昨今のランナーはなぜ我が物顔で歩道をランニングしているのか?
私が所属している草野球チームがよく試合をする都内の某公園──そこにはA面・B面と2面を有する野球とサッカー兼用のグラウンドがあって、周辺に直面するつくりで細い遊歩道がある。
私らは試合が終わったあと、グラウンドから出て、その遊歩道にたむろし今日の戦況についてわいわいと語り合うのが日課となっているのだが、その遊歩道はランニング(※ゴメス世代で言うところの「ジョギング」)の名所でもあるらしく、たまにたむろしている私らを、あからさまに邪魔者扱いし、聞こえよがしな舌打ちを「チッ!」を鳴らしながら駆け抜けていくランナーがいる。
なるべく道の中央を空けるようにしながらたむろしようと努めてはいるものの、なんせ狭い遊歩道である。たむろするなら、せめて歩行者やランナーの障害とならぬよう極力の注意を払うのは“公園を利用する者”としての最低限のマナーだと思う。舌打ちを受けるのも致し方なし。ただただ反省する。ここcitrusの場を借りて謝罪したい。本当にごめんなさいm(_ _)m。
しかし、こういう“次のケース”はどうだろう。その日、私はたむろの輪も散会したころ一人、B面横の遊歩道の左隅で立ち止まって、A面で行われている試合をボーッと眺めていた。すると、バリバリのランニング武装で身を固めた中年の男性ランナーが、私の後方からいきなりドンとぶつかってきたのだ。反射的に「失礼!」と詫びる私。対する中年ランナーは一言もなく黙って走り去る。その遠ざかっていく後ろ姿を見て、じわじわと腹が立ってきた。なんで自分だけが謝らねばならんのか、と。
ここで、「歩道」をさまざまなかたちをもって利用する人たちの“優先順位”について考えてみよう。
まず「歩道(=歩くための道)」である以上、この道で一番“自然”なのは、言うまでもなく「歩いている人」だ。そして、もっとも“自然”な「歩いている人」を「一番偉い人」とし、そこから順番に“より不自然”なことをしている人が、“より自然”なことをしている人に、できるかぎりの気を配るべきなのである。たとえば、「自転車で走る人」は本来なら歩道から出ていくべきだし、どうしても歩道を走らざるを得ない事情があるなら、前に歩行者がいれば、いちいち大袈裟なほど迂回するだけの謙虚さを持つのは当たり前。もちろん「スケボーで走る人」も同様。「バイクで走る人」や「自動車で走る人」となれば、それはもう完全に道交法違反以外の何者でもない。
ならば、歩道で「走っている人」と「立ち止まっている人」とでは、はたしてどちらが“自然”なのか? これはなかなかにデリケイトな問題である。「走」が「スピードを加えた歩」だと解釈するなら、「止」は「走」より“不自然”ってことになる。だが「歩き疲れた」「ふとした考えごと」「景色が見たい」……と、ちょっくら立ち止まりたくなるケースだってあるはず(歩きスマホや立ち止まりスマホは×だが)。「歩道なんだからちゃんと歩けよ!」という言い草はあまりに寛容さに欠けているのではないか。ひょいとよけるくらいかまわないではないか。ましてや「走っている人」は「歩」に「スピードを加える」ことによって、少なからず自らを“凶器と化している”のだ。したがって、私は基本「歩道において、立ち止まっている人と走っている人は優先順位的にイーブン」だと考える。
……と、そこらを踏まえて、“次のケース”の話に戻ろう。私は一人、(遊)歩道の左隅で立ち止まってボーッとしていた。そこに中年の男性ランナーが私の後方からいきなりドンとぶつかってきた。私は「失礼!」と詫びた……。詫びたのだから、そして立場はイーブンなのだから、その中年ランナーもきちんと私に詫びるべきだろう。「立ち止まっている人をよける余裕もないほど、詫びの一言も発することができないほど真剣に走っていた」のが“謝罪なし”の理由なんだとすれば、「公」の「園」で我が物顔のランニングなんかしてんじゃねえよ、と私は言いたい。
山田ゴメス
1962年大阪府生まれ B型。 ネットニュースパトローラー(※citrus限定肩書き。たまにスポーツ新聞や週刊誌も。略して「NNP」)。 関西大学経済学部卒業後、大手画材屋勤務を経てフリーランスに。エロからファッショ...
山田ゴメスのプロフィール