8B・アイヌ資料
A-1.
映像資料「日本 映像の20世紀 北海道前編」より「アイヌ」の紹介(2000年4月9日・NHK)
A-2.
アイヌに関する基礎理解(アイヌ民族博物館
http://www.ainu-museum.or.jp/
より)
1.
〈アイヌとは〉 アイヌとは、「人間」を意味します。アイヌ民族は、「自分たちに役立つもの」あるいは「自分たちの力が及ばないもの」を神(カムイ)とみなし、日々の生活のなかで、祈り、さまざまな儀礼を行いました。それらの神々には、火や水、風、雷といった自然神、クマ、キツネ、シマフクロウ、シャチといった動物神、トリカブト、キノコ、ヨモギといった植物神、舟、鍋といった物神、さらに家を守る神、山の神、湖の神などがあります。そういった神に対して人間のことを「アイヌ」と呼ぶのです。
2.
〈起源〉 アイヌの人種所属については、かつて「コーカソイド(白人)説」「モンゴロイド説」「大洋州人種説」「古アジア民族説」そして「人種の孤島説」などが唱えられました。現在では「モンゴロイド説」が発展した一つの仮説として、次のような説があります。古モンゴロイドには南方系と北方系の2つのタイプがあって、縄文時代前、いまから数万年前にそのうちの南方系のモンゴロイドが北に向かって移動を始め、長い年月の間にそれらが沖縄を含む日本列島に住みつき、全国的規模で縄文文化を担うようになります。やがて弥生〜古墳時代になると、北方系のモンゴロイドが大挙して渡来するようになり、これらの影響を強く受けて急進化してきたのが和人(アイヌ以外の人々)、ほとんど影響を受けずに小進化してきたのがアイヌと琉球人であるといわれています。
3.
〈歴史〉 1400年代半ごろから、北海道において南部の江差、松前を中心として和人勢力が強まり、それはやがてアイヌ民族への抑圧へと変わります。その抑圧に対して、アイヌ民族は、1457年のコシャマインの戦い、1669年のシャクシャインの戦い、1789年のクナシリ・メナシの戦いをもって抵抗しますが、いずれも敗退し、特にクナシリ・メナシの戦いで敗れた後は完全に和人の支配下に入り、抑圧・搾取されるままに明治を迎えます。
明治時代には、同化政策によりアイヌ民族としてのこれまでの生活慣習はすべて禁止され、「旧土人」として「日本人」の生活習慣を強制されるようになります。1899年に制定された「北海道旧土人保護法」はアイヌ民族の救済と農業授産を主目的とした法ではありますが、アイヌ民族を「旧土人」として位置づけ、いわゆる和人との「区別」を明確化しています。明治後半になると、本州からの移住が増え、それにともなって、これまでのアイヌ民族に対する抑圧・搾取に代わって「差別」が生じ、それは現在でもなお続いており、大きな社会問題となっています。
1946年に北海道静内町において全道アイヌ大会が開催され、「教育の高度化」「福利厚生施設の協同化」などを目的として、「社団法人北海道アイヌ協会」が設立されました。そして、1961年、同協会は「北海道ウタリ協会」と改称して、アイヌ民族に関わる諸問題に積極的な取り組みを見せています。なかでも、1984年には、現行の「北海道旧土人保護法」に代わる新しい法律「アイヌ新法」(仮称)制定を求めることを決め、以来、早期制定をめざしての活発な運動が展開されました。さらに、アイヌ語の復興、伝統舞踊、各種儀礼などの独自の文化の伝承・保存活動も活発となり、全道各地にアイヌ語教室が開かれるとともに、古式舞踊保存会が組織され、またイヨマンテ、チプサンケといった儀礼が復活・実施されています。
このような動きを受けて、1997年4月、「北海道旧土人保護法」は廃止され、代わって「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」が国会で成立しました。この法律は「アイヌ文化法」と略称されていますが、その名のとおり、「アイヌ新法案」が求めた社会的・経済的・文化的なさまざまな施策のうち、文化面での施策の充実を定めましたが、北海道ウタリ協会が強く求めていた先住権については、「付帯決議」として確認されたにとどまりました。アイヌの民族運動の目標はまだ実現途上であるといえます。
4.
