【検証・文革半世紀 第2部(1)】紅衛兵世代が今の中国を動かしている 「暴力信仰」なお 高級幹部の子弟は責任問われず横の連携で次々出世
「あのビンタ事件が中国の政治も私の運命も変えてしまった」
5月初旬、北京市内のレストラン。50代で退職させられたという元重慶市幹部の男性がため息をついた。
ビンタ事件とは2012年1月末、重慶市トップの中国共産党委書記だった薄煕来が、同市公安局長だった王立軍の横っ面に平手打ちを食らわせた出来事をさす。「(薄の妻が)英国人企業家の殺害事件に関わったかもしれない」。こう報告した王に、薄は部下らの面前で怒りをぶつけた。
「このままでは殺されてしまう」。王は1週間後、四川省成都市の米国総領事館に駆け込んだ。それに伴い、薄一家の不正蓄財や英国人実業家殺害の詳細が次々と明るみに出て、薄の失脚につながった。
当時の最高指導者、胡錦濤の周辺と確執があった薄の失脚。権力闘争との見方も出たが、王立軍の駆け込みがなければ、党最高指導部入りも有力視されていた薄を追い詰めるのは難しかったといわれる。
薄の直属の部下だったため重慶市の職を追われ、昔の仲間とも縁遠くなったという冒頭の男性が言った。
「薄氏は結局、紅衛兵から脱皮できなかった」
■
共産党の長老、薄一波の次男である薄煕来は文化大革命(文革)が起きた1966年には高校生だった。全国が大混乱に陥るなか、薄は幹部子弟の仲間らと紅衛兵組織を立ち上げた。「命をかけて毛沢東思想を守る」との合言葉の下、教師をつるし上げ、知識人に三角帽子をかぶせ、街頭で引き回すといった“造反活動”に加わった。薄は軍用ベルトを振り回して人を殴るなど、特に乱暴だったと同級生が振り返る。
翌年春、父親の一波が失脚した。薄は「親子の縁を切る」と宣言し、批判大会では壇上の父親に跳び蹴りをして肋骨(ろっこつ)を3本へし折ったという。文革後、親子は和解し、薄は復権した父親らの力を借りて出世したが、「暴力を信仰する紅衛兵的なやり方は最後まで変わらなかった」と証言する者もいる。
■
習近平指導部の主要メンバーは、文革中に青春時代を過ごした紅衛兵世代に当たる。薄より4歳年下の習近平は文革開始時、中学1年生だった。副首相を務めた父、仲勲がその数年前に失脚したこともあり、紅衛兵組織の正式メンバーではなかったが、「紅外囲」と呼ばれる周辺者として造反活動に参加したとされる。
紅衛兵組織のリーダーを務めた後、米国に留学した元大学教授は、「世界の多様な考え方を知り、文革の恐ろしさを理解できたが、党組織に残って出世した薄や習らは、多感な10代に味わった経験こそ政治の本質だと考えてきたのだろう」と語った。
元党幹部の子弟だった紅衛兵らの場合、親の復権に伴って文革中の行いが伏せられ、党内で出世した者が多い。国有企業、中信グループの総裁を務めた孔丹のように財界で成功した元紅衛兵もおり、横の連携を強めて国を動かしている。
党幹部の長老は、「12年の党大会で(習に代表される)紅衛兵世代が表舞台に本格的に登場し、国の雰囲気が変わって個人崇拝や言論統制などが復活した」と語る。民主化を求める学生らが弾圧された天安門事件から27年となる今月4日、北京では厳戒態勢がしかれ犠牲者の遺族や人権活動家ら数十人が拘束された。
■
文化大革命をへて成功を収めた者はほんの一握りにすぎず、大多数は辛酸をなめ続けている。第2部では当時を知る者の証言から、文革がもたらした人生の光と影を追う。
北京市内でタクシー運転手をしている60歳代の張建国は紅衛兵組織に参加したとき、中学3年生だった。体が大きく運動神経もよかったため、「武闘」と呼ばれる紅衛兵グループ同士の内ゲバでリーダー格として活躍した。鉄の棒を振り回して何度も相手を傷つけたほか、自らもナイフで刺されて大けがを負い、生死の境をさまよったことがあった。
「青春時代については後悔の念以外、何もない。恋愛も勉強もせず、『毛沢東思想を守る』という訳の分からない理由で殺し合いに明け暮れた。敵対グループも同じことを主張していたのだから、仲良くすればよかったのだ」と話した。
文化大革命(文革)後はデパートの従業員や工場の労働者などの職を転々とした。「同じ場所で長く働いて出世したい気持ちはあるが、漢字もろくに読めず、すぐ上司とけんかするからどこも長続きしなかった」。そう語る張は、「十代で人生を棒に振ってしまった。文革がなければまともな人生を送れたかもしれない」とため息をついた。
■
文革開始直後、北京で最初に結成された紅衛兵組織は「首都紅衛兵連合行動委員会」(連動)で、中国共産党高級幹部の子弟らを中心に構成されていた。
最高指導者だった毛沢東は若者たちの情熱を利用して、自身の地位を脅かすライバルだった国家主席の劉少奇ら実権派(※1)を倒すため、紅衛兵への全面的支持を打ち出した。メンバーの総数は3千万人とも4千万人ともいわれる。
多くの組織が分裂し、主導権争いが展開された。毛沢東語録(※2)のわずかな解釈の違いなどを機に大規模な武闘が繰り返された。兵器工場から強奪された自動小銃が使われるなどして、多数の死者が出た。
■
重慶市西部の沙坪公園に紅衛兵の大きな墓地がある。文革中の武闘で犠牲となった10~20代の若者ら531人が埋葬されている。
「毛主席に最も忠誠なる紅衛兵、江丕嘉(こうひか)同志は1966年8月21日午前6時50分、勇敢に20歳の若い命をささげた。毛主席の革命路線を守るため最前線で戦い抜き、最後の一滴まで血を流した江烈士の死は泰山より重し」
墓碑にはこうした文言が刻まれている。最年少の死者はわずか14歳。墓碑はすべて東向きに建てられている。死者の心が永遠に、「中国の赤い太陽」である毛沢東に向いていることを示すものだという。
全国各地にあった多数の紅衛兵墓地は、高度経済成長に伴う再開発でほとんど取り壊された。重慶のこの墓地は現在、高い塀で囲まれて施錠され、一般には公開されていない。「許可がなければ遺族も墓参できない。負の歴史を人目に触れさせたくないという当局の感情の表れだ」。地元の文革研究者が話した。
■
文革中の武闘による犠牲者数の公式統計はなく、研究者の間では30万人から百万人以上まで諸説ある。
毛沢東の死去後、改革開放の時代が始まると、文革中に失脚した老幹部たちが復活し、紅衛兵の主要リーダーだった●(草かんむりに朋、右にりっとう)大富(かいたいふ)が懲役17年、韓愛晶が懲役15年の判決を受けるなど、厳しく罰せられた。
とはいえ、紅衛兵運動を始めた「連動」のメンバーのほとんどが高級幹部の子弟であるため、暴力行為の責任はほとんど問われなかった。元メンバーの多くは、今も中国の政財界で活躍している。(敬称略)
【用語解説】
※1実権派 資本主義の道を目指しているとして毛沢東ら文革派に打倒の対象とされた人々。走資派ともいう。
※2毛沢東語録 毛の著作から抜粋して編集した冊子。暗唱が強要され、個人崇拝の象徴となった。