第117回生涯現役講座 講演要旨

 日 時: 平成24年7月29日(日) 13:00〜14:45

 会 場: 能見台地区センター

 参加者: 34名

 演 題: 被爆放送局ヒロシマ 〜一瞬にして途絶した広島の電波〜

 講 師: 八王子生涯学習コーディネーター会 名誉会長 間宮 章氏

          NHK職員 昭和29年から34年間 放送番組プロデューサー

          として報道番組の制作にあたられ 昭和53年から3年間広島放送    

          局に勤務  現在NPO法人全国生涯学習ネットワーク常務理事

          生涯学習情報ネットワークイン多摩代表としてご活躍中

 

はじめに

  みなさん こんにちは ご紹介いただきました間宮でございます。本日は大変お暑い中そしてオリンピックでご多用の中お越しいただきありがとうございます。

 ご承知の様に今から67年前の8月6日午前8時15分、史上初の原子爆弾が投下されました。私はその時には広島には存在しませんでした。32年後の昭和53年から昭和55年まで3年間広島放送局で仕事をする経験をいたしました。今日はその時の経験をベースに置いて67年前の広島の放送局がどういう事態に遭遇したのか、それからその後広島放送局が今日までどのような軌跡をたどってきたのか、その辺を採り上げてドキュメントタッチと名うって画面中心にお話を進めたいと思っております。

   ここに2枚の写真があります。1枚は広島上空に原爆が投下され炸裂した2分後に日本人が撮影した一番早い時点の写真です。広島市郊外の水分峡で市民の山田精三さんが撮影したものです。原爆の写真というとキノコ雲の写真が出てきますがまだ2分後ではキノコ雲は出ておりません。爆発した瞬間に近い状態です。

 2枚目の写真は原爆を投下したエノラ・ゲイから撮影した、もう少し時間が経過した時の写真です。もうキノコ雲が立ち上がっており高さ1万4千b上空まで達しました。そしてキノコ雲の下では爆風、熱線、放射能が広島市民に襲いかかりました。

「わがなつかしの広島」の絵

 ここに1冊の「わがなつかしの広島」というテキストがあります。私が広島放送局に居た時に発行された本です。この中には全てが原爆で焼き尽くされる前の戦前の広島の姿が市民の手で描かれておりますので紹介したいと思います。

 広島は中国山地に源を発した大田川の河口デルタ地帯に発展した城下町で市民の暮らしは川と深く結びついていました。

 市内には6本の川筋があり、その川は子供たちにとって格好の遊び場でした。川の水は澄んでおりボラや川えびが採れ子供たちの天国でした。広島のなつかしい祭りの一つに住吉神社、厳島神社の“ござぶね”がありました。

 広島の夏は蒸し暑く、夕暮れ時の瀬戸の夕凪が風をピタリと止めてしまいます。人々は川辺に涼を求めて憩うのが慣わしでした。また夜の繁華街は夜店が大賑わいで人々は買い物を楽しみました。市民にとって夏が来ると思い出す広島のなつかしい原風景でした。  広島のもう一つの顔、それは軍人の街、軍都としての役割でした。日清戦争以来広島は作戦用兵の本拠地となり中国大陸へ多くの兵士を送り出してきました。

 家が密集した家並みの絵があります。これは当時の広島の代表的な繁華街の一つ中島地区です。今はこの地区には街はありません。この街の全てが原爆により一瞬にして消滅し今ここは平和公園として生まれ変わっています。この中島地区に特別な形をした橋がかかっていました。Tの字の形をした相生橋です。この橋が原爆投下の標的にされたのです。

 太平洋戦争末期、被爆直前の広島の人口は約35万人と推定されています。市民が29万人、軍関係者が4万人、市外から所用で市内に入ってきた人が2万人、計35万人位が人口でした。

広島放送局の誕生

 昭和3年、広島市の中心地に近い上流川町に広島放送局が誕生しました。今のNHKの前身である社団法人日本放送協会広島放送局です。日本にラジオ放送が生まれて3年後のことでした。また同時に市内から5キロ程離れた原村に広島県内にラジオ電波を送る放送所が完成し家庭に電波を送り始めました。

原爆投下まで

史上初めての核の出現

 昭和20年(1945)7月16日、広島に原爆が投下される3週間前、米国はニューメキシコ州の砂漠で史上初の原爆実験を行いました。夜明け前午前5時29分、太陽が2度昇ったと言われました。世界初の核爆発実験です。

 炸裂から25分の1秒後の写真には巨大な球体が大きく火を吹き上げており、中心部は摂氏6千万度、太陽の表面温度の1万倍と言われています。この時の実験はプルトニウムを使った核実験でした。これがこの世に核兵器が誕生した瞬間でした。

