【検証・文革半世紀 第2部(2)】反腐敗・粛清の裏で租税回避 高級幹部の特権は“中国の伝統” 時代変わり毛沢東の姪は資本家に
中国河北省の海辺の避暑地、北戴河。中国共産党の老幹部や指導層がこの地で非公式会議を開き、数々の重要方針を決定してきた。2007年には現首相、李克強を抑えて習近平が最高指導者に就くことが決まったことで知られる。今夏に開かれる会議について、共産党関係者が語った。
「党内の非主流勢力が問題を厳しく追及し、運営に疑義を唱えようと画策しているという話がある」
問題とは、世界中の政治家や企業がタックスヘイブン(租税回避地)を利用している実態を記した「パナマ文書」のことだ。暴露から約2カ月が過ぎ、中国国内で静かに波紋が広がっている。
文書には国家主席、習近平の義兄をはじめ、序列5位の政治局常務委員、劉雲山や序列7位の筆頭副首相、張高麗の親族の名があった。元首相の李鵬、元国家副主席の曽慶紅ら、少なくとも5人の元指導者の親族も登場する。当局はインターネット上で文書に関連する言葉の閲覧を禁じているが、電子メールや口コミで内容が拡散した。
現指導部は約3年にわたり、全土で「反腐敗」キャンペーンを展開し、多数の党官僚を失脚させてきた。それだけに、国民の不信感の深さは想像に難くない。
「指導者の親族が租税回避地を利用したのは、節税だけでなく、特権を利用して手にした巨額の資産を隠すためだと、多くの国民が知っている」。別の共産党関係者が証言した。
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パナマ文書は、近年の歴代指導部メンバーの親族が不正蓄財に手を染めてきた可能性をうかがわせる。しかし、高級幹部の特権はいわば中国の伝統だ。1966年から10年に及んだ文化大革命(文革)の時代、毛沢東の周辺もぜいたくな暮らしを送っていた。
王朝時代からある北京市中心部の北海公園と景山公園が突然、閉鎖されたのは69年のことだった。晩年、乗馬に入れ込んだ毛夫人の江青が「練習場が欲しい」と言ったためだ。要職にあった江青は多忙を極めたため、2つの公園はやがて毛沢東の子供や、その友人である共産党幹部の子弟らが遊ぶ場所となった。
公園だけではない。北京市中心部の北京病院も文革中、党幹部の専用病院に指定され、一般外来を排除した。北京の銀座と称される王府井の最大級のデパート、北京百貨大楼の4階は、高級幹部とその家族の「特供商店」に指定され、市民とは無縁の外国製高級時計や香水などが格安の値段で売られていた。
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一般市民が毎日のように毛沢東語録を暗唱した文革期、恵まれた生活を送った毛沢東の子孫は今、一般市民とほとんど変わらない暮らしを送っている。毛の死去後、復活したトウ小平により文革路線が実質的に否定され、党などの要職からも外されたからだ。
半面、江青の一言で貸し切り状態となった公園で、毛沢東の子供らと夏は釣り、冬はスケートに興じた子弟たちは現在、「太子党」と呼ばれる共産党内の一大勢力にのし上がった。
文革は党幹部はおろか、その子弟や一族の命運をも左右し、今も中国を広く覆っている。
北京の南郊に「韶膳」という大きなレストランがある。店の名は毛沢東の故郷である湖南省韶山の料理という意味だ。毛が好んだ食べ物を出すのが売りで、全国各地からファンが大型バスでやってくる。
巨大な毛沢東像が迎える店に入ると、毛をたたえるスローガンや語録が張られ、文化大革命(文革)を今に伝えている。創業者の毛小青は60代前半になる毛沢東の姪(めい)で、毛一族の中で唯一、ビジネスの世界で成功した人物だ。
約20年前に商売を始めるときには、大いに迷ったという。毛沢東は資本家を排斥し、貧しい農民や労働者を率いて革命を起こした。その親族が事業を行ってよいものか-と思い悩んだ。
背中を押したのは毛の次女で70代の李(り)訥(とつ)。「時代が変わったのだから、思い切ってやった方がよい。毛家のみなが支持する」と言葉をかけたという。
李訥はしばしば母親が違う毛沢東の長女、李敏と「韶膳」を訪れる。文革中、犬猿の仲といわれた2人は和解し、毛の墓参にも毎年一緒に行くとされる。
「韶膳」には強力なライバルがいる。同じく毛沢東ブランドで知られるレストラン・チェーン「毛家菜」だ。晩年の毛の身の回りの世話をした秘書、張玉鳳が創業した。「自分こそ毛沢東の味の好みをよく知っている」と主張し、シェア争いを展開しているという。
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毛沢東の死去後、文革路線の否定により一族の運命は一転した。軍幹部だった長女の李敏は退職後、入院するにも親族から費用を借りるほどの貧しさだった。数年前、長女の孔東梅が著名企業家と結婚し、経済的支援を受けるようになり、生活が楽になったという。
文革を推進した江青を母親に持つ李訥はかつて、「公主」(お姫さま)ともてはやされた。北京大学を卒業して軍機関紙「解放軍報」の見習い記者となったその1年後、「毛沢東思想を裏切った」として編集幹部らを失脚に追い込み、自ら編集長に就任した。
時の人物として脚光を浴びたが、文革後の暮らしは暗転。北京市郊外の刑務所で服役する江青と面会するにもバスを何度も乗り継ぎ、往復に丸1日かかったという。
後年、迫害した解放軍報の元編集幹部らに「謝罪したい」と申し入れたが、「会う気にはなれない」と拒まれた。文革の負の遺産の重さを物語る後半生だ。
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生存する毛沢東の孫の中に1人だけ男の軍人がいる。2010年に少将に昇進した毛新宇だ。軍付属の研究機関、軍事科学院の副部長という地位にあるが、軍関係者は「名誉職に近い」とした上で、「毛沢東の影響力を考えれば、その子孫を1人ぐらい将軍にする必要がある」と話した。
複数の女性との間で多くの子供を残したとされる毛沢東が認知した子供は、2男2女の計4人。新宇は2男、岸青の一人息子だ。
中国誌「炎黄春秋」2013年9月号は、毛新宇は人工授精で生まれたとする寄稿を掲載した。特別医療チームを統括した軍総参謀長の長男が、父親の日記を元に執筆した寄稿によると、毛沢東の心情を推し量った首相の周恩来らがひそかに計画を進めた。
しかし、孫の誕生の知らせを受けた毛沢東は、「ああ、世界でものを食べる口が1つ増えた」とだけ述べ、あまり喜ぶ様子も見せず、死ぬまで面会しなかったという。西洋医学を好まない毛沢東は人工授精に抵抗があったとの説もある。 (敬称略)