〈人口〉 アイヌ民族はかつて北海道、本州東北地方北部、千島、樺太にかけての広い地域に住んでいて、それぞれ北海道アイヌ、東北アイヌ、千島アイヌ、樺太アイヌと呼ばれていました。しかしその後、日露戦争や二度の世界大戦などを契機として大多数が北海道を中心に暮らすようになり、戦後は日本全国に住むようになっています。アイヌ民族の人口調査は、1800年代になって和人がアイヌを使役するなどの必要性から始められたもので、1807年から1931年の人口は以下のように記録されています。1807年=26,256人、1822年=23,563人、1854年=17,810人、1873年=16,272人、1903年=17,783人、1931年=15,969人。いずれも概算ですが、近年に至るにしたがって減少が見られ、特に1822年から1854年にかけては激減しています。この原因としては、和人がもたらした伝染病、強制労働による家庭破壊などがあげられます。最近の北海道の調査(1993年)では、北海道に住むアイヌの人口は、23,830人とされています。
……近世におけるアイヌの分布
A-3.
同化と絶滅(前回スライド5)
1.
1875年、日露間の交渉により、日本は千島列島を領有・樺太を放棄した。これに伴い、それまでにロシア化されていた千島列島の少数民族・千島アイヌと、同じくそれまでに日本化させつつあった樺太(サハリン)の少数民族・樺太アイヌをどのように処遇するかが、日本政府にとって問題となった。
2.
千島アイヌ……近世には北千島・中部千島・南千島の3集団からなり、カムチャツカ半島の住民との交易が15〜16世紀頃には始まっており、また千島産のラッコ皮や鷲羽などが日本にもたらされていた。近世後期、中部千島以北はロシア、南千島は日本側の勢力下にあったが、1875年樺太・千島交換条約によりすべて日本の統治下におかれた。ロシア化されていたシュムシュ(占守)島やポロムシル(幌筵)島の北・中部千島アイヌ97人は、1884年シコタン(色丹)島に強制移住させられたが、環境が合わず5年の内に半数が死亡、さらに第二次大戦時のソヴィエト侵攻により色丹島から根室に強制引き揚げを余儀なくされた。
3.
樺太アイヌ……樺太のアイヌは3年後の1878年に日露いずれかの国籍を選ぶことになっていたが、1875年10月、日本は樺太アイヌ841人を北海道に強制移住させた。背景には、樺太アイヌのロシア・スパイ化が懸念されていたことが挙げられる。
A-4.
国定教科書の中のアイヌ
1.
1872年の学制制定により、尋常小学下等4年+尋常小学上等4年の初等教育がスタートする。1886年の小学校令において、初めて義務教育制度が導入され、小学校尋常科4年(義務)+小学校高等科4年とされる。その後若干の変動を経て、1900年に市町村に小学校設置義務が課せられ、尋常小学校4年(義務)+高等小学校2年、次いで1907年に尋常小学校6年(義務)となる。これと前後して1904年に国定教科書制度が導入され、以後戦時期1941年の国民学校令によって、尋常小学校が国民学校初等科と改められても、6年間の義務教育制は継続した(内地)。就学率は、義務教育制導入直後にほぼ50%、国定教科書制度導入直後にほぼ90%であり、通学率はこれより15〜20ポイント低かった。こうした背景の下、国定教科書の中の国語読本は、多くの国民が少なくとも一度は目にするメディアとして重要な位置を占めていたといえる。
2.
1895年に台湾が併合され、1899年に「北海道旧土人保護法」が制定される。この時期の国語読本はまだ国定ではなく、検定によって数社が提供しているのだが、すでに北海道アイヌや千島アイヌが〈土人〉として登場し、また、本土・九州と異なる琉球人や、台湾の土人、未開の蕃人も既に登場している。また、日系移民を多く送出していたハワイについても、かつて「土蛮の部落」を形成していた〈土人〉の存在を紹介している。
3.