 同じ7月16日「ウラン235」を積んだ米国の巡洋艦・インディアナポリスがサンフランシスコを出航し、全速力で太平洋を一路西へマリアナ諸島のテニアン島を目指しました。この「ウラン235」を材料に使用した原子爆弾が広島に投下されることになるのです。広島投下の3週間前のことでした。


509混成飛行群

 その頃テニアン島の基地では「509混成飛行群」と言うB29、15機で特別に編成された特殊任務の飛行群の動きが活発になります。7月20日以降、日本本土に向けパンプキン爆弾を使って原爆模擬爆弾の投下訓練に入りました。この模擬爆弾は日本本土のあちこちに落とされ、東京八重洲にも落ちております。

 8月4日「509混成飛行群」に作戦命令が出されました。その内容はB29、15機の内7機出動、内3機が気象観測機で先行する。1機は不測のトラブルに備え硫黄島で待機、残り3機で攻撃する。この攻撃機の1機がエノラ・ゲイ原爆投下機。あとの2機は写真撮影専用機とデータ観測機。原爆投下は極秘扱いで司令官のみに知らされ、スタッフには日本本土へ飛び立った後に知らされました。

リトル・ボーイ:広島に投下された原子爆弾 重量4.4トン直径74センチ

                     長さ3.2メートル

エノラ・ゲイ: リトル・ボーイ搭載機

  作戦開始

  8月5日午後2時  作戦開始 命令  搭載開始

  8月6日午前0時45分  観測機3機 離陸  広島 小倉 長崎を目指す

             目視投下が厳命 (気象条件の良い都市に決める)

  8月6日午前1時45分  エノラ・ゲイを含む3機 離陸

               日本本土を目指し北上(6時間半の行程予定)      

               この段階では3都市のどこに投下するかは確定していない。    

※テニアン島: B29 の基地 2600m滑走路4本 世界最大の空軍基地      

テニアン島を離陸したエノラ・ゲイは硫黄島経由北上、四国上空に達しようとする時点、

8月6日午前7時15分先行した気象観測機から「広島上空晴れ」の情報が入り、

この時点で最終目標地が広島に確定した。広島の運命が決まった瞬間です。

エノラ・ゲイはそのまま北上し瀬戸内海から高度9400m三原上空を経て8時12分広島上空に差しかかる。


  投下の瞬間

  作動第1段階 広島の東25キロ 高度9400mの地点

    8時15分17秒 リトル・ボーイ空中へ 内部電波始動

  作動第2段階 点火信号により圧力センサー始動

  作動第3段階 圧力センサーにより高度2134m電気回路作動

  作動第4段階 マイクロ波が高度測定 564mを測定すると原爆炸裂

 《投下から44秒後の8時16分01秒、高度580m、相生橋から200m離れた島外科病院上空で炸裂した》

 その頃 広島では

 投下前夜の広島放送局の状況は西日本各地に空襲警報が出されており、中国軍管区司令部からスタッフの集合要請があり、局からは古田アナウンサーら3名が出向き5日夜中警報放送を発し6日早朝に局に戻った。当時の局員の勤務体制は24時間2交替制で朝の8時30分が交替時間でした。

 8月6日午前7時09分 警戒警報発令  午前7時31分 同解除

 40分後再びB29接近の情報入り軍司令部は8時13分「広島、山口 ケ・ハ」発令。しかしこの情報は放送局には届かず放送されていない。この直後に原爆炸裂。

 この朝、広島の街は警報解除で市民はホッとし、その日の仕事に一斉に繰り出し、中学生、女学生も工場現場へ向う途中でした。

 街全体が壊滅すると同時に放送の電波も瞬時に途絶しました。市民に対し警報は一切出なかったのです。

    広島原爆の破壊力:

   ・ 熱線エネルギー  爆発から0.2秒で7700度

  衝撃波 爆心地で秒速3300m 1u当たり7トンの圧力

  爆発の規模 TNT火薬 1万5千トン相当

  放射線の強さ 爆心地で100〜140シーベルト 黒い雨が降り注ぐ

  被災直後の写真

 市内の8月6日当日の被災状況の写真があります。市民の松重美人さんが被爆3時間後に御幸橋のたもとで撮影したもので市民が写した貴重な写真です

 松重さんのコメントです

  「目の前のこの光景にカメラを向けることは耐え難い苦痛でした。カメラに手をかけ

  たがどうしてもシャッターが切れません。松重さん自身傷を負っていますが自分の傷

  など今カメラを向けている被写体の人達の傷とは比べものになりません。生死の境に

  苦しむ多くの眼差しが私に集中しています。助けて下さい!水を下さい! 

