クローズアップ現代

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No.39132017年1月5日(木)放送
オイ鬼太郎!ワシの幸福論を聞いてくれ ~未公開 水木しげるの日記~

オイ鬼太郎!ワシの幸福論を聞いてくれ ~未公開 水木しげるの日記~

未公開! ゲゲゲの鬼太郎秘話

1年前、93歳で亡くなった水木しげるさん。
僕、鬼太郎だけでなく「河童の三平」や「悪魔くん」など、たくさんの名作を残した、戦後を代表する漫画家です。

その水木さんの未公開の日記が見つかりました。
水木さんが売れっ子だった1960年代からの、およそ30年分。
うわ〜!
スケジュールは漫画の締め切りで、びっしり。
忙しかったんだな〜。
日記の中で特に多かったのは、僕、鬼太郎についての走り書き。
き…、鬼太郎犬!?
えっ、僕を犬にしようとしていたの?
こっちは、僕の顔が風呂敷になって、相手を包む?
どれも斬新だけど、結局漫画にはならなかったみたい。
日記の中で特に気になる文章を見つけた。
「その后の鬼太郎」。
水木さん、「鬼太郎」の続きを考えていたんだね。

水木しげるさんの日記(朗読:俳優 佐野史郎さん)
“1970年4月19日。
その后の鬼太郎。
失職して、ねずみ男のところに居候している。
俺の助手になるなら、しばらくおいてやってもいい。
俺と一緒に、ゴキブリの繁殖を手伝うんだ。
鬼太郎、オチメだけにはなるもんじゃねえなあ。”

え〜っ、オチメの鬼太郎?
水木さん、何で、こんな僕を描こうとしていたんだろう。

水木さんの伝記を書いた足立さんに、日記を見てもらう事にしました。
日記の中の鬼太郎を見てどう思いましたか?

水木さんの伝記の著者 足立倫行さん
「水木さん自身好きなキャラクターで鬼太郎をあげたことはない。
元々は妖怪退治をする鬼太郎なんて発想はなかったと思う。」

え〜、本当!?
確かに、最初に水木さんが世に送り出した鬼太郎は、今の僕のイメージとは全く違うものでした。
妖怪を追い詰めた人間たちを不幸にしていく怪奇漫画だったんだ。
でも、みんなが好きだったのは、人間のために妖怪を退治する、僕。
高度成長のまっただ中、誰もが夢を託せるヒーローを求めていたんだね。
おや?このころの日記に手紙が挟んである。
編集者からの駄目出しの手紙だ。

編集者からの手紙
“もっと合理的にならないものでしょうか。
もっと簡略化した方が分かりやすいストーリーになると思います。
分かりにくいストーリーはぜったい、さけてください。”

水木さんの伝記の著者 足立倫行さん
「妖怪を紹介しながらやっつけるというようなパターンができてしまって、人間を助けるスーパーマン鬼太郎になっちゃった。
これは量産できるわけです。
それは必ずしも彼が描きたかった作品世界ではないかもしれない。」

じゃあ、水木さんは、どんな世界を描きたかったんだろう。
日記にこんな物語がありました。

水木しげるさんの日記(朗読:俳優 佐野史郎さん)
“妖怪軍団。
今のように、人間にかくれて生活しなきゃあならないようでは、いつまでたっても妖怪の地位は向上しない!
日本が唯一の妖怪後進国であるのは、鬼太郎のせいです。”

物語では、妖怪たちを救おうと解放軍が攻め込んできて、僕をさんざん痛めつけるんだ。

「妖怪が人間の味方をするなんて。」

「ひねくれた妖怪だな。」

水木さんは、絶対正義のヒーローばかりが、もてはやされる事に疑問を感じていたんだね。
編集者や世の中の期待と自分の描きたいものが違う。
水木さんは、そんな自分を自画像にしていました。
あれ?大きな歯車がカラカラと回ってるだけ。
「劇画製作機」と書いてある。
何だか僕、心配になってきた。

精神科医の名越先生、この絵どう見たら、いいんでしょうか?

