正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現
本当の歴史と外交! 日本国民の生命と財産と自由を守る核武装!取り戻せ、拉致被害者と領土と国家の誇り!がんばれ!維新政党・新風!
201001<<12345678910111213141516171819202122232425262728>>201003
TBS亀田戦手放す!?裏事情・最高視聴率とれるのにナゼ・内藤戦でもパチンコ(朝鮮玉入れ)メーカー以外ほとんどスポンサーが集まらず、かなりの赤字だった・亀田興毅が出演した1月31日放送のテレ東「田舎に泊まろう!」の視聴率7.5%とイマイチ
↓忘れずに、最初にクリックお願いします。↓

人気ブログランキングへ




TBS亀田

最高視聴率とれるのにナゼ…TBS亀田戦手放す!?裏事情

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100201-00000005-ykf-ent

最高視聴率とれるのにナゼ…TBS亀田戦手放す!?裏事情
2月1日16時56分配信 夕刊フジ

 プロボクシングの亀田3兄弟を抱える亀田家が、長年良好な関係を続けていたTBSとの縁切りを前提に、他の在京キー局にアプローチしていることが分かった。昨年11月29日に行われた長男・興毅と内藤大助のWBC世界フライ級タイトルマッチはTBSが独占放送し、2009年の年間最高視聴率43.1%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)を叩き出したばかり。TBSが“ドル箱”を手放す裏には、亀田戦はスポンサーが付きにくいという事情があるという。

 「実はこの前、亀田のほうから『契約しないか?』という趣旨の打診があったんです」

 ある民放キー局の関係者は、こう打ち明ける。

 亀田といえばTBS、というほど両者の結びつきは深い。亀田家が大阪にいた時代からTBSはドキュメンタリー番組などで父・史郎氏と3兄弟を追いかけ、兄弟が協栄ジムに移籍して東京に移った後には亀田プロモーションと長期契約を結んだ。

 その後、疑惑の判定と話題になった興毅とランダエタの世界戦や、次男・大毅が反則を連発した内藤との世界戦などでさまざまな批判は受けたものの、いずれもテレビ放送の視聴率は高かった。

 それだけに、TBSが亀田家という優良コンテンツを手放すとは考えにくい。だが、あるTBS関係者は「もう、亀田では商売にならないのです」と語る。

 実際、昨年11月の内藤戦は年間最高視聴率を記録したが、「パチンコメーカー以外、ほとんどスポンサーが集まらず、番組の採算的にはかなりの赤字だった」というのだ。

 この関係者によると、亀田の試合は高視聴率はとるが、悪役キャラが定着しているため、視聴者からの反発を恐れてスポンサーが付かないのだという。CM収入で稼ぐ民放としては、おいしくないコンテンツなのだ。このことはテレビ業界でも知られており、亀田家から打診された民放キー局の関係者も「ウチも乗り気ではないと聞いています」と語る。

 亀田プロとTBSは昨年6月まで長期の契約を結んでいた。亀田の試合をTBSが独占的に放送する代わりに、亀田側に最低でも数千万円が支払われるという契約内容だったという。だが、昨年7月以降の契約は更新されず、現在は試合ごとに契約を結ぶ形になっているとみられている。

 そうしたなか、亀田家側とTBSの関係は、これまで以上に複雑な状態になっている。父・史郎氏は内藤戦の高視聴率などを拠りどころに強気の条件を要求しているが、TBSは「ない袖は振れない」という姿勢だというのだ。

 これまでTBS内部は、亀田家を擁護する派と批判する派に分かれていたが、「最高視聴率でも赤字」という事態を受け、亀田家を擁護する声は弱まっている。「亀田が別のテレビ局と話をしても、それを止めるという雰囲気ではない」とTBS関係者は語る。

 長男・興毅は先月31日、テレビ東京系の旅番組「田舎に泊まろう!」に出演。亀田家のイメージアップに奮戦しているが、言うまでもなく、亀田人気を築いた最大の功労者はTBSだ。TBSを見放すつもりが逆に見放されることになると、亀田家の“戦略”は大きく狂うことになる。




>実際、昨年11月の内藤戦は年間最高視聴率を記録したが、「パチンコメーカー以外、ほとんどスポンサーが集まらず、番組の採算的にはかなりの赤字だった」というのだ。


これは一見、不思議に思うかもしれないが、次のように説明されるらしい。

例えば、TBSがCM枠を10個設けて、CM1枠につき1億円の値段でスポンサーを10社募集したが、パチンコメーカー1社しか応募しなかったとする。

その場合には、10億円の売上予定だったのに、1億円しか売上にならない。

TBSは「御社がCM枠を1社で独占することになるので5億円お願いできませんか。」とお願いするかもしれないが、もともとCM枠1枠につき1億円だったのだからスポンサーもTBSの要望通り簡単には応じないようだ。

放送では、そのパチンコメーカー1社のために番組のCM枠を全部使うから、番組中はそのパチンコメーカーのCMばかり繰り返し流されることになる。

そうなると、CMの回数は多くてもCM1本当たりの単価はかなり下がってしまうのでCMを流すパチンコメーカーにとっては得だが、TBSにとっては良い事はなく費用が上回って赤字となる。

