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2017-01-01

神作画のクソアニメ『ポッピンQ』徹底批評

 

 

 東映アニメ60周年記念オリジナル作品として、大々的に宣伝されながらも、観客の入りは少なく、歴史的大爆死が確定している、この『ポッピンQ』。

 

 イメージ原案、主題歌は良く、アニメ作画は最高の出来だといっていい。

 それなのに、キャラ設定が悪く、シナリオ展開が最悪のために、とんでもない駄作になっている。

 不思議と1800円払って損をした気分にはならない。

 「お金がかかっている」ことは見ていて伝わるし、「シナリオが未消化」ということもない。

 ただ、シナリオが小さくまとまりすぎて、自己完結してしまっている。

 低いハードルを、特に華麗というわけではない飛び方で、ジャンプするだけの内容だ。

 予定調和の試練に感情移入できるほど物好きな連中はいない。

 そもそも、95分のオリジナル作品で5人組少女を出すという企画自体が無理な話。

 そのくせ、五人全員の試練の克服を描いているのだから、そりゃ浅い展開になってしまう。

 あと、『ポッピンQ』に決定的に欠けているのは、制作者側のこだわり。

 例えば、ヒロインたちが全然エロくないのもその一つ。

 これは『ポッピンQ』が、誰でも(女児や男オタクだけでなく、女性も)楽しめる作品という使命のもとに作られたからだろう。

 しかし、そのおかげで男オタクに「また見よう」と思わせる動機が生まれなかった。

 中三の女の子を描くのならば、フェチシズムを追求した表現を見せるべきではなかったか。

 クライマックスのダンスシーンは圧巻だが「すごいMMD」でしかなく、独自性はない。

 そして、ラストでは感動のカケラすらなく、乾いた笑い声を立てることしかできない。

 「丁寧だが面白味のない」失敗作といえる。

 

 このように『ポッピンQ』は「ダメな映画とはなにか?」を知る格好の素材なので、何かを批判したい方は鑑賞することをお勧めする。

 以下、くわしい批評である。

(ネタバレはできるだけ防いだつもり)

  

【目次】 

(1) イメージ原案、主題歌、アニメ作画は素晴らしい

(2) 共感できず、エロくもない五人の中三ヒロイン

(3) 95分のオリジナル作品で五人組は企画ミス

(4) 愛らしい外見だがこざかしいポッピン族

(5) 高知県に無人自動改札機はない

(6) 東映アニメ60周年記念作品←駄作フラグ

 

 

(1) イメージ原案、主題歌、アニメ作画は素晴らしい

 

 

 黒星紅白の描くイメージ画はどちらも良い出来だ。

 

D

Questy / FANTASY - YouTube

 

 主題歌の「FANTASY」も良い曲である。

 TVアニメにはもったいない、と思わせるほどの魅力がある。

(オープニングの「ティーンエイジ・ブルース」は気に入らない。なにが「神様テルミーテルミー」だ。ブルースなめんな)

 

D

劇場アニメ『ポッピンQ』本編冒頭映像 - YouTube 

※期間限定公開かも?

 

 さらには、なんと、冒頭17分の映像を無料公開している。

(客の入りの少なさに慌てた東映サイドの悪あがき)

 

 全編にわたって、作画の完成度は高い。

 時間をかけて、金をかけて制作したのがわかるアニメーションである。

 

 しかし、だからこそ、この映画のダメなところが目立つ。

 「映像の質は高いがつまらない」のはなぜか。

 その一つが、次で語る共感できない主人公の五人組女子である。

 

(2) 共感できず、エロくもない五人の中三ヒロイン

 

 

 五人のヒロインの区別はつきやすい。

 95分のオリジナル作品でありながら、まぎらわしいと感じることはなかった。

(以下、公式チャンネルの予告映像と冒頭映像から引用)

 

 

 一人目は陸上部の負けず嫌い

 

 

 二人目はピアノ得意だが本番に弱いあがり症

 

 

 三人目は合気道母と柔道父の家庭に育ったがオシャレしたい系女子 

 

 

 四人目は成績優秀だが同級生をライバル視して友達いない

 

 

 最後の一人は、まあいいや。

 

