『神は妄想である」リチャード・ドーキンス(2007)
原題:THE GOD DELUSION ーRichard Dawkinsー
- 作者: リチャード・ドーキンス,垂水雄二
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2007/05/25
- メディア: 単行本
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お正月なので、おじさん難しい本読んじゃいました。
『利己的な遺伝子』で世界を驚かせた(多分)リチャード・ドーキンス氏の意欲作。年末年始に読もうと、9月に買ってから寝かせておいた甲斐があったというものです。私ごときの理解が到底及ぶところではない大著なので気楽に紹介しますね。
掛け値無しに面白い!
欧米の(他は知らにゃい。他も、か)一流の科学者というのは、専門分野を問わず、
◇自然科学
◇社会科学
◇人文科学
の基礎教養の深さが段違いだと痛感させられます。大したもんです。お前が言うな。
ドーキンス氏、元々は生物学者なんですよね。学術的には完全にオリジナルではないそうですが、一般大衆に『利己的な遺伝子』の考え方を広めただけでなく、ネット上で今よく使われる『ミーム』の概念もこの人からなのだそうで。 お前が言うな。まだなんも言ってないって。
現在の生物学は進化論によって立つ部分が大きいだけに、聖書的(キリスト教原理主義的)見解との衝突が永らく避けがたかったのでしょう。世の生物学者の大方は、「神は不可知の領域にある」「宗教と科学はすみ分け可能」って言っときゃいいじゃん!とやり過ごしているはず。そこは喧嘩してもしゃーないでしょと。まあ、大人な態度ですな。
いっぽうドーキンス氏。さすが オックスフォード大学 "科学的精神普及のための寄付講座” 初代教授。※著者紹介文なんだから、講座名から"寄付"は省いてもよかったのでは・・・。真っ向勝負で宗教への科学的批判に挑みます。"考証"とは敢えて言いません。もっと苛烈なものなので。
弁護士のウェンディ・カミナーはかつて、宗教をからかうのは、米国在郷軍人会館のなかで国旗を燃やすのと同じほど危険であると述べたが、この言葉は現実をほんのわずかに誇張にしているに過ぎない。今日のアメリカにおける無神論者の社会的地位は、五〇年前の同性愛者の立場とほとんど同じである。
アメリカのほとんど信じがたい宗教的な風土については垂水雄二氏が「訳者あとがき」で上手くまとめてくれています。なお垂水氏は『利己的な遺伝子』の訳者でもあるので、とてもよく出来た日本語版になっています。原文読んでないくせに何故分かるんや!と。さーせん。
たとえば中絶医が原理主義者によって射殺されるとか、あらゆるチャンネルでテレビ伝道師が人気を得ているとか、医者にかかるのをやめて祈りで病気を治せと宣伝する牧師に反対するデモをしようとした人が警官に保護を求めたら反対に、そんなデモはつぶしてやると言われたとかの話
米国では公教育を拒否して、宗教学校で学ぶことが認められており、そこでは進化論を信じない子供たちが育てられている(おそるべきことに米国国民のなかで科学的な進化論を信じている人は、10%にも満たない)
テレビ伝道師が番組中で多額の寄付を公然と呼びかけ、大統領(ブッシュ/ジュニアは原理主義者を公言)の毎週月曜朝の相談役になり、創造論者、インテリジェント・デザイン論者が学校教育にまで介入してくるアメリカ社会。そこで論文ではなく一般大衆に向けた宗教批判を出版することのリスク。容易に想像がつきます。
古くは十字軍から魔女裁判、9・11やヨーロッパ各地のテロと、その報復としての軍事介入に至るまで、宗教上の正当性を謳い始めた時に、人が最も残虐になれるのは何故なのか?
宗教に染まった世界を実害のあるものとして、ドーキンス氏は激しく徹底的に批判します。これも「訳者あとがき」から。
哲学的・科学的・聖書解釈的・社会的、その他あらゆる側面から、神を信じるべき根拠をつぶしていき、どこにも逃げ場を与えない。
なんか訳者に頼ってばかりですが、中身が重厚過ぎてバシッと要約しにくいのですよ。新年から力不足を痛感させられるなー。
ざっくり言うと、本書前半(4章まで)が「神は存在しないこと」への科学的検証、後半が「なぜあらゆる時代と地域における人間集団が全て宗教を持つのか」についての社会人類学的な考察 となっています。おそらく。あってます?
