アクティブラーニングは「3つの構造的限界」によって学力が育たないようになっている(序)

アクティブラーニングは「3つの構造的限界」によって学力が育たないようになっている(1/3):「時間の限界」を公開しました!(2016.10.16)

 テレビの報道番組などにおいて教育に関するテーマがとり上げられるとき、キャスター・アナウンサーは、どこか表情が緩む。NHKなどでは、特にそれが顕著に感じられる。私は別にNHKを批判したいわけではないが、NHKはいつも他局以上にカタい表情・表現でニュースを伝えるから、その中で表情・表現が緩むと、そこが目立ってしまうわけだ。私は、この「緩み」があまり好きではない。またニヤニヤしてるなこのキャスター、と不快に思う。いじめなどの問題は別として、2020年入試改革や全国学力テストについて報道するときは、だいたいどこかでニヤニヤしている。

 たしかに、政治の動向などにくらべれば親近感のわくテーマであり、気持ちがやわらかくなるのも分かる。しかし、政治経済等あらゆる分野を動かすのは人であり、人をつくるのが教育である。その意味で、決して「気楽に(いい加減に)扱ってよいテーマ」ではない。ところが、どうやらその“お気楽さ”は、キャスター・アナウンサーだけでなく、教育の中枢にも及んでいるようである。すなわち、中央教育審議会である。

 2014年11月20日、当時の文部科学大臣・下村博文氏から中教審に諮問が行われた。

 初等中等教育における教育課程の基準等の在り方について(諮問)

 これが、昨今の教育界を急速に支配しつつある「アクティブラーニング」の号砲となった。もともと高等教育(大学教育)においてはそれ以前から言及されていたのだが、この中教審諮問以降、アクティブラーニングなるものは初等中等教育(小中高教育)にまで広がることになったわけである。

 以降、書店の教育関連書コーナーに行けば「アクティブラーニング」の文字が華々しく踊り、学校のみならず大小の塾までもが、「アクティブラーニング」を導入しなければ負けると言わんばかりの勢いでその導入をアピールするようになってきている。

 しかし、あまりにその勢いが強すぎるのを危惧したようで、中教審は次のような言葉を持ち出した。

「アクティブラーニングの視点」「主体的・対話的で深い学び」

「アクティブラーニング」ではなく、「アクティブラーニングの視点」であり、それは「主体的・対話的で深い学び」という意味である、としている。これらは、2016年8月1日に出された「審議のまとめ(素案)」に記されている。

 中央教育審議会 教育課程部会 教育課程企画特別部会(第7期)(第19回)配付資料/次期学習指導要領改訂に向けたこれまでの審議のまとめ(素案)

 この中で、「主体的・対話的で深い学び」の意味が次のように定義されている(「資料1 審議のまとめ(素案)のポイント(PDF)」から抜粋)。

「主体的・対話的で深い学び」の定義:

(1)学ぶ意味と自分の人生や社会の在り方を主体的に結びつけていく「主体的な学び」

(2)多様な人との対話や先人の考え方(書物等)で考えを広げる「対話的な学び」

(3)各教科等で習得した知識や考え方を活用した「見方・考え方」を働かせて、学習対象と深く関わり、問題を発見・解決したり、自己の考えを形成し表したり、思いを基に構想・創造したりする「深い学び」

 さて、ここで少し話を戻す。中教審のこうした動きは、一見したところ大変素晴らしいことを述べているようにも見えるのに、なぜ“お気楽”つまり思慮の浅い動きであると言えるのか。

 それは、アクティブラーニングなるものが、構造的に次の3つの限界を持っているからである。

◆アクティブラーニング――3つの構造的限界

【1】時間の限界――時間的制約の影響を強く受ける

【2】評価の限界――個別の評価がきわめて難しくなる

【3】知的な限界――その集団の知的能力の枠を超えられない/教師の知的能力が衰える

 これら以外にも、アクティブラーニングは次のような重大な問題をはらんでいる。

◆アクティブラーニング――負の影響

【1】アクティブラーニングは、教師への信頼を失わせる

【2】アクティブラーニングは、不登校・いじめ・自殺を増やす

 これらの意味について、今後、このmineの記事の中で具体的に述べていきたいと考えている(今回はあくまで「序」である)。

 もちろん、アクティブラーニングにも良いところが全くないわけではない。アクティブラーニングのメリットを挙げるとするならば、「アウトプットの絶対量が増える」ということだ。あらゆるインプットは、アウトプットによってこそ完結する。あらゆる学びにおいて、アウトプットは必要不可欠なことである。その意味で、絶対量が増えることは歓迎すべきことだ。

 とはいえ、先に挙げた「主体的な学び」「対話的な学び」という文言がこれから強調されていく中で、アウトプットの「量」は増えても「質」は落ちる一方であろうと思われる。

 その意味についても次回にしたいところだが、少しだけ、今確認しておこう。先の「審議まとめ(素案)」の「総論部分」(PDF)には、次のように書かれている。

「主体的な学び」「対話的な学び」については、その趣旨が理解しやすく改善が図りやすいのに対して、「深い学び」についてはイメージがつかみにくいとの指摘もある。

 この文、ふつうは後半に注目するが、ここでは前半に注目したい。「主体的な学び」「対話的な学び」というのは、たしかに理解しやすい。「主体的」以上に分かりやすいのが、「対話的」である。だから、今後は次のような捉え方がいっそう強まるだろう。

