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【検証・文革半世紀 第2部(4)】数多くの冤罪に怒り 死刑牢から生還した男「死んだ仲間を後世に伝えるのが私の使命」

【検証・文革半世紀 第2部(4)】数多くの冤罪に怒り 死刑牢から生還した男「死んだ仲間を後世に伝えるのが私の使命」

文革中に処刑された有名な死刑囚

 文化大革命(文革)始動後の1968年夏。北京にある名門、中央美術学院の大学生だった張郎郎が逮捕され、「死刑牢」に入れられた。当時の中国の裁判は一審制で、死刑牢に入ることは死刑確定とほぼ同意義だった。

 毛沢東夫人、江青を批判したことを意味する「党中央指導者に悪辣(あくらつ)な攻撃を加えた」罪などに問われたが、納得しなかった。「江には毛沢東との結婚前、別の恋人がいた」などと、両親から聞いた話を仲間にしただけだった。

 張の父親は中国共産党の古参幹部、張●(=にんべんに丁)。有名な芸術家でもあり、中華人民共和国の国章の設計者として名高い。母親は首相、周恩来の秘書だった。文革により特権階級から地獄に突き落とされたのだ。

 「今にして思えば、党中央の権力闘争に巻き込まれていた。江青らが父に近い老幹部たちを失脚に追い込もうとしていた」

 70年5月、張は死刑牢から出された。彼の母親を知る周恩来が「生き証人を残せ」と指示したのが理由のようだ。さらに刑務所で7年以上を過ごし、文革終了後の77年に出獄した。張は70歳を超えた今も健在だ。

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 「お前は国を裏切った」 取り調べで張を怒鳴った担当警察官は、高級幹部の子弟である「太子党」の仲間で幼なじみの兪強声だった。元第1工業相、兪啓威を父親に持ち、国家安全省の局長級幹部まで出世したが、86年に多くの国家秘密を携えて米国に亡命。本当の意味で国を裏切ったのは彼の方だった。強声の弟、兪正声は現在、共産党最高指導部で序列4位の全国政治協商会議主席を務める。

 「少年時代の仲間たちは、みな浮き沈みの激しい人生を送っている。この国に生きていると、何が正しいのか、何が間違っているのか分からなくなる」。張は苦笑した。

 文革は数え切れないほどの冤罪(えんざい)を生んだとされる。処刑された政治犯の数についての統計はないが、断片的な資料として、70年2月から11月の10カ月に全国で28万5000人が「反革命」で逮捕されたという統計がある(中国国情総覧)。そのうちの多くが処刑されたとみられる。

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 張が死刑牢で出会った人物のほとんどが政治犯だった。中でも「反文革の闘士」といわれた遇羅克は最も印象に残っているという。知識人を両親に持つ遇は、受験で清華大学の合格ラインに達したにもかかわらず、「出身が悪い」との理由で入学が認められなかった。党幹部の子弟や労働者家庭の出身者が重要視されていたからだ。

 遇はこうした血統主義に反旗を翻し、書いた論文を北京の大通りに壁新聞として張り出した。「党に悪辣な攻撃を加えた」との容疑で逮捕されるまでに、そう時間はかからなかった。

 張によれば、死刑牢に入れられた人の大半は頭の中が真っ白になり、激しく動揺してしまう。しかし、遇は詩を書くなどして最後まで取り乱すことはなかったという。

 「世の中の理不尽さと戦う勇気を持っていた。死刑牢の中で最も尊敬を集めていた」。張がそう評する遇は70年3月、27歳の時に処刑された。

 一方、出獄後に名誉回復された張は母校で数年間、教鞭(きょうべん)を執った後、香港を経て米国に渡り、米国の国籍も取得した。現在は評論家として米中両国を往復する生活を送っている。

 「死刑牢での経験や、死んだ仲間たちのことを後世に伝えることは、私の使命だと思っている。あのような時代を二度と繰り返さないために」。張は語気を強めた。   (敬称略)

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