  気はあせっても指が動かず写せないのです。

  いま私はみなさんの死の苦しみにあるその姿を写真に撮りますが、許して下さいと心で

  お詫びをしながらやっと1枚のシャッターを切りました。

  1枚を切るのに30分はためらいました」 と、述べておられます。

壊滅状態の中での放送局

 原爆の炸裂後、市内各地に発生した火の手が劫火となって放送局に迫ります。街の中全体が火の海となりました。火傷や怪我をした放送局員は事前の指示に従って広島市郊外5キロの原放送所を目指して歩き始めます。空襲で放送局が破壊された場合は原放送所に移って、そこから放送電波を出し続けるよう決められていました。

 6日の夕方までに10数人の職員がいずれも怪我を負いながらやっと放送所にたどり着きました。幸いなことに原放送所は設備の被害は軽く職員は必死の努力で夜通し機器を直して放送の再開に挑戦しました。

 翌7日朝、広島からのラジオ放送再開にこぎ付け朝から県内向けに放送電波が出せる状態に復旧させました。被爆から25時間後の8月7日午前9時から復活したラジオ電波で最初に出した放送は「広島県知事告諭」でした。

まぼろしの声

 原爆の炸裂から20〜30分後、放送が途絶えたはずの広島のラジオから大阪放送局を呼ぶ女の人の声を聞いたという幾つかの証言があります。市民の絵の中にもラジオが大阪を呼ぶ絵が寄せられています。

 壊滅したはずの放送局から流れた声はいったい何だったのか?  それを“まぼろしの声”として原因追求に当たった1人のプロデューサーがいました。

 「こちらは広島放送局です。広島は空襲のため放送不能となりました。どうぞ大阪中央放送局お願いします。大阪さんお願いします。お願いいたします。 繰り返す 」

 やがて声が聞えなくなり完全に止まったという。 この声を被爆直後のラジオから聞いた人は「いまも耳に残る美しくてそして悲しい声だった」と証言しています。

 これを追求したプロデューサーは「被爆からの第一声である。ヒロシマの第一声と捉えるべきだ」と述べています。67年前 人類初の被爆体験を世に訴える“ヒロシマの声第一声”だったのかもしれません。

広島の史上初の被爆ニュースは

 8月7日午前1時30分「トルーマン声明」が広島に投下したのは原子爆弾であると世界に発表しました。しかし日本側はこれを押さえ、日本国民がそれが原子爆弾と知るのはかなり後になってからです。

 7日午後3時30分日本の大本営発表があり「新型爆弾使用されるも、もっか詳細調査中なり」と発表。日本国民が原子爆弾と知るのは811日になってからです。そして、投下から10日後の815日正午あの「玉音放送」で国民は終戦を知ることになりました。

広島放送局の原爆報道

 戦後 あの“まぼろしの声“を引き継ぐように「ヒロシマの声」を世界に訴える広島放送局の原爆報道が始まります。

平和記念式典の中継放送

 その始まりは被爆の翌年、昭和21年の「平和復興祭」の放送からでした。それが67年を経て今日の「平和記念式典」に引き継がれてきています。昭和22年当時の広島放送局長が市内のある座談会「夢を語る」という席で平和祭を継続的に行うべきだと提案し、それが基になり「平和記念式典」の発足に繋がる事になりました。

 これが戦後被爆した放送局としての「原爆報道」の原点となり広島放送局の柱となっております。

  

原爆ドキュメンタリー番組の制作

 広島放送局に勤務した者としては「原爆報道」は一つの使命であるとの思いを持ち続けております。この平和記念式典と並んでいくつかの番組企画がありますが、その中でも「ドキュメンタリー番組」が大きな柱となっております。

 「日本の素顔」“黄色い手帳”“爆心地のジャーナリスト”等の番組があります。

 

原爆ドラマの制作

 他方、ドキュメンタリー番組では再現性等で充分伝えられない面があり「原爆ドラマ」の分野でドラマ手法によって、ドキュメンタリーとは違う表現を行う試みも実施しました。私が勤務していた時には「夏の光に」を制作、主演倍賞千恵子、小林桂樹で国際コンクールで賞を得ました。原爆症を主人公にしたドラマで日常生活の中で原爆の傷の深さをドキュメンタリーとは違った視点で描いております。

  

市民の手で原爆の絵を残そう運動

 もう一つの活動の柱、市民の原爆の絵を集めるそして保存する活動です。

 昭和495月に「一枚の絵」がNHK広島放送局に持ち込まれました。被爆市民の小林岩吉さんが30年前の記憶をもとに描いた被爆当日のよろずよ橋の絵でした。スタッフがこの絵を見て30年経ってまだ鮮明な記憶に衝撃を受けました。ご本人が死ぬまでに書き残して置きたいという強い思いを聞いたスタッフが多くの被爆者に記憶をたどって描いてもらおうと市民に広く呼びかけました。

