は全くなかった」。そう訴え続けた姚は2年半の獄中生活をへて釈放された。「工場の労働者に戻りたい」との願いも聞き入れられず、長い間、無職のままだった。

 一方の陳も晩年、故郷の山西に戻ることは許されなかった。北京郊外の農場の顧問という肩書で、実質上の軟禁生活を余儀なくされた。86年に71歳で死去するまで、毛沢東を敬愛してやまなかったという。(敬称略)

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