反逆文化の成り立ち/アウトサイダーとしてのエリート意識【第5回】

ジャーナリスト・佐々木俊尚さんの最新刊『そして、暮らしは共同体になる。』がcakesで連載スタート!全原稿を火・木の週2回で公開します。ミニマリズム、シェア、健康食志向・・・今、確実に起こりつつある価値観の変化。この流れはどこへ向かうのでしょうか。
今回は、「食の安全」を求めるあまり過剰なオーガニック原理主義に陥ってしまう原因を歴史の中に探っていきます。

反逆文化の成り立ち

 なぜこれほど過剰な原理主義が蔓延してしまうのでしょうか? その背景には、現代の大衆消費社会への反感のようなものがあるのではないかと、わたしは考えています。

「多くの消費者は騙されている」

 という考えかたです。そこには、大衆消費社会を支えている政府や企業への不信もある。

「大企業はわたしたちを騙そうとしている」

「政府は信用できない」

 民主主義の社会ですから、政府はわたしたちが信任して選んだものです。企業も、市場経済のもとで営利活動をして大きくなったのにすぎない。にもかかわらず、過剰なまでに企業や政府に不信感を抱くというのはどういうことなのでしょうか。

 この理由を、カナダの哲学者ジョセフ・ヒースは第二次世界大戦後の文化の流れを切り口に分析しています(『反逆の神話 カウンターカルチャーはいかにして消費文化になったか』、NTT出版)。日本でいうと団塊の世代にあたる米国のベビーブーマーは1960年代から70年代初めにかけて、黒人差別やベトナム戦争の泥沼化、深刻になっていく環境汚染などで行き詰まっていったメインカルチャー=主流文化に対して、カウンターカルチャー=反逆する文化をつくりだしました。ドラッグとロックンロール、ヒッピーの世界です。

 カウンターカルチャーが生まれたのには、ふたつの要因があるとヒースは説明しています。ひとつは、第二次世界大戦後の急速な経済成長で、大衆消費文化が急速に広まっていったこと。でもこれだけでは、大衆消費文化を否定する方向に向かう意味がわかりません。そこでヒースは、もうひとつの要因として欧米文明がナチスドイツの台頭を許してしまったことを挙げています。

 ナチスドイツのおこなったのは、暴力で国民を支配する恐怖政治ではありません。そうではなく、順応して、みずから喜んで協力してくれる国民を扇動して動かしていったファシズムです。ゲシュタポというナチスの恐ろしい秘密警察があり、当時のドイツ人やユダヤ人は四六時中びくびくしてゲシュタポを恐れていたというイメージがあります。しかし実際にはそうではなく、国民の多くはゲシュタポに順応して、この結果密告が大量に寄せられ、ゲシュタポの側が処理しきれないほどだったとされています。

 このように人々はかんたんに順応してしまい、それが最終的にはユダヤ人の絶滅収容所というジェノサイド(民族抹殺)をひきおこしてしまいました。

 権力への順応が、おそろしい虐殺を招く。これは、欧米の人たちに大きなトラウマになったのです。

 国民の順応だけではありません。

 絶滅収容所の運営を指導したナチスの高官アドルフ・アイヒマンは戦後、イスラエルで裁かれて絞首刑になりました。この裁判を傍聴した哲学者ハンナ・アーレントは、アイヒマンを「凡庸な悪」と形容しました。悪は悪人がつくり出すのではなく、思考停止の凡人がつくるのだ、と。つまりアイヒマンは凡人で、当時の官僚組織や法律や規範にもとづいて粛々と行動しただけだったということを指摘したのです。

 この「凡庸な悪」ということばは、社会規範や組織の論理、法律などにしたがうことが実は悪につながることがあるということを、世界の人々に突きつけたのです。

 しかしこうした規範や官僚組織は、社会の基本的なしくみでもあります。これらを一概に否定してしまうのもどうかと思うのですが、ナチスのトラウマが強かったあまりに、ファシズムの再来を恐れて、戦後のカウンターカルチャーはこれらを拒否する方向に強く行ってしまった。そうジョセフ・ヒースは論じています。