 6月の朝の番組でこの絵をもとに「届けられた一枚の絵」と題する番組を放送。スタッフは最初不安でしたが直ぐに解消、絵は堰を切った様に次々と局に届けられました。最終的にはその数2225枚。市民の心に深く刻まれたあの日の記憶が被爆市民の手によって甦ったのです。この絵は一括して広島市に寄贈され永久保存されております。

 国内各地で展示され国連をはじめとして世界各地でも展示され、「ヒロシマのこころ」を訴えつづけております。私はこの絵こそ「世界記憶遺産」の登録にふさわしいのではないかと考えております。

「原爆の詩」朗読運動

 広島放送局では原爆報道として「平和記念式典」「ドキュメンタリー番組」「原爆ドラマ」「市民の原爆の絵」を続けて展開しておりますが広島に勤務する職員はこれだけで充分か? という不安感を常に持ち続けており、他にもっとやるべき事がないものかと思い続けておりました。

 最近になって「原爆詩の朗読」活動に思い当たりました。ここ数年女優の吉永小百合さんが原爆詩の朗読活動を熱心に取り組んでおります。

 何人かの詩人達が「原爆詩」という形で広島のこころを訴える表現を残しております。今にして思いますと私もこの「原爆詩」も「原爆の絵」と同じ様にあの被爆の実相を後世に伝える貴重な表現だったのかなと反省しております。

 ここで代表的な「原爆の詩」2編を紹介します。

 〇 原 民喜さんの「コレガ人間ナノデス」

  コレガ人間ナノデス  原子爆弾ニヨル変化ヲゴラン下サイ

  肉体ガ恐ロシク膨張シ  男モ女モスベテ 一ツノ型ニカエル

  オ オ ソノ真ッ黒焦ゲノ 滅茶苦茶ノ爛レタ顔ノ

  ムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ 「助ケテ下サイ」ト カ細イ静カナ言葉

  コレガ コレガ人間ナノデス  人間ノ顔ナノデス

 〇 栗原 貞子さんの「生ましめんかな」

  こわれたビルディングの地下室の夜であった 

  原子爆弾の負傷者たちはローソク1本ない暗い地下室をうずめていっぱいだった

  なまぐさい血の匂い 死臭 汗くさい人いきれ うめき声

  その中から不思議な声が聞こえてきた 「赤ん坊が生まれる」というのだ

  この地獄のそこのような地下室で いま若い女が産気づいているのだ

  マッチ1本ないくらがりで どうしたらいいのだろう 

  人々は自分の痛みを忘れて気づかった

  と「私が産婆です 私が産ませましょう」といったのは

  さっきまで うめいていた重傷者だ

  かくて 暗がりの地獄の底で 新しい生命は生まれた

  かくて 暁を待たず 産婆は血まみれのまま死んだ

  生ましめんかな 生ましめんかな 己が命 捨つとも

  この詩は原爆がもたらした究極的な死と破壊、その中でも新たな命が生まれたという事実、

  死の側面しか見えなかった広島の大きなメッセージ、原爆にも負けない人間性、

  その存在を気づかせてくれると思います。

  この時生まれた赤ちゃんは立派に戦後を生き抜いて数年前NHKTVに登場していました。

 

 毎年やってくる8月6日、広島の人々は夜明け前から祈りの一日に入ります。そして長い暑い8月6日の一日が暮れて川に夕闇がただよう頃になりますと、市内の川べりに大勢の人が集まって亡くなった家族を死者達の魂を弔う“灯篭流し”が始まります。私はこのシーンが一番心に打たれるヒロシマの8月6日ではないかと思っています。 

これから TVから伝わる灯篭流しのシーンと市民の原爆の絵で構成した画面をご覧いただいて、しばらく鎮魂のヒロシマの夜を偲ぶこととしたいと思います。BGM「モーツアルト作曲クラリネット協奏曲 作品622第2楽章」の曲が静かに流れる

  おわりに

 以上お話してまいりました様に史上初の核兵器投下、それにより一瞬にして破壊された広島の街であり広島放送局であります。

 その放送局自身が辿った軌跡をそこで仕事をした一人として私なりの視点で纏めてみました。原爆の想像を絶する破壊力、これを私達は二度とこの悲劇を繰り返すわけにはいきません。それは市民が描いた原爆の絵や原爆詩が訴えています。

 広島、長崎、第五福竜丸そして福島原発、原爆と原発と両方の被爆と被曝を体験した唯一の国民として、この時点で改めて核と向き合うことが求められていると思います人間が核兵器と一緒に共存できるのか、人間の叡智で、あるいは人類の力でそれが克服できるのかどうか、私には未だその「答え」は見付かっておりません。

 これからもいろいろ問い直し考えていかなければいけないと思います。私の経験を中心としたリポートとしてお話をしてまいりました。


 (太田 吉信 記)