【あの時・中野浩一V10の軌跡】(1)大会まであと100日、肋骨5本骨折の重傷
1986年、競輪選手・中野浩一が世界自転車選手権プロ・スプリント競技において、前人未到の10連覇を果たした。日本の競輪界をけん引しつつ、世界を相手に10年間勝ち続けた男。数々の逆境を乗り越えて達成された、中野の伝説的な偉業を追った。
センターポールを見上げる中野の頬に、涙が伝っていく。10年連続で聞く君が代は、感無量だった。1986年9月1日、米国コロラドスプリングズ。世界自転車選手権(世界選)プロ・スプリントで10年連続優勝を成し遂げた。「自分でも理解はできなかった。ただ、あの年のスプリントが最後(の世界選)だったから…」。優勝して流す、初めての涙だった。
プロ野球・巨人の日本シリーズ9連覇(65~73年)、柔道・山下泰裕の9年連続日本一(77~85年)を超える金字塔。バックスタンドに陣取り日の丸を振る応援団の中に、父・光仁、母・美江子の姿があった。「最初にして最後」と10年目にして見た晴れ舞台。はじめ、スタンドを向くこともしなかった息子に、ちょっぴり気をもんだ父だったが、「8月30日が私の誕生日。これ以上ないプレゼントになった」としみじみ語った。
V10への道のりは、長く苦しかった。5月22日の練習中に落車転倒。「肋骨が5本折れていて、血胸、気胸を併発している」と寺門敬夫チームドクターに連絡が入った。ひとつ間違えれば肋骨が心臓に突き刺さり、命を落としかねない重傷。大会まで、あと100日しかない。日本自転車振興会(日自振・現JKA)の井上純は、知人でスポーツ界に人脈を持つ大塚製薬のスタッフと話し合った。運動生理学を専門とする順天堂大学の青木純一郎、米国でプロトレーナーの資格を持つという、当時では数少ない存在だった山本忠雄らを中心に、各界の専門家でプロジェクトチームを結成することを決めた。
3週間は絶対安静。64センチあった自慢の太ももは、4~6センチ細くなっていた。「初めてトレーナーについてもらい四六時中、面倒を見てもらった。大塚製薬の研究所にあるトレーニングマシンもやった」と中野。しかし、7月に再び落車し、同じ箇所を痛めてしまった。世界選まで、30日を切っていた。
1週間安静にした後、群馬県上牧温泉で治療を行った。バストバンドで胸を固定しながら、再びトレーニングを開始したものの、8月10日からの二次合宿で心肺機能が極端に落ちていたことが発覚。慌てて水泳トレを試みたものの、上手に泳げず、手足をバタバタするだけだったという。
全く先が見えない状態。それでも、中野は諦めなかった。V9は偉大。でも、10連覇という響きにはかなわない。“いい格好主義”の輪界のスターにとって、命を削ってでも残しておきたい記録だった。(斉藤 宏治)=敬称略=
◆中野 浩一(なかの・こういち)1955年11月14日、福岡・山本村(現久留米市)生まれ。61歳。八女工時代、インターハイの400メートルリレーで高校新をマークし全国優勝。75年に競輪選手としてデビューし、3年目に獲得賞金1位となり、80年には年間賞金1億円を突破した。G1は、78年競輪祭で初制覇を果たし、85年KEIRINグランプリを含め、特別競輪を12回優勝。86年に総理大臣顕彰を受賞している。生涯獲得賞金は13億1916万2077円。生涯成績は1236走で666勝。通算優勝回数は158回。
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