【検証・文革半世紀(1)】「黒い懐刀」の異名持つ男の復帰が示す習近平政権の未来…「恥を捨てねば生き残れなかった」嵐は再来するか
4月24日、上海市中心部で盛大な葬儀が営まれた。400人が参列し、祭壇を無数の白い花が囲んだ。生前、多くの権力者を追い落として「黒打手」(黒い懐刀)の異名を取った男は、30年近く世間と関係を断った後、再び表舞台に現れたばかりだった。男の名は戚本禹(せき・ほんう)(84)。毛沢東の秘書を務め、35歳で中国共産党の要職に抜擢(ばってき)された戚は、文化大革命(文革)の推進者だった。
劉少奇(※1)の批判論文を党機関誌に発表し、失脚に追い込む急先鋒(せんぽう)となった。党最高幹部が居住・執務する中南海に紅衛兵(※2)を入れ、指導者だったトウ小平らをつるし上げた。
1983年、戚は文革の責任を問われて懲役18年の判決を受け、共産党の党籍も剥奪された。出所後、上海市内で偽名を使いひっそりと暮らしていたが、「時代」が彼を呼び戻す。
講演や執筆を通じて文革の正当性を主張する一方、戚を断罪したトウ小平が主導する改革開放路線(※3)を、「革命を裏切った修正主義」と痛烈に批判した。
戚が活動を再開したのは2012年秋。習近平が党総書記に就任したのとほぼ同じ時期だ。
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赤い嵐。そう呼ばれる文革は、1966年から約10年にわたり中国全土で吹き荒れた。文革直後の高官によると全人口の9分の1に当たる1億人が迫害され、約2千万人が死亡、政府幹部の75%が失脚した。
東北部に下放され重労働を強いられた作家、梁暁声は、「強大な政治圧力の中で、人々は良識だけでなく羞恥心すら捨てなければ生き残れなかった。中国の歴史の中で最も暗黒の10年だった」と振り返っている。
毛沢東の死去に伴い、文革を推進した十数人の中心メンバーは反文革派に一網打尽にされた。筆頭副首相だった張春橋は獄死、毛夫人の江青は自宅で首をつって自殺した。多くが悲惨な末路を迎えたが、戚だけが習近平の時代に再び脚光を浴びた。
戚は江沢民、胡錦濤には否定的だったが、習近平だけは高く評価していた。
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2013年の香港紙、明報の取材で戚は、「習氏には毛主席の後継者になってほしい。特権階級を倒し、中国の進路を資本主義の道から社会主義の道に戻してもらいたい」と語っていた。
「戚の後ろにいるのは習近平国家主席だ」
そう語る関係者によると、習は上海市書記だった07年ごろに戚と面会しており、ここ数年は側近を通じ「何も恐れることはない。積極的に発言してほしい」などと伝えていたという。
戚の葬儀には中国の左派系団体関係者らが参列。直接面識はないが理念に共鳴した人も多かったとされ、贈られた花には「毛主席の忠実な教え子」などの言葉が添えられていたという。
中国で長くタブー視されてきた文革を肯定する動きが、ここにきて加速しているようにみえる。米誌タイムは4月、習近平と毛沢東の統治手法の類似性を指摘する記事を掲載。赤一色の表紙は習近平の後ろに毛沢東が控えているイメージのものだった。
習が党トップ就任の5年も前に戚に面会していたのなら、その理由は何か。そして、文革は形を変えて再来しつつあるのだろうか。
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トラックの荷台で数人が立ったまま後ろ手に縛られ、首から「死刑」と大きく書かれたプラカードをぶら下げている。記された個々の名前には大きな×印が付けられている。
「本当に狂った時代だった」。そう話す北京の大学教授は小学生だった文革の時代に、何度も目撃した見せしめの光景が今も忘れられない。ほとんどの罪状は「反革命罪」だが、「毛沢東像を壊した」といった行為が多かったことを後で知った。
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文革は1966年5月、中国共産党主席だった毛沢東(1893~1976)が急進的な社会主義建設を掲げて始まった政治、思想、文化をめぐる闘争だ。毛が進めた大躍進(※4)が大量の餓死者を出す惨状を招き、劉少奇やトウ小平らが路線修正を図ったのを受け、毛が彼らに「走資実権派」とのレッテルを貼って反撃に出た。