 と、それぞれ得意分野があるが欠点がある。

 この弱点をファンタジー世界の冒険を通じて克服するのが『ポッピンQ』のあらすじである。

 しかし、この弱点をきわだたせるために、観客に感情移入できないヒロインになっているのだ。

 

 

 陸上バカは負けず嫌いというよりも負けを認めたくない困った性格で、中3卒業間際になっても陸上部に顔を出す往生際の悪さを見せる。

 後輩が冷たい視線を投げつける困ったOGである。

 こんなのが主人公なのだから、観客の熱はすぐに冷める。

 

 

 ピアノ嬢は本番を怖がるあまり、発表会をバックレようとする始末。

 逃げたくなる気持ちはわかるが実際に逃げるのは良くない。

 発表会に失敗したエピソードとその結果でピアノに向き合えなくなったという描写でいいではないか。

 

 

 合気道チビは柔道一本にしぼれば全国もねらえる才能があるといわれているのに、合気道や柔道よりも遊びたいと考えている。

 ほとんどの人が全国を目指せるほどの一芸がないわけで、このチビには「上を目指せよ!」と言いたくなる。

 あと、アクセサリはさておき、ペディキュアしているのは論外である。

 

 

 道場でペディキュアをして立つなんて、ほとんどの男性は常識知らず、ととらえたのではないか。

 なぜ、こんな反感を招きやすい描写を冒頭に持ってくるのか?

(髪飾りだけで良かっただろうに)

 

 

 成績優秀なコイツは、模試一位の成績表を、わざわざ紙飛行機にして投げ飛ばす。

 同級生をライバルと見なし、友達を作らないのはよくある話だが、一位の成績表を「フン」と捨てるのは理解できない。

 もし、これが「一位をとっても親は当たり前だと喜んでくれない」という描写があれば、親に見せずに紙飛行機にする気持ちもわかるのだが、これでは単なる性悪女子である。

 どっちかというと「一位をとったことない人が、一位の成績表を紙飛行機にして飛ばしたい」という願望を形にしたようなものだ。

 「もし俺が東大に受かったら、東大をバカにできるのに」と妄想している連中と同じである。

 

 

 最後の一人は、まあ、アレだ。

 

 いずれの欠点も、見せ方を工夫すれば「反感を招く」には至らなかったはずだ。

 冒頭で観客に「コイツら応援したくねーわ」と思わせてどうする?

 

 しかも、この五人、中3のくせに全然エロくないのだ。

 おいおい、中学生に欲情するなんてロリコンか、と言われるかもしれないが、この五人は中3卒業間近、大人ではないが子供でもないのだ。

(エロくない女子にしたければ、せめて中2設定にすべき)

 

 エロさに18禁描写は必要ない。

 フェチシズムの追求である。

 

 例えば『君の名は。』での「口噛み酒」

 

↑漫画版「君の名は。」より

 

 制作者のヒロインに対するこだわりが『ポッピンQ』にはまるでない。

 五人もヒロインがいるんだから、一人ぐらいはエロ担当が必要ではなかったか。

 京アニ作画の『聾の形』での川井みきのような。

 

↑「マシバ死ね」と叫びたくなるエロさ(予告動画より)

 

 そもそも『ポッピンQ』のテーマである「ダンス」に官能描写は不可欠。

 そんなのエロい男性だけだと言われるが、それならジャージで踊ればいいだけだ。

 なぜ踊るときにスカートを履くかといえば、ダンスに官能が欠かせないからだ。

 

 エロくない五人組女子が踊ったところで「作画すげえ」とは思っても「また見たい」とは感じないものである。

 「面白さ」には、このような欲望に直結した描写が不可欠だ。

 

 誰でも楽しめるアニメ映画を目指した結果、『ポッピンQ』はもっとも大事なものを無くしてしまったとしか言いようがない。

 

(3) 95分のオリジナル作品で五人組は企画ミス

 

 オリジナル作品95分で、五人組ヒロインを出すのは、そもそも無理である。

 それを可能にするには、多少「ムチャクチャな展開」をしなければならないはずだ。

 ところが、この『ポッピンQ』には無茶な展開というのがない。

 結果として「小さくまとまっている」だけの内容となってしまう。

 

 この理由は、五人組ヒロインの担当声優をユニットとして売り出そうと考えたことだろう。

 だから「みんな平等に愛される」ヒロインを目指したものである。

 そんな安全策で面白い作品が作れると考えたら大間違いだ。

 

