【検証・文革半世紀 第2部(3)】追放された産経の柴田記者「これは権力闘争だ」 中国の実態を壁新聞から看破 一党独裁のいまも同じことが起きる
防寒帽とオーバーに身を包み、凍りそうになるボールペンの先に息を吐きかける。「あれは何という字か」。地方から来た紅衛兵と肩を寄せ合い、読みにくい字を尋ね合い、メモをとった。
北京支局長を務めた柴田穂(1930~92年)が67年秋の帰国直後、当時のサンケイ新聞で連載した「わたしは追放された」の一場面だ。柴田が書き写したのは北京市内に連日、張り出された壁新聞だった。
「この国はどうなっていくのだろう」。当時高校生だった60代の女性も毎日、そんな思いで北京大学などに出かけて壁新聞を読んだという。「政治が激しく変化し、指導者が突然、失脚することがよくあった。壁新聞は当局の発表に先駆けて動向を伝えていた」
地方出張も中国共産党幹部のインタビューも許可されなかった柴田は、始動したばかりの文化大革命(文革)の実像に迫るべく、壁新聞を書き写し続けた。文革支持派と実権派が激突した「武漢事件」(※1)の一報を人民日報が1面で伝えたときも、壁新聞は前もって伝えていた。
「壁新聞をみていなかったならば、一体何が起こったのか見当もつかなかったろう」。柴田は連載で振り返っている。
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「一大権力闘争の開始だ。1面トップ!」
文革開始直後の66年6月。共産党の重鎮だった彭真(※2)が北京市長を解任されたというニュースが流れたとき、東京の外信部記者だった柴田は即座にこう叫んだといわれる。
その3カ月後、北京支局長として中国に赴任して文革の進行を活写した。しかし、柴田はその核心を突く報道のために中国から追放される。1年後の67年9月のことだった。
その後、産経新聞は31年にわたり、北京に常駐記者を派遣できなかった。二度と中国で取材することができなかった柴田は後にソウルに赴任、韓国語を学んで朝鮮半島の専門家となった。
共同通信記者として柴田と親交があり、産経新聞の中国総局開設後に総局長を務めた伊藤正は、「中国語が堪能で、何よりも記者としてセンスはすばらしく、予見も分析も群を抜いていた。本人は中国報道に携われないことを悔しがっていた。日本にとって大きな損失だ」と語った。
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日本の“進歩派”論壇がもてはやした文革。しかし、柴田はいち早く本質を見抜いていた。先の連載でも、文革とは「劉少奇氏を頂点とする“党内実権派”打倒の政治闘争である」と言い切っている。
だが、朝日新聞は67年8月の社説で、文革について「積極的な意義をも、無視するわけにはいかない」とし、「派閥争い的な意味での権力闘争とみる考えかた」には、賛同しがたいと書いていた。
党副主席だった林彪(※3)の失脚についても、柴田が71年11月26日付で「ほぼ確定的となった」と書いたのに対し、朝日は同年12月4日付でも、「党首脳の序列に変化があったのではないか、と断定するだけの根拠は薄い」としていた。
中国の文化大革命(文革)について、朝日新聞などは「“道徳国家”ともいうべきものを目指す」(1966年5月2日付社説)といった見方を示してきた。影響を受けた日本の学生らは文革に好印象を抱き、毛沢東を偉大なる指導者だと持ち上げた。紅衛兵のスローガン「造反有理」などを合言葉に、日米安保やベトナム戦争などに反対する運動を展開する学生もいた。
しかし、当時の中国で文革の惨状を目の当たりにした日本人は、国内の学生らと全く違った印象を持つ。
「紅衛兵たちが、校庭で学校の先生たちに殴る蹴るの暴行を加えていた。尊敬する先生たちは悲鳴をあげて逃げ回っていた。何が始まったのか全く理解できず、息をのんでみていた」
北京の芸術系大学に留学した日本人女性は66年夏、学校のトイレに隠れて、窓から目にした光景が今も忘れられない。
教師に対する批判大会やつるし上げは当初「中国の内部問題」とされ、外国人留学生には伏せられたが、やがて当局は気にかけなくなり、学校中で毎日のように暴力沙汰がみられるようになった。授業はなくなり、教師たちは雑巾などを持たされてトイレ掃除をさせられた。
「この国ではおかしなことが起きている。こんなことをして社会がよくなるのか、人民は幸せになるのか」。答えを見つけたくて、必死で毛沢東の著書を読んだが納得できなかったという。日本の左翼活動家の家庭に育ち、社会主義中国や毛沢東に好印象をもっていたこの女性は、やがて中国共産党に幻滅した。
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文革の異様さをいち早く見抜いた日本の文化人もいた。作家の川端康成、石川淳、安部公房、三島由紀夫の4人は文革開始から9カ月後の67年2月28日、「文化大革命に関する声明」を連名で出した。
「時々刻々に変貌する政治権力の恣意(しい)によって学問芸術の自律性が犯されたことは、隣邦にあって文筆に携はる者として、座視するには忍ばざるものがある」。声明文は三島由紀夫が起草した。
文芸界の大御所、郭沫若が「私が以前に書いた全てのものは、厳格に言えば全て焼き捨てるべきで、少しの価値もない」と自己批判した内容が日本に伝えられた。また、65年に中国作家代表団の団長として訪日し、日本の作家らと親交を深めた北京市文連主席の老舎が帰国後、消息を絶ち、連絡が取れなくなったことで、三島らは中国で学問・芸術の自由が圧殺されていると判断したようだ。
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当時の日本には伝えられていなかったことだが、三島らの声明文が出る前の66年8月、紅衛兵から暴行を受けた老舎は、北京郊外の湖で入水自殺していた。老舎同様、文革中に自殺した作家や芸術家、スポーツ選手、俳優などの著名人は少なくとも数百人に上ることも、後に明らかになった。
中国の改革派知識人は、「中国全土が狂気と破壊と虐殺で満ちていたとき、当局の宣伝にまどわされず、冷静なまなざしで真実を書き続けた柴田穂記者や、隣国の言論・芸術の圧殺に声をあげてくれた日本の作家たちに敬意を表したい」と語り、こう続けた。
「一党独裁体制はいまも続いており、この国でまた文革のようなことが起きる可能性がある。これからも人権問題などに関心を持ち続けてほしい」(敬称略)
【用語解説】
※1武漢事件 1967年7月、武漢で軍を巻き込む抗争から文革支持派が軟禁、拉致された事件。被害者は18万人ともいわれる。
※2彭真(1902~97)51年から北京市長を務め、66年に失脚。復権し長老の一人として活躍した
※3林彪(1906?7~71)軍人出身。55年に元帥。毛沢東の後継者に指名されたが毛と対立し、海外逃亡中に墜死。