「造反有理」(造反には道理がある)のスローガンの下、学生や労働者が古参幹部や知識人らを追い詰め、社会を大混乱に陥れた。犠牲者については1千万人から4千万人まで、今も諸説ある。
毛の死去に伴って文革は終わりを告げ、中国共産党は81年に中央総会でいわゆる「歴史決議」を採択。文革について「毛沢東が誤って発動し、反革命集団に利用され、党、国家や各族人民に重大な災難をもたらした内乱だ」として、「完全な誤りであった」と公式に確認した。この評価は今も変わっていない。
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文革が始まって約1年後の67年9月。産経新聞の北京支局長、柴田穂(みのる)は突然、中国外務省から「国外退去」を命じられた。理由は「反中国報道」。取材活動が制限されている中で、北京市内の大学や工場などに出かけては壁新聞を書き写し、記事にした。当局が隠したい都合の悪い内容を含んでいたことが逆鱗に触れたとみられる。
その後、文革の全国拡大に伴い、北京駐在の外国人記者らは次々追放された。産経新聞は98年に中国総局が再開するまでの31年間、北京での記者常駐が認められなかった。柴田は自らの追放について、「文化革命下の中共の厳しい報道管制の表れ」と分析した。
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文革の開始から50年が過ぎた今、中国では往時を思わせる現象が起きている。
昨年末には、ウイグル政策を批判したフランス人女性記者が事実上、追放された。2年前には香港の大規模な民主化デモを取材したドイツメディアの助手が約10カ月間も拘束されたほか、日本経済新聞重慶支局の中国人助手も約1カ月間にわたり拘束された。北京駐在の外国人記者の間では、「いまの雰囲気は、文革が始まったときと似ている」とささやかれている。
共産党の古参幹部は一般論と断った上で、「独裁者が権力集中を進めるために大規模な政治運動を展開するときには、まずは雑音を消さなければならない。外部との情報を遮断することが何より重要だ」との見方を示す。
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中国駐在の外国人記者たちは今年に入り、文革当時の記事や書物を引用し、現状と比較する形で自国に向けて発信している。しかし、中国の官製メディアは沈黙を守っている。
共産党宣伝部が国内メディアに「文革には一切触れるな」という内容の通達を出しているため、関連する報道は皆無だ。文革のときに各地で起きた殺戮(さつりく)や破壊が再び話題になれば、共産党の正統性と権威が傷つくとの考えがにじむ。
文革に限らず、大躍進や天安門事件(※5)といった負の遺産は、全て封印されているのが実情だ。
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中国で文化大革命が始まってから50年となる。政治、経済、社会全般に及ぶ激動の爪痕を追い、この国の行方を探る。(敬称略)
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【用語解説】
※1 劉少奇(1898~1969)
毛沢東の後に国家主席となったが文革初期に失脚、監禁中に死亡した。
※2 紅衛兵
文革を支持する学生組織。糾弾や旧秩序破壊の中心となった。
※3 トウ小平(1904~97)と改革開放路線
文革の際などに3度失脚したトウはそのたびに復活し、78年以降は事実上の最高権力者として、経済特区設置や外資導入などを進めた。
※4 大躍進
1958年に毛沢東が始めた急進的な農工業の増産運動。未曽有の経済混乱と餓死者を招いた。
※5 天安門事件
1989年6月、民主化運動で集まった天安門広場の学生らを軍が弾圧した(第2次天安門事件)。76年に周恩来首相の追悼に集結した民衆が弾圧され、トウ小平が3度目の失脚をした事件を第1次天安門事件と呼ぶ。