前者はインテリジェント・デザイン論に対抗すべく進化論と宇宙物理学が、後者は道徳的根拠としての宗教必須論に対して道徳哲学、社会学、教育学的な論証がそれぞれ武器に使われます。
このあたりの学際的な反証と言うんですか、宗教信仰者が繰り出すと思われる仮想の(これまで散々言われてきた事のようですが)問いを、広汎な科学的事実と論理を以てしらみつぶしに打ち破っていく様が、まこと圧巻であります。
◎ユーモアがなにげに達者である
◎子どもに与える宗教の深刻な害悪について真剣である(完全に怒ってます)
◎妙にイケメンである(画像検索して反りましたね。俳優かよ!)
イケメンはどうでもいいとして(プロモーションに活用しなかったのかな? ケリー・マクゴニガル女史とか、表紙の写真が大き過ぎだっ!ちゅうぐらい美貌を活かしてるのに)私、完全にドーキンスファンになりました。
以下、めちゃめちゃいっぱいある好きなところから抜粋です。
「神はサイコロを振らない」は「すべての事柄の核心に偶然性(ランダムネス)が横たわっているわけではない」と翻訳されるべきである。
アインシュタインの名言については、相当数が取り上げられています。彼があまりにも有名なために、有神論者が前後の文脈を無視して、あるいは彼の真意を理解せずに引用しまくっていると。
何についても、あるものや事柄が存在しないと決定的な形で証明するのは不可能なことを考えれば、神の存在を証明できなくてもいいわけだし、それは瑣末なことでもある。問題は、神が反証可能(神が存在しない)かどうかではなく、神の存在がありえるかどうか(蓋然性)なのである。問題がまったく別物なのだ。ある種の反証不能な事柄は、他の反証不能な事柄よりもはるかにありえないと、分別によって判定される。蓋然性のスペクトラムに沿って考えるという原則から神だけを除外すべき理由はどこにもない。
ダーウインおよび彼の後継者たちは、目を見張るような統計学的ありえなさと、設計されたようにしか見えない生物が、単純な発端からいかにして、ゆっくりと段階を経ながら進化してきたかを示してきた。生物に見られる設計(デザイン)という錯覚はまさに錯覚でしかない
もし、この章での議論が受け入れられれば、宗教の事実上の根拠ー神がいるという仮説ーはもちこたえることができない。神はほぼまちがいなく存在しない。
科学者らしい見事な啖呵をきりますねぇ。かっこいい!
「多様性」という祭壇に、宗教的伝統の多様性を保存するという名目で誰かを、とくに子供を生け贄に捧げることについては、なにかしら愕然とするほど尊大であると同時に、非人間的なものがある。
小さな子供がいずれかの特定の宗教に属しているというラベルを貼られているのを耳にしたときに、私たちの誰もが顔をしかめるようであるべきだと、私は思うのだ。
補足が必要ですね。筆者は「カトリック教徒の子供」「ユダヤ教徒の子供」といった宗教的ラベルを子供に貼り付けるのは間違いだと。それは4歳の子供に「ケインズ主義者の子供」「マルクス主義者の子供」とキャプションを打つのと何ら変わらないことなんだよと。なんて的確な喩え。
全ての子供は「~教徒の子供」という呼び方ではなく、「~教徒の親を持つ子供」だと呼ばれるべきだと。宗教とは、物事を自分で決められるようになってから、選んだり拒絶したりできるものだと教えなくてはならないのだと。
失敗した。もっと早く読んでおくべき本でした。
最後にアインシュタインの美しい名言を孫引き。
私は人格神を想像しようとは思わない。世界の構造が私たちの不完全な五感で察知することを許してくれる範囲で、その前に立ち、畏怖の念に打たれるだけで十分だ。
以上 ふにやんま