国定期に入ると、第一期教科書(1904〜1909年)においては、アイヌが挿絵付きで紹介され【資料1】、「ワレワレ」と大きく異なるアイヌの衣食住や言語についての記述がかなり細かく――対象が10〜11歳であるにしては細かすぎるくらい――行なわれるほか、旧土人保護法についても説明が加えられている。いかにも未開風に描かれた挿絵と、「ワレワレ」が小学校を建てるまでは読み書き計算もできなかったという記述が、10〜11歳の子どもに与えたイメージは強烈なものだったと推測されよう。一方、台湾の〈蕃人〉――中でも教化の遅れた〈生蕃〉についても衣食住についての記述があり、半裸・入墨その他の身体変工・首狩などが紹介されている【資料2】。続く第二期教科書(1910〜1917年)では、やはり挿絵を伴って、引き続きアイヌについての詳細な記述があるほか、新領土となった樺太と台湾の間での往復書簡型式の教材や、同じく新領土となった韓国の風俗に関する記述がみられるようになる。第三期教科書(1918〜1932年)になると、第一次世界大戦後委任統治領となった南洋の〈土人〉の記述がみられるようになる。南洋の〈土人〉は「まだよく開けてゐませんが」「我々にもよくなつき」、学校を建てたために「子供等はなかなか上手に日本語を話」すようになってきていることが紹介される。台湾の〈土人〉についても、首狩風俗をやめさせたという「呉鳳伝説」が教材となり、以前のような「風俗」そのものを描くことから次第に「教化」を描くことに視点が移っていることが指摘できる。北に目を転じると、間宮林蔵を題材に、樺太の〈土人〉のようすが描かれるが、アイヌに関する記述はみられなくなる。続く第四期教科書(1933〜1940年)で紹介される〈土人〉は、ハワイの「椰子の木かげで、あはれつぽい歌に合はせて、一夜ををどり明かす」〈土人〉のみで、第三期に紹介された南洋群島の〈土人〉は〈島民〉へと変化する。「割合に色も白く、生活程度も高い」チャモロ族と、かつて石貨を使いいまだに「鳥の羽でかざつた櫛をさした男、大きな腰みのを着けた女、全く原始的な風俗」のカナカ族が対比的に描かれているものの、「南洋の島民といへば、皆さんは人喰人種の類とでも思ふでせうが、どうしてどうして、彼等はもう文化人の仲間です」と、教化の進んでいることが強調されている。また、アイヌについては第三期に引き続いて記述はなく、台湾についてはやはり引き続き呉鳳伝説が紹介されている。
【資料1】『高等小學讀本 卷二』「第十八課 アイヌ。」(文部省,1903.10=第一期国定国語教科書)
次ノ畫ハ、北海道ニ、住ンデヲルアイヌ、スナハチ、北海道舊土人ヲカイタモノデ、左ノ方ハ男、右ノ方ハ女デアル。
アイヌノ男ハ、髪ヤヒゲヲ、長ク、ノバシテヲッテ、耳ニハ、カネナドノ輪ヲハメ、腰ニハ、マキリトイフ小刀ヲサゲテヲル。マタ、女ハ口ノマハリヤ、手ノ甲ヤ、腕ナドニ、入墨ヲシテヲッテ、耳ニハ、ヤッパリ、カネナドノ輪ヲハメテヲル。アイヌノ風俗ハ、コレダケデモ、ワレワレト、ヨホド、違ッテヲルガ、着物ヤ食物ヤ家ナドモ、マタ、タイソー、違ッテヲル。
アイヌハ、男モ、女モ、寒イ時ナドニハ、犬ノ皮ナドデ、コシラヘタ、羽織ノヨーナモノヲ着ルコトモアルガ、ツネニハ、アツシ織デ、コシラヘタ、タケノ短イ、筒袖ノ着物ヲ着、足ニハ、アツシ織デ、コシラヘタ脚絆ヲハイテヲル。コノ脚絆ヤ、着物ノ袖ヤ、セナカヤ裾ナドニハ、木綿糸デ、イロイロナヌヒトリガシテアル。アツシ織トイフノハ、楡トイフ木ノ皮ヲ、細ク、サイテ、織ッタモノデ、コノアツシ織ヲ織ッタリ、ソレデ、着物ヲコシラヘタリスルノハ、女ノ仕事デアル。