精神科医 名越康文さん
「顔すらない、歯車だけ。
人格もない。
そこにあるのは、カラカラと音をたてて、まわり続ける劇画製造機。
すごみを感じますよ。
歯車というか、ベルトコンベアーというか、追い立てられる生活から一抜けたと降りたら、どこまで沈みこむかわからない。」

このころ水木さんが、ある旅に出ていたことが日記から分かりました。
1972年10月18日。
行き先は、東北って書いてある。
その旅をたどってみよう。
夕暮れ時、水木さんは不思議な光景を目にしたんだ。

水木しげるさんの日記(朗読:俳優 佐野史郎さん)
“夕方、田んぼでワラをたくのをみる。
汽車からみると、それが生きているようにもみえる。
また、遠くの火が近くにもみえる。
妖怪火の感じが分かったような気がした。”

水木さん、ワクワクしてきたみたい。

そして向かったのは、福島県会津の小さなお寺。
この旅に、同行した人が見つかりました。

雑誌の編集者、有川さん。
日本の伝統を題材に、女性向けのイラストを水木さんに頼んだんだって。

元雑誌編集者 有川雄二郎さん
「当時『アンアン』『ノンノ』というのが、すごいはやってて、アンノン族と言われて、アンノン族も読者に引っ張り込むみたいなことを企画書に書いたと思う。」

旅に出たくなるような、おしゃれなイラストを描いてもらうはずだったんだけど…。
お堂に入った水木さん、立派な仁王像には目もくれず、なぜか隣の柱を見つめたんだって。

水木しげるさんの日記(朗読:俳優 佐野史郎さん)
“だきつき柱と書いた柱があり、この柱に抱きつくと、死ぬときに苦しみなしにコロリと死ねる。
別名、コロリの柱ともいわれる柱が、手あかにまみれていた。
よほど古来、多くの老人がなでまわしたのだろう。”

水木さんは、柱に抱きつくお年寄りの姿をイラストに描きました。
世の中から、忘れられがちな目に見えない世界を細かいところまで描き込んだんだね。

元雑誌編集者 有川雄二郎さん
「商業主義というか、そういうものに対する自分自身に対する抵抗もあったろうし、やっぱり表現者だから、本当の俺はそういうもんじゃないよと。
まあしょうがないから形式化されたストーリーを描いてるけども、自分に対する贖罪(しょくざい)というと大げさになっちゃうけど、原点にまた戻ろう、捨てないぞ。」

発見! 水木しげるの日記

ゲスト 京極夏彦さん(小説家)

見つかった日記の一部というのを特別に、こちらに、お借りしてきたんですけれども、京極さんは、どう、ご覧になりましたか?

京極さん:水木先生はああ見えて、割ときちょうめんな方なんですね。
だから、こういうことはあるだろうと思いましたけど、実際にこんなにたくさん残っているというのは、ちょっとびっくりしました。
30年分ですからね。

実は私も、水木さんが亡くなるまで過ごされた東京の調布市で育ちまして、小さい頃から鬼太郎に親しんできた1人でもあります。
鬼太郎というと、やはり妖怪を退治するヒーローのイメージが強かったが、水木さんが描きたかったのは、本当はそうではなかった?

京極さん:確かに世間の人は、勧善懲悪のストーリーとして読んでいるんだけど、結構、勘違いなんです。
よく読んでみると、そんな単純な筋立てのものはないし、逆に、水木先生の作品って、ストーリーはある意味どうでもいいというところがあるんですね。
鬼太郎自体、ヒーローの割には昼寝したり、おなかをすかしたり、サボったりするし、むしろアンチヒーローとしてのねずみ男が際立っていて、それが鬼太郎をなじるので、読んでいる方は、この人はボランティアで正義の味方しているんだみたいに勘違いしちゃうんです。
でも実は、そうでもないですよ。

水木さんが描く妖怪は、私たちがふだん思い浮かべる、ちょっと気持ち悪いとか、怖いというものとは違って、親しみが持てるが?