ちなみに、この場合、視聴者はパチンコ(朝鮮玉入れ)のCMばかり何度も何度も見せられることになる。

正直言って私も、昨年の「亀田vs内藤戦」は高視聴率だったため、TBSは大儲けしたし、その後もTBSのドル箱になってしまうのでないかと懸念していた。

ところが、実際はそうではなかった。

内藤戦でもかなり赤字だったということは、今後よく知らない外人選手などとの試合では視聴率も低下するはずだ。


SANKYO、TBS、亀田
内藤vs亀田のメインスポンサーは、パチンコの株式会社三共(SANKYO)だった。




>この関係者によると、亀田の試合は高視聴率はとるが、悪役キャラが定着しているため、視聴者からの反発を恐れてスポンサーが付かないのだという。CM収入で稼ぐ民放としては、おいしくないコンテンツなのだ。


おそらく、亀田が出るテレビ番組のスポンサーには直接多くの問い合わせ(抗議)が寄せられるのだろう。

でも、亀田戦がCM収入で稼ぐ民放に向いていないというなら、今後の放送はNHK?ナンチャッテ…





>長男・興毅は先月31日、テレビ東京系の旅番組「田舎に泊まろう!」に出演。


亀田興毅が出演した1月31日(日)放送のテレビ東京「田舎に泊まろう!」だが、視聴率は7.5%と普段と比べて大きな上昇はなかった。

01/31日
*7.5% 19:00-20:00 TX__ 田舎に泊まろう!


亀田
亀田「田舎に泊まろう!」
亀田「田舎に泊まろう!」


「田舎に泊まろう!」2009年以降の視聴率7.5%以上一覧

01/04日 *7.9% 19:00-21:48 TX__ 田舎に泊まろう!新春3時間生放送スペシャル
01/18日 *7.8% 19:00-20:00 TX__ 田舎に泊まろう!
01/25日 *7.8% 19:00-20:00 TX__ 田舎に泊まろう!
02/01日 *7.7% 19:00-20:00 TX__ 田舎に泊まろう!
02/08日 *8.1% 19:00-20:00 TX__ 田舎に泊まろう!
02/15日 *8.1% 19:00-20:00 TX__ 田舎に泊まろう!
02/22日 *8.7% 19:00-20:00 TX__ 田舎に泊まろう!
03/08日 *9.1% 19:00-21:48 TX__ 開局45周年キャンペーン"絆"第1夜・田舎に泊まろう!ドラマスペシャル「空飛ぶりぼん」
03/22日 *7.9% 19:00-20:00 TX__ 田舎に泊まろう!
04/12日 *8.8% 19:00-21:48 TX__ 田舎に泊まろう!スペシャル
05/10日 *8.4% 19:00-20:00 TX__ 田舎に泊まろう!
05/31日 *7.9% 19:00-20:00 TX__ 田舎に泊まろう!
06/07日 *7.8% 19:00-20:00 TX__ 田舎に泊まろう!
06/21日 *7.9% 19:00-20:00 TX__ 田舎に泊まろう!
07/05日 *8.8% 19:00-21:48 TX__ 田舎に泊まろう!スペシャル
08/09日 *7.5% 19:00-20:00 TX__ 田舎に泊まろう!
08/16日 *7.5% 19:00-20:00 TX__ 田舎に泊まろう!
09/20日 *8.1% 19:00-22:00 TX__ 田舎に泊まろう!スペシャル
10/18日 *7.5% 19:00-20:00 TX__ 田舎に泊まろう! 仲本工事・石原詢子 
11/22日 *7.5% 19:00-20:00 TX__ 田舎に泊まろう! 佐藤唯・丘みつ子
01/31日 *7.5% 19:00-20:00 TX__ 田舎に泊まろう! 亀田



なるほど。

やはり、亀田はボクシング以外では殆ど視聴率を押し上げる効果がないようだ。

そして、ボクシングの亀田戦の視聴率が高いのも、亀田の負けるシーンを見たい視聴者が多いからと考えられる。

こういうことなら、亀田とTBSとパチンコ(朝鮮玉入れ)産業には、このままそろって倒れしてほしいものだ。



コピペ
―――――
2006年9月TVにて株式市場を語るトレーダー若林史江
「亀田選手のスポンサーのホトンドが一気に下りたのは、最近兜町で彼らに関わると売れ行きが落ちたり株価が下がるということで仕手筋でも亀田は避けた方がいいと言われ始めてるからです」
―――――






TBS、2010年の全日1桁視聴率

01/13水
*6.8% 18:40-19:50 TBS 総力報道!THE NEWS
*7.3% 19:55-20:54 TBS 時短生活ガイドSHOW
*9.4% 21:00-22:48 TBS [新]水曜劇場・赤かぶ検事京都篇

01/19火
*6.9% 18:40-19:50 TBS 総力報道!THE NEWS
*7.1% 19:55-20:54 TBS お茶の水ハカセ
*8.3% 21:00-21:54 TBS うたばん
*9.8% 22:00-22:54 TBS リンカーン

01/20水
*6.8% 18:40-19:50 TBS 総力報道!THE NEWS
*5.6% 19:55-20:54 TBS 時短生活ガイドSHOW
*5.6% 21:00-21:54 TBS 水曜劇場・赤かぶ検事京都篇
*6.6% 22:00-22:54 TBS THE1億分の8

01/27水
*6.1% 18:40-19:50 TBS 総力報道!THE NEWS
*6.1% 19:55-20:54 TBS 時短生活ガイドSHOW
*6.0% 21:00-21:54 TBS 水曜劇場・赤かぶ検事京都篇
*6.4% 22:00-22:54 TBS THE1億分の8





「亀田とTBSとパチンコの未来は暗い!」

と思う人は、↓クリックお願いします。↓

人気ブログランキングへ



  ∧_∧
 ( ・∀・) よろしく
 ( ∪ ∪
 と__)__)