 例えば、この五人はファンタジー世界で、それぞれの弱点を克服することになる。

 その主人公の場面がコレである。

 

 

 これがもうヒドい。

 始まる前から、試練を乗り越えることがわかっている展開なのだ。

 そして、驚くことに、フツーにクリアしてしまう。

 観客の予想を裏切らない、つまらない展開に、僕は心底あきれた。

 

 ヒット作品に欠かせないのが「絶望」。

 この物語がどこに向かうのかわからないほどの「絶望」である。

 

 「君の名は。」は、最初の日常シーンの平和をくつがえす「絶望的結末」が描かれてからが本番である。

 「シン・ゴジラ」では「誰がここまでやれと言った」と思うぐらいの絶望が中盤に訪れる。

 

 そもそも、エンターテイメント作品に欠かせないのが「スリル」だ。

 漫画「ドラゴンボール」での、サイヤ人襲来シーンなんて、その最たるもの。

 手下のナッパ相手に、仲間が次々とやられていくシーンは、思い出しただけで心震える。

 

 観客の想像を突き抜けるほどの絶望があってこそ、初めて「面白い作品」というものが生まれるのだ。

 我々は映画館で「作画の良いアニメ」が見たいのではなく、「作画の良いアニメで表現されるスリル」を味わいたいわけだ。

 『ポッピンQ』の主人公の試練克服の場面は、そのチャンスだったはずなのに、やっていることは低いハードルを越えていくだけだったのだ。

 ついでに、主人公のダメな性格を知らされて、観客のボルテージは絶対零度に達する。

 

 しかし、もっとヒドい場面がその後に待っている。

 この五人組ヒロイン、魔法少女みたいな格好に変身すると特殊能力が使えるようになる。

 その特殊能力の見せ方に問題があるのだ。

 

 ここまで五人組とまとめて紹介したが、物語の展開上は「4人+1人」となる。

 四人組で戦って、終盤になって最後の一人が加わって、五人組になるという展開だ。

 そういう工夫はしているのだが、最後の一人の特殊能力が開眼する前に、最後のバトルが終わってしまう。

 そこで、制作陣がさせたことはなにか?

 

 いきなり主人公に飛び降り自殺をさせたのである。

(正確にはそうでないが、結果的にはそう)

 

 

 いくらなんでもこの見せ方はヒドすぎる。

 ここまでは「つまらない駄作」にすぎなかったのが、「世紀の大爆死映画」となった瞬間である。

 

 この『ポッピンQ』は、設定をすべて活用し、かつ矛盾なく、未消化な部分もなく、シナリオは進む。

 しかし、それは単なる作業のようにすぎず、見ていて何の驚きもない。

 

 驚きも絶望もないところに感動はない。

 

 オリジナル95分作品とするならば、せいぜい「2人+1人」の三人組にすべきだっただろう。

 「2+1」の友達編成は、ありふれているがドラマが生まれる可能性は多い。

 もとの二人組、最後の一人、それぞれに共感をいだかせながらも「やっぱりこの三人が最強だ」と思わせるようなシナリオ。

 それだけで面白さが生まれる。

 

 なぜ、五人組にしたのかといえば、設定ありきの作品だからだ。

 でも、面白さを出すならば、もっと思い切った展開にすべきだった。

 『魔法少女まどかマギカ』の、徹底的に選択肢を間違え続ける美樹さやかとか、足元をすくわれることには定評があるマミさんのような。

 

 観客に訴えかけるエロ描写がないくせに、声優をユニットで売り出そうとする下心丸出しの企画。

 そんなものが面白いわけがないのだ。

 

(4) 愛らしい外見だがこざかしいポッピン族

 

 魔法少女にはマスコットがつきものである。

 『まどかマギカ』はアンチ王道をテーマにしているが、キュゥベエはその最たるものとして今も印象に残っている。

 

 この『ポッピンQ』のマスコットの特徴は、パートナーの女子と「同位体」という関係になることだ。

 そして、ポッピン族は、「同位体」の心を読むことができるようになる。

 一方通行で。

 

↑コイツの歩くSEが腹が減る音に似ているのが気になったのは俺だけか

 