京極さん:そうですよね。
水木さんは、やっぱり懐かしさみたいなものをかなり重要視しています。
戦略的に懐かしいものを取り入れていく、表現していくっていうところがあったんです。
だから「鬼太郎」自体も、そういう作りにはなっているので、初めて見た人がどこかで見たことがあると思えたり、初めて見たから懐かしいはずがないのに、どこか懐かしいような感じがあったりするという景色や風景みたいなものを描き込んで、そういう作り方をしているので、むしろ筋立てっていうのは、二の次なところがあるんですよね。

懐かしさや古いものを大事にするのは、なぜ?

京極さん:大事にするというよりも、そういうことを戦略的に取り入れることによって、妖怪というものを文化として認めてもらおうという、お考えがあったのは間違いないと思います。
今、妖怪文化というのは結構、その妖怪で水木先生も勲章をもらわれたり、あるいは、文化功労者になられたりしているわけだけど、40年前、50年前は考えられなかったんです。
まず、妖怪って言葉が通じなかったわけだから、それを何とか世の中に浸透させるためには、やっぱり鬼太郎を成功させなきゃいけないという、お気持ちがあったんだと思います。
だから、不本意なものを描いてたっていう、ふりをしていただけじゃないかと。

今回、見つかった日記には、私たちが今の時代を生きていく上でのヒントになる言葉の数々がつづられていたんです。

未公開日記 水木サンの幸福論

再び、鬼太郎です。
これは家族が水木さんを撮影した、8ミリフィルム。
水木さん、楽しそう!
売れっ子になった水木さん。
このころ、水木さん一家の楽しみは、新宿のデパートに行くこと。
でも、日記には意外なことが書かれてあった。

水木しげるさんの日記(朗読:俳優 佐野史郎さん)
“デパートでの幻想。
一体、こんなとこへきて、なにがおもしろいんだろ。
じゃあ、家でじっとしているのがよいのだろうか。
むしろ仕事の鬼になって、なんのために生きたのかわからない一生をおくるのがいいのか。
そして、考えはめぐり、今の不満な毎日の姿が一番いいということになる。
あなた、なに、ぼんやりしてたの。
妻にしかられ、ハッと気づく。”

豊かになっても、満たされない。
水木さん時代を皮肉る物語を書いていた。

水木しげるさんの日記(朗読:俳優 佐野史郎さん)
“あゝ、植物大戦争。
植物のイカリが一時に燃えたのでしょう。
日本中の植物が、一斉に自衛のために蜂起したのです。
政治家が、もうちょっと公害のことを考えてくれてたら、こんなことにならなかっただろうと、くやまれてなりません。
世界中が植物だけになってしまう。
自然をあまりバカにしすぎたのが悪かったのです。
近ごろは、地獄にゆかんでも、地上にいくらでも地獄がみれる。
試験地獄。
交通地獄。
公害地獄。
値上地獄。
ノルマ地獄。
医療費地獄。
人間は、結局幸福になる方法を知らない。”

そして、このころ、日記に何度も出てくる名前があった。
どうも水木さん、この人物を通して、時代に何か言おうとしていたみたい。

水木しげるさんの日記(朗読:俳優 佐野史郎さん)
“ヒットラー。
私は、愛するドイツに破滅しか与えられなかった。”

ごく普通の青年だった、ヒットラー。
愛する祖国のために立ち上がり、最後は破滅を招いてしまう物語。
水木さんは、ヒットラーを善人とも悪人とも決めつけずに描くことにしたんだ。
ヒットラーをまつり上げたのは、国民たちだった。
水木さんの漫画作りを手伝っていた、呉さん。
水木さんは、どうして、こんな描き方をしたんだと思いますか?