スポンサーサイト

テーマ:TBS - ジャンル:テレビ・ラジオ

日本が侵略認めると強調!支那紙が歴史共同研究の報告書公表について・強請り集りのネタ提供だ・盧溝橋事件、「三光作戦」、南京事件、支那事変の死傷者、張作霖爆殺事件、柳条湖事件
↓忘れずに、最初にクリックお願いします。↓

人気ブログランキングへ




日中歴史共同研究


日中歴史共同研究

日本が侵略認めると強調 支那紙

http://sankei.jp.msn.com/world/china/100201/chn1002011304003-n1.htm

日本が侵略認めると強調 中国紙、歴史研究で
2010.2.1 13:01

 1日付の一部中国紙は日中両国の有識者による歴史共同研究の報告書公表について「日本側は対中戦争の性格を侵略戦争と認めた」(新京報)などと両国が一致した点を重点的に伝えた。一方、共産党機関紙、人民日報や光明日報など党や政府の影響力が強い新聞は、報告書公表を一切報じていない。
 新京報は南京大虐殺についても「(日本側は)集団虐殺事件と認めた」と報じ、日本で侵略戦争の責任を否定する傾向がある中で学術的に共通認識が深まったことは両国関係に有益との中国側研究者の見解を紹介した。
 両国間で隔たりのある南京大虐殺の犠牲者数について日本側が「4万人、2万人などさまざまな推計がある」と記述したことには触れなかった。(共同)




>「日本側は対中戦争の性格を侵略戦争と認めた」(新京報)
>新京報は南京大虐殺についても「(日本側は)集団虐殺事件と認めた」と報じ、日本で侵略戦争の責任を否定する傾向がある中で学術的に共通認識が深まったことは両国関係に有益との中国側研究者の見解を紹介した。



あーあ、何も知らない馬鹿どもが知ったふりして余計なことをしたから、支那に未来永劫役立つ強請り集り(ゆすりたかり)のネタを与えたようなものだ。

はっきり言って今回近現代史を担当した日本側の北岡伸一・東大教授、小島朋之・慶大教授(故人)、波多野澄雄・筑波大教授、坂元一哉・大阪大教授、庄司潤一郎・防衛研究所第一戦史研究室長の5人は国賊だ。

この「歴史共同研究」に関しては昨晩もブログで取り上げて簡単に問題点を指摘したが、今朝の産経新聞に詳しい記事が沢山(7つ位)載っており、読めば読むほど怒りが込み上げてきたので、また取り上げる。



http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100131/plc1001312353017-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100131/plc1001312353017-n2.htm

【日中歴史研究】懸念される「教科書」への影響
2010.1.31 23:52

 日中歴史共同研究は、今後の日本の教科書検定に影響を与える可能性がある。報告書では中国側が日本の謀略としていた盧溝橋事件について偶発的だった可能性に言及する一方、日本側も「南京事件」を「虐殺」と断じたほか、中国側が日本軍を非難する際の呼称である「三光作戦」を2カ所で記述するなど、日中双方の“歩み寄り”が随所にみられた。報告書が今後、公式見解のように扱われれば、教科書の記述に反映されることもありそうだ。(鵜野光博)

 盧溝橋事件について、日本側では中国軍から偶発的な発砲があったとする見解が大勢にもかかわらず、中国側が謀略説の立場を取っていたため、現行の教科書では発砲者については触れられていない。

 報告書で、中国側は「銃声がどこから来たかを示す正確な資料はみつかっていない」として、偶発的に起きた可能性を明記した。

 また、「三光作戦」の三光は「殺し尽くす」「焼き尽くす」「奪い尽くす」の意味で、本来は日本軍の作戦名ではなく、中国側の呼び名だ。しかし、日本側の報告書では「戦線拡大と持久戦」などの章で2カ所にわたって使われ、「物資と食糧の確保のために手段を選ばない討伐作戦」と説明されている。

 一方、「南京事件」について、現行の中学教科書では「20万人ともいわれる捕虜や民間人を殺害」(日本書籍)、高校教科書で「中国政府は30万人以上を主張している」(東京書籍)などと記述されている。

 報告書では犠牲者数を「20万人を上限として4万人、2万人などさまざな推計がなされている」としたものの、民間人虐殺自体を疑問視する最近の学説は完全に無視した。

 日本の教科書検定は、近現代史で中国などアジア諸国への配慮が必要とされる「近隣諸国条項」に縛られている。「三光作戦」や「南京事件」については、日本側が中国側に歩み寄った格好で、近隣諸国条項と同じ「配慮」が共同研究でも働いたといえる。

 「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝会長は「中国国内でも実証的な研究が進みつつあり、盧溝橋事件もその表れではないか」として一部を評価しつつ、共同研究が与える影響について「いわゆる自虐史観の健全化を進めるかどうかが評価基準だが、日本側が政治的配慮で表現や数値を中国側に合わせるケースも目立ち、楽観はできない」と話している。




>報告書が今後、公式見解のように扱われれば、教科書の記述に反映されることもありそうだ。


冗談じゃないよ!

