話題になっているらしい、この記事についてです。
紅白での相葉雅紀とりゅうちぇるの会話が、前提を色々とすっ飛ばした雑なものだった、というのは分かります。
「適齢期の女性の結婚」という色々な人の心に引っかかりそうな話題を、「適齢期の男性がネタとして扱う」という構図を見せただけでも、色々な方面で物議をかもすことは分かりそうなものなのに、と自分もNHKの考えの甘さを残念に思います。
ただそういうことを踏まえた上でも、この元記事は主張の展開の仕方が雑だし、実際の会話の主旨を無視して、わざと煽情的に書いているようにしか思えません。
同時にこの問題について、ひごろから思うところがあるので書きます。
まず、
「女らしくしろ」と
「女らしいほうがいい(好き)」
はまったく違います。
前者はセクハラだけれども、後者は発言者の好みの表明にすぎません。
「自分がショートカットが好きだから、お前、ショートカットにしろ」
「自分がショートカットが好きだから、ショートカットの女性としか付き合わない」
前者はモラハラですが、後者はただの好みの表明です。
セクハラやジェンダーの考え方に世の中が厳しくなるにつれて、この二者の違いが分からず、ひとまとめにして攻撃する人が増えてきたように感じます。
個人的にそのことに非常に危惧を抱いていることが、この記事を書こうと思った動機です。
元記事は「女性らしいほうが結婚できる」という言葉に非常に反発しています。
確かに結婚という個人的な問題に立ち入ることについては、自分もマナー違反だと感じます。なぜ、NHKがこんな台本を用意したのかは理解に苦しみます。
しかし、その後の「女らしくなければ、結婚できないとでもいうのか」という主張については、別に結婚するほうが偉いわけでも何でもないのだから、どっちでもよくないか?と思います。
この言葉に反発するということは「結婚できること」を「できないこと」もしくは「しないこと」よりも上位においているということになるのですが、その価値観のほうが、自分は違和感を感じます。
吉田沙保里はテレビでも結婚願望を語っていたので、その前提を踏まえたうえで、
「(結婚しなければいけないというわけではないが、)もしあなたが結婚したいと望むのならば、自分はこうすればいいと思う。(ただもちろん、結婚しなければならないわけではないし、自分のアドバイス通りにしなければ、結婚できないわけではない)」
という流れの発言だと思います。
りゅうちぇるの答えは違いますが、話の流れとしてはこうです。
吉田沙保里は服装などを見ても、スポーツ選手としての実績とはまったく別に、自分の「女性という性」を大切にしている人のように思います。
「女性である自分」を大切にしている人に対して、「女性らしい」という感想を述べるのは呪いでも何でもないと思います。
「女性である自分を大切にしていることも含めて、その人自身」と認める行為だと思います。
「女性とか男性とかいう前にひとりの人間である」
それはその通りだと思います。
しかし「女性であるという要素も含めて」、その人はその人自身なのです。
本人が「女性であること」を肯定的に受け止め、自分自身の一要素と認めているとき、他人がそれを勝手に切り離して、その人のことを語ることは、それこそ呪いであり、無神経であると自分は考えます。
本人の意思を無視して、その人の「女らしさ」を「性別以前に一人の人間である」という尤もらしい理屈でもって語ることを禁じることは、それもまた別種の押し付けです。
「女性性」というものを、かけがえのない自分自身の一要素と考え誇りに思い、語りたい、体現したいと考えている女性も、世の中には大勢います。
その意識を肯定したり認めたりする「女性らしい」という言葉を、内容や前後のつながりを精査せずに「呪いの言葉である」と決めつけ攻撃することこそ、女性性の否定であり抑圧です。
「女性性」を大切に思う女性からそれを自分の勝手な理想論で取り上げる人は、「女性らしさ」を押し付ける人と同じくらい呪いを振りまく人だと思います。
「女性らしさ」を体現したい人には、「女性らしいね。素敵だね」という声がかけられ、女性らしさにはそれほどこだわらず、一人の人間として生きたいと思う人には、「女性らしくしろ」という言葉がかけられることはない。
その人自身が望んだ場合、その人が持つ要素を抑圧されることなく体現でき、他人からも認められる。
そして自分の考えとは違っても、お互いの生き方が尊重される、そんな社会になって欲しいです。
繰り返しますが、
「女性らしくしろ」と他人に押し付ける人も、
女性らしさを体現したいと望む人に「女性らしさとか性別は関係なく、人間として生きろ」と押し付ける人も、
他人という存在への無神経さと呪いのかけ方は、まったく一緒です。
「女らしさの呪いをかけるな」という人は、「女らしさに」呪いをかけないで欲しい。
「女性らしさを押し付ける人」を敵視する余り、「女性らしさを好み愛する人」を攻撃しないでほしい。
この二者は、まったく異なるものです。
「女性らしさを押し付ける人を攻撃する」⇒「男性とか女性だとか言う前に人間だろう、という自論を押し付ける」⇒「女性らしさを好む、という人もまとめて攻撃する」⇒「女性らしさ」という言葉や概念そのものが攻撃の対象になる。
元記事自体は、「この問題にそれほど興味がない人間が書いた、適当な主張だな」くらいにしか思いませんが、こういう発想が広まること自体に非常に危機感を感じます。
実際に「女性らしさを押し付けること」と「女性らしさを好むこと」をごちゃまぜにして、上記のような流れになっている論を、ネットでも何回か見ています。
「人間らしさ」と「女性らしさ」は対立するものではありません。
「女性である前に人間として生きる」ことも可能だし、「女性であることも含めた人間として生きる」ことも可能です。
自分の性とどう付き合い、どう体現し、どう生きるかは、本人だけが決めることです。
元記事の筆者が「女性らしい」という言葉すべてを「女性性への抑圧だ」と語っていますが、「女性らしさ」という概念や言葉の否定こそ(自分で女性という性を後天的に選択した人を含む)「女性という性別」への抑圧です。
否定されるべきは、その概念を「他人に押し付ける言動」です。概念じたいではありません。
まさにこの筆者が元記事内で語っている「性別を抜きにした人間らしさ」という概念を他人に押し付けているような言動こそ、他者への抑圧であり、否定されるべきものです。
余りにひどい内容なので確信犯なのか?と疑っていますが、ひとつ確かなことは呪いのかけ具合は、この人が批判している対象と同レベルだということです。
*記事は女性について語りましたが、「男性性」についてもまったく一緒だと思っています。
*りゅうちぇるの言葉が「結婚したいなら、女らしくしろ」というものであれば、自分も抑圧だと感じます。