評論家 呉智英さん
「ある意味ヒットラーは究極の正義感、究極の絶対的正義を唱えた、彼自身にとってのですね。
人間なるものも一様なものではなくて、もっと多面的、複雑なものである。
社会、世界がそうであるのと同じようだということを描きたかった。
絶対的な価値観への異議申し立てがあった。」

日記には、水木さんがたどりついた決意が書いてありました。

水木しげるさんの日記(朗読:俳優 佐野史郎さん)
“考えてみりゃあ、我々は、この地球という惑星に生まれてみたわけだが、人が、どうこうするから全国民一丸となって、どうこうする必要もないと思う。
各自、自由に独自な生き方をしていいわけだ。
みんなが競争しているのにノンキにかまえるには、どんなに困ってても平気な心構えが必要だ。
人より、まずいもの食ってて平気。
しかも、人にたよらない。
なんでも最後は、自分でやるという決意がなによりも大切だろう。”

壮絶! 水木サンの戦争体験

水木さんの人生と切っても切り離せないのが、壮絶な戦争体験です。
昭和18年、21歳の時に召集されて、パプアニューギニアの戦場に送られました。
部隊のほとんどが全滅する中、水木さんは左腕を失いながらも生き延びました。
そんな水木さんが描いたヒットラーが、正義も悪も絶対的なものはないという描き方をしています。
水木さんの人生観が、そこに反映されている?

京極さん:それは、まさにそのとおりで、やっぱり、どんなに偉業を成し遂げた人でも、あるいは、どんなに世間的に悪いとされる人でも、人は人だと。
そんなに変わりはないんだよっていうのは、水木先生の考え方ではあるでしょうね。
(それは、どこから来ている?)
戦争体験というのも大きいかもしれませんけれども、とにかく幸福の捉え方みたいなのが、水木さんの場合は、我々とちょっと違う。
ものの見方というのが、ちょっと違うんですね。
先ほど、最後の言葉にもありましたけど、幸福は手に入れるものじゃなくて、そこにあるものだ。
ただ、我々、見えないんですよ。
見ていないだけなんですね。
見れば、例えば、まずいもの食ってても幸福じゃないかって、そういう考え方があって、そういう価値観の中で、好きなことだけをして生きていこうという、それだけは曲がらない決意があったんです。
水木さんは、好きなことをするためにはどんな努力も惜しまない。
ただ、人というのは一歩間違うとヒットラーのようにもなってしまうということは水木さんも分かっていたから、むしろ、いとおしく見ていたところはあるんですよね。
間違っちゃったね、この人っていう。

そこは、特に周りの人の考えを受け入れずに、一つの価値観に突き進んでしまいがちな今だからこそ、私たちにズシンと響いてくるところでもあるが?

京極さん:水木さんは特に、自分が間違っていないとか、正しいとかということは言わないです。
ただ結果として、こういうことがあるんだから、気を付けにゃいかんっていうのは思っていたと思う。

しっかり自分たちの周りを見なさいよと言ってくれているような気がします。

京極さん:好きな事だけして生きていくために、とにかく全身全霊を傾けて、幸せをつかんでほしいっていうメッセージがあるような気がしますね。
(そして、幸せはそこにあるんだと?)
あるんです。

いま響く 水木サンの言葉

水木さん、亡くなって1年がたちましたね。

「お父ちゃんは、ここ。」

妻 布枝さん
「いつもここで。
帰ったら当然のように、ここへ。
帰ってくるような気がするんですよ、いまだに。」

水木さん、この木彫りの作品をとても大事にしていましたね。
題して、「水木しげるの一生」。

自然や生き物たち、目に見えないもの、全部大事にした、水木さん。
あっ、僕もちゃんといる。
水木さんが亡くなった時に配られた葉書。
そこに書いてありました。
「好きなことをやりなさい」。

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