こんな出鱈目な歴史研究が教科書に記述されるなんて絶対に許されないことだ。

一応岡田克也は記者会見で、歴史共同研究の報告書について「教科書とは直接関係がない。学者のレベルでなるべく共通の認識を持とうということで行っているものだ」と述べ、日本の教科書検定に影響を与えるものではないとの考えを示したようだが、学者どもが日本を代表してまとめ上げた結果が教科書に悪用される可能性は高い。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100201-00000607-san-pol




>盧溝橋事件について、日本側では中国軍から偶発的な発砲があったとする見解が大勢にもかかわらず、中国側が謀略説の立場を取っていたため、現行の教科書では発砲者については触れられていない。


盧溝橋事件は偶発的な発砲があったわけではない。

「盧溝橋事件」は、支那共産党が計画的に行なった事件だ。

支那共産党が仕掛けたという一つの根拠は、「七・七事変」という名称だ。

彼らが日本軍に発砲したのは7月7日だが、日本軍が反撃したのは7月8日だ。

日本軍を犯人に仕立てたければ、支那共産党は「七・八事変」としなければならない。

日本軍が7月7日に盧溝橋で行なっていたのは空砲演習であり、しかも、空砲演習にもかかわらず、異例の事前通告をしていた。


――――――
 日本側に、冀察政務外交専員の林耕宇から「空砲で演習する場合でも、あらかじめ中国側に通告して欲しい」との要請があり、特務の方で検討する事になりました。

 北清議定書では、実弾射撃の場合は通報する事になっていますが、空砲の場合は規定されていません。

 「日本だけ勝手に規定を変える事はできない、ここは他の列強と協議してからでなければ」

 「しかし、今、不穏なこの時期、間違いがあれば大変な事になる」

 「ここは一時的に彼らの要求を通したら」

という事で、『7月6日、7日、9日、10日の4日間、日本軍が盧溝橋の原で昼夜空砲を使って演習する』という通告が、その日の晩に、中国側に通達されました。

 1937年7月7日、日本軍は盧溝橋の原で、鉄帽もかぶらず空砲を使って演習していました。

『盧溝橋事件』寺平忠輔著
――――――


これでは、近くに居た支那軍も、日本軍と同じように銃撃を受けたとされるが、「日本軍からの銃撃」とは認識しなかっただろう。

ところが、支那共産党は事件発生後、早くも7月8日に延安から全国へ次の電報を打った。


――――――
「7月7日夜10時、日本は盧溝橋でおいて中国の駐屯軍馮治安部隊に対し攻撃を開始し、(以下略)」
『中国共産党資料集・第8巻』日本国際問題研究所
――――――


日本軍が応戦したのは翌日8日の朝なのに、夜10時と特定されている。

しかも日支両軍の司令部すら事態の真相をつかんでいない時点でこうした電報を打ったことは、最初の一発から共産党のシナリオができていたことを推定させるに十分な証拠である。

コミンテルンは、次のような秘密司令を発していた。

―――――
①あくまで局地解決を避け、日支の全面衝突に導かねばならない
②右目的の貫徹のため、あらゆる手段を利用すべく、局地解決や日本への譲歩によって支那の解放運動を裏切る要人は抹殺してもよい
③下層民衆階級に工作し、彼らに行動を起こさせ、国民政府として戦争の開始のやむなきに立ち至らしめねばならない
(以下略)
『コミュンテルン並びに蘇聯邦の対支政策に関する基本資料』興亜院政務部発行
―――――


その後の事態は、まさにこのコミンテルンの司令文書どおりに進行した。

●1937年
7月7日、盧溝橋事件。夜10時30分頃、演習中の日本軍が2度にわたって銃撃を受ける
7月8日、午前3時25分に支那側から3度目の射撃、4時20分に牟田口連隊長が反撃を命令、5時30分の4度目の銃撃をきっかけに反撃開始
7月9日、午前4時に現地で停戦の約束がされるまで日本側戦死11人・負傷36人、支那側(推定)戦死30人・負傷約100人。蒋介石は4個師団と戦闘機を北支に派遣
7月10日、支那側が攻撃を再開、日本側も応戦、日本側に戦死6人、負傷10人。参謀本部第三課と陸軍軍事課は、支那側が「対日武力戦争を準備」しており、北京地区1万2千人の居留民保護に不安があり、支那第29軍7万5千人に対抗するため10万人規模の「北支出兵」を主張。石原部長も承認して陸軍の決定となる
7月11日、現地で停戦協定が成立。支那の何応欽部長が、7月末までに戦争準備を整える全兵力動員の「戦争計画」を指示。14時、日本の閣議で5個師団の「華北派兵」が決定し声明
7月13日、支那兵が移動中の日本軍トラック2台に手榴弾を投げ込み全員を爆殺
7月14日、支那兵が日本の騎馬兵を惨殺
7月16日、事件を収集させようとする宋哲元に対し、蒋介石は「日本の策謀に乗じるな、戦備を整えよ」と打電
7月17日、蒋介石が『生死関頭』演説を行い戦争の決意を表明
7月25日、郎坊事件、日本軍が攻撃を受ける
7月26日、広安門事件、日本軍が攻撃を受ける
7月28日、日本軍が華北への攻撃を開始
7月29日、通州事件。日本人居留民約260名が虐殺される
8月9日、和平会談の予定だったが、海軍陸戦隊の大山中尉が惨殺される


(参考)
――――――
その頃、閉された中国大陸は『人民中国』の誕生にわきかえっていた。中国人民解放軍総政治部発行のポケット版『戦士政治課本』(兵士教育用の初級革命教科書で、内容はいずれも中国共産党の偉大さを教えるものばかり)は、
「七・七事変(葛西注=中国では藍溝橋事件を一般にそう呼ぶ)は劉少奇同志の指揮する抗日救国学生の一隊が決死的行動を以って党中央の指令を実行したもので、これによってわが党を滅亡させようと第六次反共戦を準備していた蒋介石南京反動政府は、世界有数の精強を誇る日本陸軍と戦わざるを得なくなった。その結果、滅亡したのは中国共産党ではなく蒋介石南京反動政府と日本帝国主義であった」
と堂々と述べ、また次の・・・
「新資料・廬溝橋事件」葛西純一著・成祥出版社、1975年
――――――





>また、「三光作戦」の三光は「殺し尽くす」「焼き尽くす」「奪い尽くす」の意味で、本来は日本軍の作戦名ではなく、中国側の呼び名だ。しかし、日本側の報告書では「戦線拡大と持久戦」などの章で2カ所にわたって使われ、「物資と食糧の確保のために手段を選ばない討伐作戦」と説明されている。


なんで「三光作戦」が日本側の報告書で説明されるのかな?!