アウトサイダーとしてのエリート意識

 この反権力的な考えかたは、さまざまな矛盾を引き起こしました。

 公害問題が起きて、工場からの汚染物質の排出に規制をかける必要が出てきます。このときに国会議員と協力したり、官僚にはたらきかけるのではなく、デモなどの個人的な運動に訴える方を好んだのは、こうした「反官僚組織」的な気持ちの表れだともヒースは言っています。政府を内部から変えるのではなく、アウトサイダーであることを好んで自己啓発に熱中したり、精神文化をやたらと説くのも同じだと。

 つまり社会のインサイダーとして、政府や自治体などと協力して制度を変え、内部から社会を変えていくのではなく、社会のアウトサイダーとして超然として無政府主義を標榜している方が良いという方向に行ってしまったということなのです。

 この「順応を拒否し、社会の外部にいて社会に適合しない」という立ち位置が、アメリカのカウンターカルチャーの基調として成立していきました。ここからどのような哲学が生まれるかといえば、こういうことだとヒースは言います。

「一般大衆とは群れの一部であり、組織の歯車、愚かな順応の犠牲者である。浅はかな物質主義の価値観に支配され、中身のない空虚な人生を送っている」

 このような哲学のもとでは、反逆者であることは、強い憧れの対象となります。そして反逆者たちは「人とあえて違うことをせよ」と訴え、1960年代のビートニクやヒッピー、80年代のパンクといった文化を生み出しました。

 これは社会のインサイダーであることを拒絶することであり、つまりは社会の大多数を占めているマスの人々を否定することにもつながる。つまりは、こういう考えかたに容易に行き着くということになります。

「おれはおまえらと違って、体制に騙されたりしない。愚かな歯車ではない」

 そこには、エリート(選良)意識のようなものが見え隠れしている。

 残念ながら、この発想はカウンターカルチャーのいたるところに見られます。たとえば1942年生まれの活動家カレ・ラースンの本『さよなら、消費社会』(大月書店)。パンクやヒッピー、ダダイスト、アナーキストといったカウンターカルチャーの活動についてこう書いています。

ぼくらを含め、ここに掲げた活動家のすべてに共通することは、古い価値観をうち倒し、新しい時代を築こうとしていたことなんだ。権威に対して喧嘩っ早いという点は当然で、人生の中で大きなリスクを取り、ささやかではあるけれど自分だけの自発的な「真実の瞬間」にコミットしようとする強い意思を持っている。(中略)自分の内面のほんとうの声に従えば、近代的消費文化が肥大化させたゴマカシが周囲に満ちていることに気づくだろう。「隠れたところで静かに陰謀が進んでいるとき、真実の一言は、銃声のように響く」。

「陰謀」ということばが出てきます。アウトサイダーとして「大衆は理解していない真実を、自分だけが理解している」と優位に立つためには、大衆はつねに騙される存在でなければならず、騙す存在がいなければならない。自分たちが社会の内部にいて、ともに社会をつくる仲間になるのであれば、「だれかがだれかを騙す」という発想は生まれにくいはずですが、みずからを外部の存在と仮定することによって、「内部の人たちは騙されている、真実を知らないんだ」という見たてに陥ってしまうのです。

 これはまさに、オーガニック原理主義に当てはまることです。「大衆は汚染された野菜を食べさせられて騙されている。わたしたちだけが、食の真実を知っている」という発想がつねにあるから、どうしても陰謀論に突っ走ってしまうのです。


第6回 安定の裏返し、「反逆クール」  は1月5日(木)公開です。

ジャーナリスト・佐々木俊尚が示す、今とこれからを「ゆるゆる」と生きるための羅針盤

そして、暮らしは共同体になる。

佐々木俊尚
アノニマ・スタジオ
2016-11-30

この連載について

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そして、暮らしは共同体になる。

佐々木俊尚

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コメント

kiku_kuru ヤマギシズムなんかは是の典型なんやろなぁ。 44分前 replyretweetfavorite

reonaldinho https://t.co/osGxH3ioRI 約2時間前 replyretweetfavorite

sasakitoshinao 戦後カウンターカルチャーが生みだした「「おれはおまえらと違って、体制に騙されたりしない。愚かな歯車ではない」というエリート意識について。 約3時間前 replyretweetfavorite

matyan0 野間尊師や奥田愛基がかかっている病だな。山本太郎は議員になってもボランティアしてるし。 約17時間前 replyretweetfavorite