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<いのちの響き>相模原事件の被害者家族(中) この子の親でよかった

事件のけがから回復し、1人で歩けるまでになった尾野一矢さん(右)を見て喜ぶ母のチキ子さん=神奈川県厚木市で

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 相模原市の障害者施設殺傷事件で、重傷を負った尾野一矢さん(43)が初めて親元を離れたのは十二歳のとき。新しい住居となった神奈川県厚木市の施設には、一矢さんと同じように知的障害のある子ども三十人余りが暮らしていた。

 平日の昼間は地元の特別支援学校に通学。施設にいる間は、静かにテレビを見ていたり、職員と一緒に散歩して体を動かしたりした。この施設では、刺しゅうを覚えたり、畑仕事をする時間がある。一矢さんは障害のためできなかったが、「優しく見守ってくれる職員のおかげで、落ち着いて過ごしていた」と父の剛志(たかし)さん(73)。

 むしろ寂しがったのは、同県座間市の自宅から送り出した両親の方だった。剛志さんは保護者会を立ち上げ、用事を作っては施設に様子を見に行った。母のチキ子さん(75)も、一矢さんが一時帰宅した際は好物のステーキを振る舞い、口癖の「美味(びみ)」と言わせるのが楽しみだった。

 一九九六年、二十三歳になった一矢さんのため、成人向けの施設を探したところ、改修を終えて空きがある施設が相模原市にあった。それが「津久井やまゆり園」だった。剛志さんはやまゆり園でも家族会の会長を務め、二人そろって月一回は会いに行った。

 一方で、一矢さんの帰宅頻度は減っていった。全身をかきむしるなどの自傷行為が続いていることに加え、体が震えるなどの発作もひどくなり、かかりつけの医師がそばにいないと心配だった。一矢さん自身、園の生活になじんでいた。「やまゆりでがんばる」。そう両親に意思を伝え、三年ほど前から帰宅をあまり望まなくなった。

 「親離れしたんだね」。剛志さんが立て続けに病気になり、家族会の会長職を辞めて、自宅のクリーニング店を閉めた時期とも重なっていた。一息つこうと話していた直後の昨年七月二十六日、事件は起きた。

 一矢さんは首や腹を刺され、病院に救急搬送された。手術後も容体は安定せず、意識が戻って面会できたのは二日後。集中治療室のベッドで横になっていた一矢さんは、両親に気付くと、目を離さず何度も叫んだ。

 「お父さん、お父さん」。普段は言葉をあまりしゃべらないわが子が、懸命に自分を呼んでいる。初めての出来事に剛志さんは「一矢のお父さんでよかった」と胸がいっぱいになり、頭を抱きしめてほおずりした。

 一矢さんは退院後、建て替えが決まった園を一時離れ、厚木市の障害者施設に身を寄せている。黒かった髪は事件を境に白くなり、急に「怖い」と叫ぶこともある。心の傷を慰めようと、両親は週一回、欠かさず施設を訪ね、一緒の時間を過ごしている。

 両親の心にも深い傷痕が残った。

 「障害があるというだけで命が軽んじられるなら、自分たちが一矢からもらった幸せも否定されるというのか」

 事件後、被害者の親として実名公表に踏み切ったのは、「障害があってもちゃんと生きていけるということを社会が理解しなければ、第二、第三の事件が繰り返される」との切実な思いがあったからだ。

 (添田隆典)

 

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