 おかげで、こいつらに可愛げがまったくない。

 「感情」を読むだけではなく、それを「言葉」にするのだから、純粋さのカケラもない。

 見た目はガキっぽいが、行動はオトナである。

 

 そのくせ、ストーリーに直結する大事な部分については口を割らない。

 勝手に自己判断しているのだ。

 「こざかしい」という表現がこれほど似合う連中もいない。

 

 子供ならば、空想の友達を持つことはめずらしいことではない。

 言葉に出さなくても自分を理解できる空想の友達。

 そんな願望を実現するのが、ポッピン族であったはずだ。

 

 でも、この映画を見て、子供が「パパ、あたしも同位体が欲しい!」とねだることはあるだろうか。

 「自分の心を読むマスコットなんて面倒くさいだけ」と思ったはずだ。

 

 そんな子供の憧れを台無しにするのが、このポッピン族である。

 外見の愛らしさにダマされてると痛い目にあうのだ。

 

(5) 高知県に無人自動改札機はない

 

 さて、この『ポッピンQ』の主人公は高知県の漁師の娘である。

 だから、土佐弁を使うのだが、標準語も使い分ける。

 僕は徳島県出身なのだが「何の方言を使ってるのか」とずっとわからなかった。

 主人公が元の世界に戻ったときの校門の学校名で初めてわかったぐらいである。

 

 まあ、土佐弁に関しては問題ないのだろう。

 高知県の永遠のアイドルである島崎和歌子が出ているのだから、方言に関してはクリアしているはずだ。

 

 問題は、舞台設定が、全然高知県らしからぬことである。

 

 学校の運動場が整備されすぎているのもその理由の一つだが、もっとも大きな違いといえば、自動改札機である。

 高知県には無人自動改札機はない。

 

↑こんなものは高知県の駅にはない

 

 高知県に自動改札機があるのは高知駅だけである(2016年では)

 

 『ポッピンQ』では「自動改札機」は異世界へのゲートとなっている。

 

↑それぞれのヒロインが自動改札をタッチしたときに冒険が始まるという設定

 

 だから、現実の高知県には自動改札機がなくとも、物語の展開上自動改札機が必要だ、という理屈はわかる。

 でも、それなら、高知県を舞台にしなくてよかったではないか。

 

 と、ここで田舎を知らない人は思うだろう。

 無人自動改札機を導入したほうが効率がいいのではないか、と。

 例えば、僕の住む川崎市の南武支線(浜川崎線)では、無人自動改札機が導入されている。

 

↑引用元:http://blogs.yahoo.co.jp/orange50090/13816322.html

 

 全国の無人駅にも導入すればいいのに、と考えている人は、想像力が足りない。

 僕は問おう。

 では、なぜバス停に無人自動改札機がないのか、と。

 

 田舎の電車はたいてい「ワンマン」である。

 乗ると入り口に「整理券」が出てくるのでそれをとる。

 出るときに、その整理券と一緒に運賃を入れるという方式である。

 いわば「後払いバス」と同じ仕組みである。

 

 料金均一の「先払いバス」だと、最初に運賃ないしはICカードをタッチすればそれで終了する。

 しかし、ほとんどのバスは、乗った距離によって運賃が変わる。

 だから「整理券」というものが必要となる。

 

 それより「無人自動改札機」のほうが乗客の負担は少ない。

 しかし、それを設置するにはお金がいる。

 そして、JR四国は赤字会社である。

 都会人には当たり前であるサービスが、JR四国などの赤字会社にはない。

 そもそも、「人件費削減」という理由は、雇用がある都会なら通用する話で、就職先のない四国で、人件費削減につながるような施策は、積極的にとらないものだ。

 

 よく都会人がバスで一万円を出したら両替できずにそのまま会社まで連れて行かれた、という話題を口にするが、当たり前の話である。

 両替というサービスを当然だと考えている時点で常識がない。

 田舎には店はない。

 駅の前にコンビニがあればそれは都会だ。

 だから、運賃というのは、時刻表と一緒に確認すべきものだ。

 その努力を怠ったものに、電車やバスに乗る資格はないのである。

 