「物資と食糧の確保のために手段を選ばない討伐作戦」と説明されているそうだが、それはまさに支那軍の常套手段だった!

日本軍のそんな話は聞いたことがないが、仮に日本軍にそういう掃討作戦があったとしても、それは支那軍が常時行っていたことであり、もしも日本軍の掃討作戦を取り上げるのであれば支那軍の常日頃の「清野作戦」「焦土作戦」を取り上げなければ話にならない!



●清野作戦(焦土作戦)

支那軍は敗走時、日本軍が利用できる物を何も与えないようにするため、民衆から食糧などを奪い、民家などを焼き払う「清野作戦」(焦土戦術)を行った。

上海~南京、また、南京城壁の周囲1~2キロにある居住区全域と南京城から半径16キロ以内にある道路沿いの村落と民家を強制的に焼き払った。

南京戦の前後も、支那軍や盗賊による強奪に伴い殺害も発生した。


――――
ラーベ
11月16日、蘇州では、舞い戻ってきた中国の敗残兵によって、ひどい略奪が行われたという。済南の手前にある鉄橋が中国人の手によって爆破されたという。日本人の進攻を防ぐため。
――――
孫元良
やがて我々は崑山から蘇州に後退し、ここで一休みできる筈だったが、蘇州は既に秩序が乱れ収拾不能な都市になっており、我々に休む間を与えなかった。
――――
第九師団・第36連隊長・脇坂次郎氏
上海から南京に進軍中、我が部隊は常に先頭に立ったが、沿道の部落の家屋が焼却され、毀損され、また家屋内が略奪されていたのが相当認められた。
これは支那軍が退却に際し・ホ・破壊した、支那軍民の常習たる戦時の略奪によるものであると、支那人民から聞いた。
――――
第九師団・山砲第九連隊・第七中隊長大内義秀氏
わが部隊は、蘇州へ向けて進撃すべく命をうけ、第一線部隊として進み、蘇州到着までは、ほとんど敵の抵抗を受けなかったが、蘇州に至る間の部落は酷く焼かれ、屋根のある家は少なく、住民もいなかった。
このような破壊は、支那軍が退却に際して行ったものと認める
――――
第三師団・野砲兵第五連隊・第一大隊観測班長大杉浩氏
上海から南京へ行く途中のある部落で、稲の堆積されたものが、焼き棄ててあるのを見た。
部落民にその理由を尋ねたところ、それは支那軍が退却の際、日本軍に渡さない為、焼却したと説明を受けた。
――――
ミニー・ヴォートリン
12月6日
UP特派員のマクダニエルがきょう話してくれたところでは、きのう句容へ行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村びとを一人残らず連れ出し、そのあと村を焼き払っているのだ。まったくの「焦土作戦」だ。
12月8日
中国軍に自宅から即時立ち退きを命じられ、これに従わなければ、反逆者とみなされて銃殺される。軍の計画を妨害すれば、家が焼き払われる場合もあるそうだ。
――――


―――――
片山兵二著『郷土部隊と共に歩んだ「わが青春の中国大陸従軍譚」』(昭和52年)
 
以下は佐藤己三男准尉から聞いた南京陥落から四ヶ月後の湯山の模様
「どうも油断がならなくてね。昨夜も付近烽火を合図に数十名の敗残兵が現れ、良民から金品を強奪して行きました。そのため毎日討伐をやり、警戒を厳重にしていますよ」347頁

大坪鉄三郎准尉と長倉久徳一等兵が語る湯山の南の句容の状況
「この近くの部落へ十五名ばかりの強盗がやってきて、主人(農夫)を竈の上に吊り上げ、火あぶりにしたが、それが丁度、憲兵隊が使っているコックの実家なので、すぐに報告があり、今朝二手に分かれて討伐をやったのです。…奴らの残忍性にはあきれます。
農民を火あぶりにした上、金を奪い取り、憲兵隊へ密告せば命がないぞと脅していくので、農民はブルブル震えて仕事が手につかないのです、そのためわれわれが行くと喜び親しんでイスをすすめ、お茶を出して歓待してくれますよ」349~350頁

『1937南京攻略戦の真実』東中野修道編著
―――――



英国の通信社も、蒋介石が焦土戦術を命令していたことを報じた。

―――――
昭和13年7月12日 東京朝日
【漢口発特電十一日発(ルーター特約)】
 蒋政権当局は支那軍に対し九江退却に先立ち、 日本軍の軍事行動に便宜を与えるごとき財産或いは建造物は、 何物たるを問わずこれを破壊し去るよう命令を発した。
 九江に権益を有する外国商社のうち亜細亜石油公司及び怡和・太古の両汽船会社(いずれも英国人経営) は、その所有財産が右破壊令の対象となることを恐れ、 蒋介石に対し右破壊令の施行範囲を最小限に留むるか、または、特殊の物件に限り適用するよう、今や躍起となって申し入れを行っている。
 しかし、支那側は、もしこれら各社の施設が日本軍の手に渡れば、必ず日本軍の軍事行動を助けることは必定であるから、支那側は、退却に先立ちその欲するところにより、これらの施設を破壊する完全なる権利を有するとの見解をとっていることは明らかである。
 商社側は依然申し入れを行っている。なお近く南昌、信陽、岳州等の諸都市に対しても、おそらく同様の命令が発せられるものと見られている。
―――――





