原告の男性が2010年に一度だけ署名した受精卵の移植の依頼書=大阪市西区で、梅田麻衣子撮影(一部画像を処理しています)
不妊治療を手がける婦人科クリニック(奈良市)の男性院長が2014年、凍結保存された別居中の夫婦の受精卵について、夫の承諾を得ず妻に移植していたことが分かった。妻はこの体外受精で妊娠し、長女を出産。院長側は毎日新聞の取材に無断移植を認め、「軽率だった」と話した。日本産科婦人科学会(日産婦)には移植ごとに夫婦の同意を求める倫理規定があり、院長の行為はこの内規に抵触する恐れがある。
夫は昨年10月に妻と離婚し、長女と親子関係がないことの確認を求めて奈良家裁に提訴した。長女は戸籍上、今も夫の娘になっている。生殖補助医療の専門家によると、受精卵の無断移植が表面化するのは初めてとみられる。
夫婦関係にあったのは奈良県内に住む外国籍の男性(45)と、日本人女性(45)。男性の代理人を務める大阪の弁護士や訴状によると、2人は04年に結婚した。約7年前にクリニックで不妊治療を始め、体外受精で複数の受精卵を凍結保存した。女性は受精卵を順に移植し、11年に長男が生まれた。
2人は13年秋から、関係が悪化して別居。女性は14年春以降、クリニックに凍結保存された残りの受精卵を数回にわたって移植したという。妊娠後に男性に打ち明け、15年4月に長女が誕生した。クリニックは2人が治療を始めた10年に一度だけ移植への同意を確認する書面を作ったが、以降はこの手続きを省いた。
男性側は昨年12月、奈良家裁で開かれた第1回口頭弁論で「同意がない移植による出産を民法は想定しておらず、血縁を理由に親子関係を認めるべきではない」と主張。女性側は無断で移植したことを認める一方、「親子関係を否定する法律はない」として争う姿勢を示した。
男性は今後、院長と女性に損害賠償を求める訴えも奈良地裁に起こす。
体外受精を巡っては、国内に同意手続きを定めた法律はない。一方、日産婦は不妊治療を行う全医療機関に対し、倫理規定で移植ごとに夫婦の同意を確認するよう求めている。
元日産婦理事長の吉村泰典・慶応大名誉教授は、「受精卵は夫婦のもので、使用には双方の同意が不可欠だ。今回のケースが事実ならば、院長の行為は内規違反でお粗末だ」と語った。
院長の代理人弁護士は取材に応じ、「男性の同意を得ていると思って施術したが、慎重に確認すべきだった」。妻は代理人を通じ「取材に答えられない」としている。【原田啓之、三上健太郎】
【ことば】体外受精
卵巣から卵子を取り出し、体外で卵子と精子を受精させ、受精卵を女性の子宮に戻して妊娠させる不妊治療の一つ。国内では1983年、体外受精児の誕生に初めて成功した。不妊治療は他に、排卵時に合わせ、精子を特殊な器具で子宮内に入れる「人工授精」もある。