平和・ヒロシマ【聞きたかったこと〜被爆から70年〜】
核廃絶 きっとできる
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◇広島市南区 松原美代子さん (83)
広島市南区の松原美代子さん(83)は、世界各地を回って被爆体験を語ってきた。体調を崩して人前で語る機会が減り、2008年を最後に海外へ渡れていない。悔しさをかみしめながらも、核兵器が廃絶される未来を信じる気持ちは変わらない。思いを話してもらった。
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広島市仁保町(現・南区)生まれ。原爆投下時は12歳で、広島女子商業学校(現・広島翔洋高校)1年だった。
1945年8月6日、広島市鶴見町(現・中区)で、建物疎開で倒した建物から瓦やガラス、釘などを分別して運ぶ仕事にあたっていた。
爆心地からは約1・5キロ。ピカッと突然、強い光を感じ、爆風で吹き飛ばされて気を失った。気がつくと、着ていた服は胸と腰の辺りに残っているだけ。顔や手足にやけどをしていた。手はグローブのように腫れ、皮膚がむけ、足の甲は腫れ上がっていた。
「お母さーん、助けて!」「みんなどこにおるん、私はここよ」。叫んでも反応はない。怖くなって逃げ出し、鶴見橋のたもとで川に飛び込んだ。すると、近くにいた女学生から「あんた、松原さん?」と話しかけられた。顔が大きく腫れ上がっていたが、よく見ると同じクラスの友人だった。西の方で火の手が上がっており、一緒に川を出て逃げた。
途中で、友人がへたり込んだ。「私はもう逃げられん。あんた一人でも、はよう行きんさい」。目に涙をためて訴えられた。ためらっているうちに、いつの間にか「行きんさい」が「お願い、連れて行って」に変わった。でも、大やけどを負った松原さんが一人で連れて行くことはできなかった。火の手も迫っていた。背中を向けて一人で逃げた。後日、友人は遺体で見つかった。
「大人になってからも、その子が夢に出てくるんよ。そのたびに、『あなたのこと、ちゃんと話してるよ。許して』って謝るんよ」
家に向かったが、熱さと痛みに耐えられず、大河国民学校(現・市立大河小学校)の門の前で座り込んだ。通りかかった近所の女性に連れられて、地域の人が集まっていた避難所に逃げた。10日ほど昏睡(こん・すい)状態が続いた。母は鏡を渡してくれず、留守の間にこっそり見た。目の周りが崩れ、赤鬼のように腫れ上がっていた。帰ってきた母に泣きつくと、母も「代わってやりたいのう」と泣いた。
銀行員になる夢を捨て、学校を卒業後、人目につかずに生きていける洋裁を学んだ。人と顔を合わさず、50銭、1円の内職をする日々。「何のために生きているんだろうと、悔しくて仕方なかった」
53年、広島流川教会の谷本清牧師(1909〜86)の支援で、整形手術を受けられることになった。大阪の病院に入院し、7カ月にわたって12回の手術を受けた。閉じなかったまぶたが閉じ、曲がった指も伸ばせるようになって、人生に光が差し込んだ気がした。
「どうやってお返ししようか」。そう考え始め、広島に帰って、谷本牧師が設立した原爆孤児らの施設で保育士として働き始めた。
「人に良いことをしんさい。あんたがしなければならないことは、他の人がお前と同じ体験をせんようにすることじゃ」。手術前、母に言われた言葉が胸に残っていた。それでも、人前で体験を語る勇気はまだなかった。
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踏み出したのは62年、米国人平和運動家のバーバラ・レイノルズさん(1915〜90)が企画した「世界平和巡礼」に参加し、欧米14カ国を巡った時だ。米国では40日間で183回の集会に出席し、レイノルズさんを介して体験を伝え、「原爆は落とすべきじゃなかった。核実験なんてしちゃいけない」と訴えた。
しかし、米国では原爆の恐ろしさがあまりに知られていなかった。「原爆を落とさなければ戦争は終わらなかった」と言われ、「ヒロシマ」を花の名前だと思っている米国人もいた。自分の言葉で、あの苦しみを伝えたかった。
「英語が話せたら」。当時30歳。独学で英語の勉強を始め、広島大に聴講生として通った。67年に発足した広島平和文化センターに就職。平和宣言の英語版や、センターの英語の機関誌の作成を手伝った。82年には第2回国連軍縮特別総会に合わせて2カ月間訪米し、延べ11万人以上に核廃絶を訴えた。
思いは定まっている。「国の力には太刀打ちできん。でも一生懸命話せば伝わる人もいる。思いを理解してくれる人を増やすんが、私の仕事」
93年に平和文化センターを退職した後も、精力的に海外を飛び回った。大学生や教員らと平和学習団体「ヒロシマの心を伝える会」を立ち上げ、広島を訪れる米国の教員を案内した。仲間の力を借りてホームページも作り、原爆の被害を英語で発信した。
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2004年、交通事故で足を骨折した。06年末には脳梗塞(のう・こう・そく)で倒れた。もう以前のように国内外を飛び回り、証言活動をすることができない。
最後に訪れた国は08年9月のノルウェー。ノルウェーは、対人地雷禁止条約やクラスター爆弾禁止条約の成立に主導的な役割を果たした。国立ボルダ大学で開かれた原爆展に合わせ、会場や中学、高校などで体験を語った。「二つの条約が結べるなら、核もなくせる」と呼びかけると、総立ちの拍手を受けた。
あれから7年。国際社会では、非核保有国を中心に核兵器の非人道性の議論が高まっている。
「オーストリアとかノルウェーとか、若い子が熱心に私の話を聞いてくれた。いま、その国が核兵器の問題に一生懸命でしょ。核兵器禁止条約もきっとできると信じとるよ」(根津弥)
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