>一方、「南京事件」について、現行の中学教科書では「20万人ともいわれる捕虜や民間人を殺害」(日本書籍)、高校教科書で「中国政府は30万人以上を主張している」(東京書籍)などと記述されている。
> 報告書では犠牲者数を「20万人を上限として4万人、2万人などさまざな推計がなされている」としたものの、民間人虐殺自体を疑問視する最近の学説は完全に無視した。



産経新聞は、「民間人虐殺自体を疑問視する最近の学説は完全に無視した。」と控え目に述べているが、最近の研究では民間人虐殺はゼロ(0人)で、捕虜の違法殺害は0人~800人だ。

まず、日本軍による民間人虐殺がゼロ(0人)だったことは昨晩の記事でも簡潔に説明したが、【南京虐殺は嘘(0人)シリーズ84】で更に詳しく分かり易く説明している。


南京虐殺は嘘(0人)シリーズ84の目次
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-3670.html



次に、日本軍による支那人捕虜の不法殺害については1980年代、元日本軍兵士の親睦団体「偕行」が南京戦に参加した畝本正己を中心に、資料、証言を整理し検討し、【1988年】に発行した『南京戦史』で、撃滅・処断推定約1万6千人、うち不法殺害の可能性があるのは歩66第1大隊の捕虜処断最大約8百人の一例のみと結論している。

ちなみに「偕行」は日本軍による南京市民虐殺は0人だったとの認識だ。

それから、捕虜の不法殺害について語るときには、絶対に支那軍による日本軍将兵虐殺を忘れてはいけない!


支那軍は、支那事変のあった8年間で、投降したり負傷したりして捕まえた日本兵を捕虜として保護したことは全くなかった。

「反戦兵士」にする極めて少数の日本兵を除き1人残らず惨殺した。 まさに「皆殺し」だった。

一方、日本軍は、南京だけでも実際に1万人以上の支那兵を捕虜として保護した。

今回の【歴史研究】では、支那軍が捕まえた日本軍将兵を1人残らず虐殺したことについては述べているのだろうか?





日中歴史共同研究

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100131/plc1001312359018-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100131/plc1001312359018-n2.htm
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100131/plc1001312359018-n3.htm

【日中歴史研究】両国の間にはこれだけの相違が…
2010.1.31 23:58

 日中両国の有識者による歴史共同研究は、いまなお双方の歴史認識の溝が埋めがたいことを浮き彫りにした。特に近現代史において、日本側は日中戦争当時の日本政府の意思決定過程の積み重ねに努めたのに対し、中国側は日本の戦争責任を問いただす内容となった。一方で日本側は加害者の立場を明確にするなどの中国側の配慮もみられた。日中戦争を中心に、両者の主張の相違点を検証する。(長谷川周人)

 【「南京事件」】

 国民政府の首都・南京への攻略命令を受けた日本軍は1937年(昭和12年)12月、総攻撃を開始した。このときの犠牲者数を中国が「30万人以上」とするのに対し、日本側は「20万人を上限として、4万人、2万人などさまざまな推計がなされている」と断定を避けた。

 ただ、日本の報告書も中国同様に、極東国際軍事裁判が「20万人以上」、南京戦犯裁判軍事法廷が「30万人以上」とした判断を紹介、「中国の見解は後者の判決に依拠している」とあえて言及した。

 日本側はまた、「捕虜、敗残兵、便衣兵、および一部市民に対する集団的、個別的な虐殺事件が発生した」として、「虐殺事件」と位置づけた。さらに「略奪行動が横行し、軍紀弛(し)緩(かん)をもたらして、不法行為を誘発した」と断じた。


 【日中戦争の死傷者】

 日中戦争の死傷者数について、日本側が「国民政府軍の死者は約132万人、負傷者180万人」、「中国共産党軍の死傷者(失踪(しつそう)者を含む)は58万人を超える」などとしたのに対し、中国側は「不完全な統計では軍人・民間人の死傷者は3500万人以上」とし、見解にはけた違いの開きが出た。

 中国側は日中戦争の総括として、「中国人民に深刻で重大な民族的災難をもたらした」とし、「日本軍国主義による侵略戦争」を糾弾した。日本側は慰安婦問題などにも触れながら、「中国に深い傷跡を残した」と記した。

 【張作霖爆殺事件】

 日本軍と蒋介石率いる国民革命軍が1928年、山東省済南で衝突した済南事件後、満州を実効支配していた奉天軍閥の張作霖将軍を爆殺する事件(同年6月4日)が起きた。

 日本の報告書は、事件について日本による大陸拡張政策の一貫と位置づけ「関東軍の謀略」と記述するなど、事件は中国に対する侵略戦争に結びついたとの基本認識を示した。

 これに呼応する形で中国側は、「(関東軍作戦参謀の)石原莞爾が『世界最終戦争(論)』という考えに立ったように、陸軍の一部は世界戦争に向かう構想の強化に中国の利用を提起した」と陸軍の暴走ぶりを詳述。さらに「張作霖謀殺で大乱を引き起こし、秩序維持の名の下で東北に出兵した」と解説した。


