【櫻井よしこ 美しき勁き国へ】三菱マテリアルの和解はやはり「追及」の始まりだった…官民協力して真実を国際社会に知らしめよ
早速きたか、というのが私の感想だ。昨年12月6日、中国人元労働者と遺族27人が北京市第三中級人民法院(地方裁判所)に鹿島建設を提訴した。第二次大戦中に日本に強制連行され苛酷な労働を強いられたという元労働者に謝罪し、1人100万元(約1650万円)を払えとの内容だ。
同種の訴訟はこれから中国国内でずっとおこされるだろう。日中間の戦時賠償は個人の請求権も含めて1972年の日中共同声明で解決済みのはずが、なぜ、日本企業への訴訟が続くのか。その理由を原告代理人の康健弁護士がいみじくも語っている。
「(原告の)92歳の元労働者は、三菱マテリアルの訴訟を巡る報道を知って自ら連絡してきた」(「日本経済新聞」電子版12月7日)。中国での対日訴訟を促したのは三菱マテリアルだというのだ。
昨年11月7日の本欄でも報じたが、三菱マテは去る6月1日、同社を訴えていた中国人原告団と和解した。戦時中「劣悪な条件下で労働を強いた」「中国人労働者の人権が侵害された歴史的事実を率直かつ誠実に認め」「使用者としての歴史的責任を認め」「深甚なる謝罪の意を表」し、「基金に拠出」し、「記念碑の建立に協力」すると、同社は謝罪した。
これは「強制労働問題の解決の模範」と絶賛された。絶賛したのは「朝鮮人強制労働被害者補償立法をめざす日韓共同行動」「名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟を支援する会」「日本製鉄元徴用工裁判を支援する会」「強制連行・企業責任追及裁判全国ネットワーク」の左翼的運動体4者である。
だが、三菱マテがここまでしても、同訴訟で中国人側代理人をつとめた平野伸人氏が指摘したように、謝罪はまだ不十分だと見なされている。
三菱マテが2度繰り返して謝罪した「歴史的責任」に関して平野氏はざっと次のように語っている。
「歴史的責任とは道義的責任か法的責任か。それがこの問題の本質だ。われわれは道義的責任では絶対受け入れられないと主張した。和解に反対する人々はこれ(歴史的責任)は本当の意味の謝罪じゃないと言う」(昨年10月6日、参院議員会館での「中国人強制連行・三菱マテリアル訴訟和解報告集会」)
そのうえで氏は、和解は終わりではなく、追及の始まりだという見方を示す。つまり、三菱マテの和解は、(1)三菱以外の企業に広げる(2)韓国人・朝鮮人の問題に波及させる(3)日本政府の責任を明確にするための第一歩-だというのだ。
集会には社民党の福島瑞穂、共産党の清水忠史、本村伸子、民進党の藤田幸久、近藤昭一各議員が駆けつけた。平野氏が表明した決意は、約2か月後、康健弁護士らによる提訴で現実となった。
徴用工などの歴史問題は本来、中国と韓国を分けて考えるべきだという意見がある。韓国は日本の一部だったのであるから当然だ。しかし、三菱マテの和解に関する動きを見ると、そのような区分は難しい。平野氏は「中国の被害者は、韓国での裁判の動きに学んで中国で裁判を提訴した」と分析しているが、日本が歴史に基づいて分けようとしても、中韓側、ひいては平野氏ら日本の運動の中軸を構成する人々がそうはさせない実態がある。
それにしても平野氏らの活動の幅広さと人脈には注目せざるを得ない。平野氏は被爆2世として1946年に長崎で生まれ、韓国の原爆被害者救援に関わってきた。氏の韓国訪問が300回を超えたと「東亜日報」が報じたのは4年前だ。長崎・池島炭鉱に6年間住んだといい、中国人「強制連行」にも関わる。
平野氏とともに三菱マテ中国人強制連行訴訟代理人には林伯耀氏も名を連ねている。林氏は在日華僑で、2006年に南京大虐殺記念館から「記念館の建設と大虐殺生存者支援のための寄付」という特別貢献で朝日新聞の本多勝一氏らと表彰されている(「中国通信社」06年9月24日)。
日本を歴史の加害者と位置づける人々の太い人脈が見てとれる。彼らは戦時中の日本企業の中国人・朝鮮人労働者の取り扱いを「強制連行」「過酷な労働」などと非難するが、実態はどうだったのか。
27年前に出版された『朝鮮人徴用工の手記』(河合出版)は1944年11月末にソウルで徴用された鄭忠海氏の克明な回想だ。「親子四代にわたる日本への怨恨」は戦後45年でも解消しきれていないと書いた氏の対日観は甘くない。それでも氏は、朝鮮人に対する当時の日本の対応は丁寧だったと振りかえっている。
「強制動員」される氏の出発に際して「広場は出発する人、見送る人々で一杯だった」「各地から動員されてきた人々と共に壮行会が催された」という。強制動員や強制連行といえば、日本軍が民家に押し入り、木刀で脅す、縛り上げ、時には手錠をかけて引っ張っていくというような描写が多い。しかし、鄭氏は見送りの人々がつめかけ、壮行会まで行われたと書いている。全く違うではないか。
釜山出航から十余時間で博多港に入り、鄭氏は博多駅から列車に乗った。その氏のそばに「会社の野口氏が来て座り」「長距離の航海、長時間の汽車旅で非常にお疲れでしょう」とねぎらった。広島の東洋工業社に配属後は、住居、食事、仕事でも日本側の扱いが公平だったと書いている。
三菱マテが訴えられた作業現場のひとつは長崎県端島(通称、軍艦島)だ。劣悪、過酷な労働環境だと決めつけられている炭鉱に関しても、現場を知る人々は決してそうではないと証言している。
日本は官民が協力して、こうした真実を国際社会に知らしめなければならない。中国での提訴は必ず続くだろう。三菱マテの謝罪は決して真の和解をもたらさない。真実を力に、正攻法の闘いを展開すべきだ。