「子どもどうしの対話活動(話し合いや討論など)を、もっと積極的にとり入れていけばいいんでしょ、分かってるよ」

 さて、今、ちゃんと疑問符がついただろうか。あれ? 「先人の考え方(書物等)」の部分は、どこ行っちゃったの? と。先に挙げた中教審の定義(1)~(3)の(2)には、たしかにそう書いてあった。しかし、この要素が「対話」に含まれるということが、現場教師たちの頭からはとっくに抜けているだろうし、今後よりいっそう抜けていくであろう。

 無理もない。定義自体が、矛盾しているのだから。

 書物の中の先人と対話をする。これは重要だ。

 それはふつう、本の活字と向き合いながら一人ひとりが沈思黙考して行うプロセスだ。これは、「アクティブ」ではない。少なくとも、アクティブラーニング推進派が言うようなアクティブ性とは相反するものである。

 いや、もちろん、沈思黙考は本来アクティブなのだ。精神活動としては。

 しかし、アクティブラーニングという言葉が分節するイメージは、明らかに身体的アクティブさのほうだ。

 思い浮かべてみていただきたい。黒板と正対するように整然と並べられた机にきちんと着席して本のページに向き合い鉛筆を持ち沈思黙考する子どもたちの姿と、グループ形式あるいはコの字型に並べられた机に座り(あるいは机の全くない床の上に座りそして歩き回り)ガヤガヤと話し合い画用紙・模造紙に何かを書き連ねているような姿と。

 どちらが、アクティブラーニングのイメージであろうか。

 明らかに、前者ではなく、後者である。

 つまり、アクティブラーニングなるものの中に「書物との対話」などというものは入る余地がないのである。たとえ中教審がとってつけたように定義に加えても、無駄なのだ。現場教師は実践しない。

 そもそも、圧倒的な「他者」である書物の中の先人に学ぶべきだと本気で思っているのであれば、はなっから「主体性重視」などと言わないはずなのである。

 アクティブラーニングが想定する他者とは、「友だち」だけである。

 友だちと、書物を記すほどの先人と。

 どちらの「他者」から、学ぶべきであろうか。

 いわずもがな、後者である。前者ばかりを重視するならば、どんなにたくさんインプット・アウトプットを繰り返そうと、その「質」が落ちるのは明白である。

 これからの教育現場は、今まで以上に「自分」を大事にするようになるだろう。

 つい最近、私が主宰している日本国語教育改革ネットワーク(ML)の中で、こういう投稿があった。

 小学1年生の説明文教材の読みを「深める」べく、書かれた内容を自分の生活に引き寄せるための方策について研究会で議論されたが、どう思うか――と。その教材とは、光村図書・一上「くちばし」である(小学校教師ならすぐ分かるだろう)。

 この題材で、いったい何をどう「自分に引き寄せる」のだろうか。その前にやるべきことを、全てやっているのだろうか。たとえば、文章を全部ノートに書き写させるとか。そうすると、文章全体の構造が見えてくる(この題材は文章は短いにもかかわらず写真が多すぎて文章の全体構造が見えないため、これは必須の作業だ)。その上で「読解」が始まる。で、それが終わってはじめて「感想・意見」になるはずだ。その優先順位は最後にくるべきだ。しかし、アクティブラーニングは原理上「感想・意見」を最も優先することになる。

 教師だけでなく、教科書もどんどんアクティブラーニング仕様になっているのだが、国語が最も顕著である。必ずと言ってよいほど、文章やその書き手に対し「自分の意見」を持つことを要求する文言が記載されているから、手に負えない。

 たかだか数年しか生きていない未成熟な人間に対し、「名作」や「名だたる先人」に意見せよ、と言うのである。

 自分の意見を持つことよりも、まず、そこに書かれた他者の意見を理解することが先ではないのか。

 そのためには、沈思黙考の中での知的なアクティブさこそが、求められるのである。

 おっと、だいぶ書き進めてしまった。

 このあたりは、構造的限界の「知的な限界」に深く関連している。いずれまた書きたい。

 ところで、アクティブラーニングが世間で語られるとき、「予測不可能な時代を切り拓く力を育てるために」といった修飾語が必ずつくようになってきた。

 予測不可能な時代を切り拓く力を育てるために本当に必要な指導とはどういうものなのか。

 その答えを、私は、日々の教育実践の中で確立している。言うまでもなく、こうした解決策についても明確に書いていくことになる。ただの批判で終わることはない。

 これから私は新しい問題集の執筆に入るため、今後の記事がいつアップできるか分からないが、ぜひ次回にご期待いただきたい(なお次回からはおそらく100円程度の価格をつけることになる)。

福嶋隆史

1972年横浜市生まれ/ふくしま国語塾主宰/株式会社横浜国語研究所代表取締役【著書】『ふくしま式「本当の国語力」が身につく問題集』『「本当の国語力」が驚くほど伸びる本』(大和出版)等、全19冊・累計47万部【学歴】早稲田大学第二文学部を経て創価大学教育学部通信教育部卒業【職歴】1997公立児童館・学童保育職員/2001公立小学校教諭/2006~ふくしま国語塾【所属】日本国語教育改革ネットワーク代表/日本言語技術教育学会/日本リメディアル教育学会/日本テスト学会等【テレビ出演・監修】Eテレ「ニューベンゼミ(テストの花道)」出演・監修2013~等【新聞記事掲載】読売新聞/東京新聞/朝日小学生新聞等【雑誌記事掲載】日経ビジネスAssocie/プレジデントFamily/週刊東洋経済/AERAwithKids等【外部依頼講演】(企業)株式会社リクルートキャリア/株式会社NTT-ME等(大学・学会)金沢工業大学/日本リメディアル教育学会等(学校)茨城県私立小/東京都公立小/神奈川県公立小等【専門誌論文掲載】『国語教育』(明治図書)連載2013.4~2015.3

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