 【柳条湖事件】

 満州事変の発端となった柳条湖事件(31年9月18日)に関して、日本側は「石原莞爾と高級参謀・板垣征四郎を首謀者とする謀略だった」と断じた。

 満州における軍事行動は、(1)政府や陸軍指導部の基本方針に反した急進的な軍人の独走(2)ソ連の軍事的脅威への対抗措置(3)日本の国家改造を促すことへの期待-が目的だったとしたが、「(政府説明の)自衛や権益擁護を超え、満州全土を占領する計画だった」と軍部の野心的な狙いにも触れ、中国の主張に同調する記述も盛り込まれた。

 中国側は、日本が「満蒙危機」をあおり、「武力による中国東北地区への侵攻、占領を計画した」のに対し、「不抵抗」を決めた中国は国連と米国の関与を求め、国際法に沿った解決の道を探ったと強調した。

 【盧溝橋事件】

 日中戦争の引き金となった盧溝橋事件(37年7月7日)について、事件は「偶発的」とした日本側に対し、中国側は「偶発的に起きた可能性がある。ただし、事件は日本の中国侵略政策と大きな関係があり、必然性もある」と、日本の戦争責任を追及する姿勢を貫いた。

 日本側は近衛文麿内閣が臨時閣議で事件の「不拡大」を決めたものの、直後に派兵への協力を政財界に求めたことについて、「進行していた現地の停戦努力を無視する行動であり、その後の現地交渉を困難なものにした」と批判した。






>【「南京事件」】


上述のとおり。

更に詳細は次のシリーズで。


南京虐殺は嘘(0人)シリーズ84の目次
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-3670.html





>【日中戦争の死傷者】
>日中戦争の死傷者数について、日本側が「国民政府軍の死者は約132万人、負傷者180万人」、「中国共産党軍の死傷者(失踪(しつそう)者を含む)は58万人を超える」などとしたのに対し、中国側は「不完全な統計では軍人・民間人の死傷者は3500万人以上」とし、見解にはけた違いの開きが出た。



終戦直後は、支那国民党もGHQも、支那人犠牲者の人数を132万人と発表していたが、その後1998年に江沢民が来日した際の演説で3500万人と発言し、以後、南京大虐殺記念館での公式数字となり、現在も死者数の増加は継続中だ。


●支那人犠牲者数増加の歴史まとめ

―――――
発表年  犠牲者数   調査・出典

終戦時   132万人   GHQ調査・発表
終戦時   132万人   国民党調査・発表
1948年   438万人   国民党政府報告書
1950年代 1000万人   共産党政権発表
1970年  1800万人   共産党政権発表
1985年  2100万人   共産党政権発表(抗日勝利40周年)以後公式数字に
1995年 死傷者3500万人 (抗日戦争記念館)
1997年 死者 3500万人 (抗日戦争記念館改修後)死傷者数を死者数に変換
1998年  3500万人   江沢民発表(来日時の演説)以後公式数字に
2005年  5000万人   卞修躍博士発表(抗日勝利60周年)
―――――



支那事変では一般民衆にも多くの犠牲者が出たが、それは日本軍の殺害によるものではなく、支那軍の殺害によるものだった。

例えば1938年6月、支那軍は黄河や揚子江の堤防を決壊させ支那民衆を大量に殺害した。

この時の死者数については、終戦後の1945年12月に国民政府が作製した「河南省戦時損失調査報告」がある。

それによると、1944年末の段階で、洪水による死者約32万人という数値を提示している。


―――――
『悪逆、暴虐、その極に達す 敵、揚子江堤防を決壊』
6月26日同盟ニュース

悪逆の限り、黄河決壊の暴挙を敢えてなし、無辜の民幾十万かを絶望の淵にたたき込んだ蒋介石は、なんたる無謀か、皇軍を怖るあまり、又しても進撃を阻まんとして、太湖南方揚子江両岸の馬華堤を破壊し、付近一帯の住民は濁流渦巻く大水害に見舞われんとし、怨嗟憤怒は地に満ちている
―――――



1938年に支那軍が黄河の堤防を決壊したことによる犠牲者数は32万人と非常に多かったが、支那軍は1937年の支那事変勃発から1945年8月の終戦まで同じようなことを繰り返して支那民衆を殺しまくった。

また、支那軍による徴発、略奪、徴兵等は苛酷を極め、支那軍と支那人民との間で殺し合いが頻繁に起こった。

このように、支那民衆を大量に殺害した犯人が日本軍ではなく支那軍だったことは、ルシアン・ビアンコ著『中国革命の起源』や郭沫若自伝『抗日戦回想録』で明確に述べられている。


―――――
一般住民に対して、徴発と略奪があまりしばしば行われたので、農民は日本軍よりも彼等自身の軍隊をさらに一層憎んだ。
穀物を略奪されまいとして抵抗する農民を飢えた中国兵が殺したり、日本軍の進撃を免れるために逃亡兵が村民を殺し、その衣類を自分が着こんで変装するということも起こった。
日本軍の進撃を鈍らせて鄭州の町を守るために、政府は1938年に黄河の堰を開いた。
すると、黄河は1世紀近く前から打ち捨てられたままになっていた古い河道を再び流れた。
「思い切った」決定であったが、このために、河南省東部の数十万の農民が命を失った。
彼等は水に溺れ、或は飢えて死んだのである。

『中国革命の起源』ルシアン・ビアンコ著
―――――



―――――
私はうけ合ってもいい、抗戦八年のあいだにこうしてふみにじられた同胞、いわゆる壮丁から弱丁になり、弱丁から病丁になり、病丁から死丁になって行った同胞の数は、戦死したもの、日本軍に殺されたものにくらべて、最低百倍は超えているに違いない。

