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桐谷ヨウ@blog

桐谷ヨウのメインブログ。恋愛・コミュニケーション・海外・文章を書くことについて。


孤独と孤立、あなたはどちらを愛しますか?

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去年あたりからぼんやりと世の中には「寂しがりやさん」がすごく多いんだなーと意識することが増えた。ぽっかり空いた孤独の時間を愛するよりも、誰かと弱くつながっていたい…みたいな。

それで思い出すのが、とある人が「私は孤独よりも孤立の方がまだ良い」みたいなことを言ったことがあったんです。

意味がわからなくて聞き直したら、「たとえ仲間はずれになっていたとしても人の輪の中にいたい(孤立)。自分のまわりに人がいない(孤独)方が耐えられない。」と。孤独は耐えられないから、孤立の方がまだマシって。

この発想は自分にはなかったからすごく面白かった。根っこの発想は俺と一緒で、「(表面上はどうあれ)他人とつながるのは本質的には難しい」ということだと思う。じゃあそれを前提とした上で、自分の周囲に人がいることに重きを置くか?ということで。


「ひとりぼっち」の捉え方は色んな側面がある。寂しがりやであろうが、そうでなかろうが、一人は気楽でもあり退屈でもある。

俺なりに言い換えると、たぶんちがいは、孤独なときに自分の内側から湧いてくる声と、孤立しているときに周囲から漏れ聞こえる声のどちらに自分を不安にさせられるか?ということなんじゃないだろうか。

俺の場合は周囲から漏れ聞こえる声の方が不安にさせられる。人目が気になるタイプってことなのかな。自分の内側から出てくる声の方がコントローラブルだと思っているんだろう。制御可能性を主観的に感じられるかは物事の大きな選択基準になる。

他者とのつながりを渇望する気持ちは、みんな持ち合わせているだろう。自立しているように見える人だって、特定の誰かとの依存関係はどこかで結んでいるはずだ。それはまちがいない。


いつだかツイッターで見かけた表現なんだけど、人間関係のつながり方の例としてWi-FiとBluetoothを挙げているものがあった。同じ無線だけど、Wi-Fiは近場のものにどんどんつながっていこうとする。Bluetoothはペアリングした機器とだけつながっていく。

おそらく孤立の方がマシだと思う人はWi-Fi的なネットワークを形成して、孤独の方がマシだと思う人はBluetooth的なネットワークを形成しようとする傾向があるんじゃないか、とぼんやりイメージしている。おたがい「鍵」という概念はあるけれども、振る舞いには明確な差がある。


まぁこの話はコミュニティに所属していたいかという別軸の話もまぎれこんでくるもんなんだけど。俺はコミュニティというものにまったく興味がないので(学生時代から自分が作ったものへの愛着すら持ち合わせてこなかった人間である)、やはりこれからも対個人に対してペアリングしていくという発想で生きていく気がする。

ただ、まぁ「孤独」と「孤立」、どちらを愛せるか?という問いは面白いなぁと思ったのでした。欲を言えばコミュニティに入っても人気者だけど、あえて孤独を選ぶような人間でいたいと俺は思うな。


んで、お前は寂しがりやなの?という話なんだけど、俺は「寂しい」という感情を持ち合わせているけど、飼い馴らすことが出来るようになったクチなんだと思う。それこそ十代の頃は人恋しくて、寂しくて、自分に甘い顔をしてくれる人に擦り寄るような性分があったように思う。(ひとりでも平気だとつっぱっていたくせに)

ただ、ある時期からそういう媚び方をする自分に心底嫌気がさすようになった。人恋しさをまぎらわすために誰かに近づいたり、誰かを自分の思うように動かそうとする自分が、嫌いになった。在りたい自分とかけ離れていることに気づいたんだと思う。

いまは寂しさを埋めるよりも、ワクワクすることに時間を費やしていきたい。


世界とは面白くて、「そういうことをやらない」という決意をしただけで、それに即した人と出会うようになる。人と人にもラジオの周波数があるんじゃないかと思うくらいに。その話はまた別の機会に。

そういえば「孤高」なんてカッコ良い言葉もあるけど、あれは自分が選べるもんじゃなくて、誰かに呼んでもらってそうなるもんだよな。孤高の人と呼ばれたいものです。なんか今日は「孤」の字がゲシュタルト崩壊を起こしてきました。こんな字だっけか。


俺的、ハイパー孤高の絶対リスペクト対象は美輪明宏さま。自伝、読んでみてください。元祖・セルフ暴露本です。