 このように田舎はいろいろと面倒くさい。

 その象徴の一つが、無人自動改札機がないことである。

 いくら、物語の展開上欠かせないからといって、無人駅に自動改札機を出した時点で、そこは四国の高知県ではなく、都会人の妄想する理想的な(人が少ないのにインフラが整っているというひどく非現実的な)田舎でしかないのだ。

 

 もし、この『ポッピンQ』に高知県がお金を出していたとしたら、税金の無駄づかいというほかない。

 聖地巡礼にするならば、無人自動改札機を作らなければならず、そのためにはインフラを整えねばならず、そう考えると、とんでもない金額が必要となる。

(何もないところにシステムを整備するというのは、都会人が想像する以上に様々なハードルが存在する)

 

 ということで、主人公女子を高知県出身としたのは、まったくの無意味である。

 

(6) 東映アニメ60周年記念作品←駄作フラグ

 

 

 『ポッピンQ』は東映アニメ60周年記念作品として作られた。

 だから、東映の威信をかけて、大々的に宣伝している。

 しかし、客の入りは少ない。

 その理由は誰に向けて作られたかわからないからだ。

 

 Youtubeでは、こんな子供向け動画が公開されている。

 

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劇場アニメ「ポッピンQ」ダンスPVで一緒におどってみよう!“ティーンエイジ・ブルース” - YouTube

 

 では『ポッピンQ』は子供向けかといえば、下の上映スケジュールがそれを否定する。

 

 

 なんと「年越し寸前ポッピンQ」と「年明けポッピンQ」も上映されたのだ。

 そんなもの誰が見るのか。

 

 

 なお、僕が見たのは「新宿バルト9」の2016年12月31日18:55上映のものだが「SPM上映会」という謎の文字がある。

 

 何を意味するのかスタッフの人にたずねてみると、初回舞台挨拶などの特典映像を一緒に上映するとのこと。

 つくづく金ばかりかけているアニメ映画である。

 

 この「SPM」というのは「スペシャル・プレミアム・ミーティング」の略称であること知ったのは、本編終了後の特典映像場面になってからだ。

 

 クソ映画を見せられてシラケムードの客席に、声優の「応援してください!」のコメントが空虚に響く。

 そりゃまあ、あんたたちがんばったんだろうな、ダンスの練習とか。

 

 印象に残ったのは「家族にも喜んでもらえます」と声優が涙ぐんでいるところ。

 彼女たちからすれば「家族にも恥じない」内容の映画に参加したことが誇らしいのだろう。

 「家族みんなで来てください」という声優もいた。

 

 その結果がコレである。

 万人受けをねらって、ひたすら浅い内容で小さくまとまったクソ映画である。

 世間の冷たい視線にも負けずに「俺たちの好きなものを見せてやる!」というオタクたちの気合がこもった過去のアニメ映画に失礼であろう。

 

 なお、僕が見たときは女性が二人いた。

 いずれもカップルである。

 そのカップルはこの後どんな感想を言い合っただろうか。

 

 女児向けと男オタク向けは両立する。

 本気で女児向けを作れば男オタクはついてくる。

 しかし、女性一般客向け作品をつくるのはひどく難しい。

 

 というのは、女性は一人で映画を見に来ないからだ。

 そのために、女性向けをねらうためには「流行」に乗らなければならない。

 「流行」に乗るためには、ある程度、男オタクの支持を得ないといけないわけだ。

 

 「君の名は。」は大ヒットしたが、「口噛み酒」をはじめとした、女性一般客には引きそうな場面が少なくない。

 それでも面白ければ良いのだ。

 愛と感動があれば、人は見に来る。

 

 『ポッピンQ』では恋愛は描けない仕様となっている。

 ならば、感動を見せるべきだった。

 感動を見せるにはどうするか?

 観客の予測できないほどの絶望の淵に登場人物を立たせなければならない。

 そんな絶望描写もなく、作画だけが良いアニメで、客が招けると思ったら大間違いだ。

 

 また「東映アニメ60周年記念作品」という肩書きは足かせにしかならなかったと思う。

 口出す連中が多すぎて、欠点をなくした結果、制作側のこだわりがない作品になってしまった。

 「問題のない企画書は駄作しか生まない」という証明である。

 

 ということで、失敗作とは何かを知るために『ポッピンQ』はお勧めである。

 そんなものに金を払いたくない人は、絶対に見るべきではないが。