『抗日戦回想録』郭沫若自伝
―――――



―――――
農民の飢餓救った日本軍 邦訳本出版 中国で映画化
(06/4/9産経新聞より一部抜粋)

1942年、大飢饉で河南省の農民を救ったのは、日本軍だった。…(略)…劉震雲さん著、劉燕子さん翻訳の「温故一九四二」だ。同小説は日中戦争の最中の1942-43年、河南省を襲った干魃による被災民3千万人、餓死者3百万人という大飢饉の状況を農民、蒋介石ら指導者、米国人記者、日本軍の立場から多面的に描き出した。飢饉の原因は天災だけでなく、中国軍の容赦ない軍糧のとりたてのせいでもあった。その中で、日本軍は餓死寸前の農民に軍糧を放出した。
―――――





他にも支那軍は、上海市街地のホテルやデパートを爆撃して民間人を大量殺害! 更に、焦土作戦、世界初の違法毒ガス使用や細菌戦、長沙市焼き払いなどの暴虐・悪逆の限りを尽くして大量の支那人民を惨殺した!

●参考記事

支那の「極悪暴虐・大虐殺」と「卑怯な逆宣伝」のまとめ
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/12704324.html


●結論

支那事変における支那軍戦死者は132万人(GHQ発表、国民党発表)

支那民衆を大量殺害したのは日本軍ではなく支那軍だった。これは多数の証拠資料から紛れもない事実

日本軍が無辜の支那民衆を惨殺した証拠資料はなく事実無根





>【張作霖爆殺事件】
>日本の報告書は、事件について日本による大陸拡張政策の一貫と位置づけ「関東軍の謀略」と記述するなど、事件は中国に対する侵略戦争に結びついたとの基本認識を示した。



「事件は中国に対する侵略戦争に結びついた」とか本気で言っているのだろうか?

そもそも日本は支那に対する侵略戦争なんてやっていないし、どう考えても張作霖爆殺事件は満州事変には結びついたかもしれないが、支那事変とは完全に分断されている。

「張作霖爆殺事件」は、河本大佐や東宮大尉ら関東軍の一部がソ連特務機関GRUの工作員となり、ソ連のために張作霖爆殺を実行し、あえて自分たちの犯行を示す証拠を残したり言いふらしたりしたと考えられる。


●説明記事

森本敏の張作霖爆殺に反論
反日左翼の森本敏が産経新聞【正論】欄で田母神論文を批判
真相は河本大佐らソ連特務機関GRUの工作員が暗殺を実行し敢えて自分らの犯行示す物証や証言
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/37494995.html





>【柳条湖事件】
>満州事変の発端となった柳条湖事件(31年9月18日)に関して、日本側は「石原莞爾と高級参謀・板垣征四郎を首謀者とする謀略だった」と断じた。



満州事変は、関東軍による警察行動であり、すぐに蒋介石も満州国を承認して決着した!

●関連記事

9月18日は満州事変の日(柳条湖事件)
孫文ら辛亥革命の指導者は満州と支那は別物と主張
事変は関東軍による警察行動
年表
1933年の「塘沽協定」締結により満州事変は終結し、蒋介石も満州国を承認
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/41847734.html





>【盧溝橋事件】


詳細は上述のとおり。

「盧溝橋事件」は、支那共産党が計画的に行なった事件だ。





>日本側は近衛文麿内閣が臨時閣議で事件の「不拡大」を決めたものの、直後に派兵への協力を政財界に求めたことについて、「進行していた現地の停戦努力を無視する行動であり、その後の現地交渉を困難なものにした」と批判した。


日本側がこんな批判をするのだから、本当に腹が立つというか、呆れるというか、死んでほしい!

停戦努力しながらも、念のため派兵しておくことは何ら問題ではない。

実際に支那軍も日本より先に派兵していたし、現地の支那軍は日本が派兵を決定する前に最初に停戦協定を破っている。


――――
●1937年

7月7日、盧溝橋事件。
夜10時30分頃、演習中の日本軍が2度にわたって銃撃を受ける

7月8日、午前3時25分に支那側から3度目の射撃、4時20分に牟田口連隊長が反撃を命令、5時30分の4度目の銃撃をきっかけに反撃開始

7月9日、午前4時に現地で停戦の約束がされるまで日本側戦死11人・負傷36人、支那側(推定)戦死30人・負傷約100人。
蒋介石は4個師団と戦闘機を北支に派遣

7月10日、支那側が攻撃を再開
日本側も応戦、日本側に戦死6人、負傷10人。
参謀本部第三課と陸軍軍事課は、支那側が「対日武力戦争を準備」しており、北京地区1万2千人の居留民保護に不安があり、支那第29軍7万5千人に対抗するため10万人規模の「北支出兵」を主張。
石原部長も承認して陸軍の決定となる

7月11日、現地で停戦協定が成立。
支那の何応欽部長が、7月末までに戦争準備を整える全兵力動員の「戦争計画」を指示。
14時、日本の閣議で5個師団の「北支派兵」が決定し声明
――――






「歴史共同研究で近現代史を担当した日本側の北岡伸一ら5人に怒り!」

を覚える人は、↓クリックお願いします。↓

人気ブログランキングへ



  ∧_∧
 ( ・∀・) よろしく
 ( ∪ ∪
 と__)__)



テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

copyright © 2017 Powered By FC2ブログ allrights reserved.