マタ、アイヌハ、オモニ、粟、稗ナドヤ熊ヤ鮭ヤ鱒ナドノ肉ヲ食ベテヲッテ、ワレワレノヨーニ、米ヲ食ベルモノハ、ゴク、少イ。コノ粟ヤ稗ナドヲツクリ、熊ヤ鮭ヤ鱒ナドヲ捕ルノハ男ノ仕事デアル。
ソレカラ、アイヌハ、ホッタテ小屋ノヨーナ家ニ、住ッテヲルガ、ソノ家ニハ、床モナク、天井モナイ。壁ハ藤蔓ナドデ、カヤヲククリツケタモノデ、屋根ハカヤヲナラベタモノデアル。
アイヌノ言語ハ、ワレワレノトハ、マルデ、違ッテヲル。マタ、文字トイフヨーナモノガナカッタノデ、讀、書ナドハ、スコシモ、デキズ、數ノカンガエガ、進ンデヲラナカッタノデ、コミイッタ計算ナドモ、デキナカッタガ、明治十年ゴロカラ、小學校ガデキタノデ、今デハ、ワレワレノヨーニ、讀、書モデキ、計算モデキルモノモアルヨーニナッタ。中ニハ、小學校ノ教員ニナッテヲルモノサヘアル。
サテ、アイヌハ、ズット昔ニハ、ズイブン、人數ガ多カッタガ、年年、ヘッテキテ、今デハ、二萬人タラズシカナイトイフコトデアル。ソレダカラ、明治三十二年ニ、北海道舊土人保護法トイフ法律ガ出テ、ソレカラハ、農業ヲシタイモノニハ土地ヲヤリ、ビンボーデ困ルモノニハ、農具ヤ種子ナドヲヤリ、病人ニハ、藥代ヲヤリ、マタ、政府ノ費用デ、小學校ヲタテテヤルコトナドガデキルヨーニシテ、イロイロト、アツク、保護セラレルコトニナッタ。
cf.【資料2】『高等小學讀本 卷四』「第十六課 生蕃。」(文部省,1903.10=第一期国定国語教科書)
臺灣ノ蕃人ノ中ニテ、支那ノ風ニ化セラレテ、ヤヤ開ケタルモノヲ熟蕃トイヒ、ナホ、大イニ野蠻ナルモノヲ生蕃トイフ。
生蕃ハ、多クハ、山地ニ住メドモ、マタ、東部ノ平地ニ住ムモノアリ。山地ニ住ムモノハ、平地ニ住ムモノヨリモ、イッソー野蠻ナリ。
生蕃ノ中ニハ、所々ニ散在シテ住メルモノアリ、數家集リテ、部落ヲナセルモノアリ。部落ヲナセルモノヽ中ニハ、ソノ周圍ニ、樹林、竹藪ナドヲメグラセルモアリ。
家ハ、オホムネ掘立小屋ニシテ、竹、木ヲ柱トシ、茅、竹ナドニテ、屋根ヲフキ、外部ハ、木、竹、アルヒハ、茅ヲユヒテ造レリ。サレド、北部ニ住メルモノヽ中ニハ、山腹ヲケヅリ、家ヲ造リタシテ、ナカバ穴居ノ樣ヲナセルモアリ。マタ、床ハ、オホムネ土床ナレドモ、石、マタハ、籐蓆ナドヲシケルモアリ。
生蕃ノ中ニハ、ベツニ、穀物倉ヲ有セルモノアリ。穀物倉ニハ、低キ草屋ニ、床ヲハレルモノ、床ノ下ニ、短キ柱ヲ立テヽ、通氣ニ便セルモノナドアレドモ、ソノ、モットモ發達セルモノハ、床ノ下ニ、長キ柱ヲ立テ、柱ト床トノ接スル所ニ、木製ノツバヲハメテ、鼠ノ害ヲ防グニ備ヘタルモノナリ。次ノ圖二オイテ見ルガゴトシ。
着物ノ類ハ、オホムネ體ノ上部ヲ掩フノミナリ。形サマザマニシテ、襟ノ開キタル筒袖ノゴトキモノアリ、袖ナクシテ、陣羽織ノゴトキモノアリ、胴ナクシテ、袖バカリノゴトキモノアリ、マタ、方形ニシテ、ケサノゴトキモノアリ。材料ハ、オモニ、布ヲ用ヒ、マタ、獸皮ヲ用フ。布ハ生蕃ガ、カラムシニテ、織レルモノ、マタハ、支那人ヨリ得タルモノナリ。ミヅカラ織レルモノヽ中ニハ、色糸ニテ、種々ノ織模樣、マタハ、縫模樣ヲナセルモアリ。
生蕃ハ、身體ノ飾トシテ、植物ノ種子、動物ノ牙、マタハ、種々ノ玉ヲツヅリテ、首ヨリ胸ニタレ、地方ニヨリテハ、耳タブニ、アナヲアケテ、種々ノ飾アル、竹ノクダヲ貫ク。マタ、北部ニ住メルモノヽ中ニハ、男子ハ、額ト顎トニ入墨シ、女子ハ、額ノホカ、頬ヨリ口ノマハリニカケテ入墨シタルモノアリ。マタ、胸、腕ナドニ入墨セルモアリ。コトニ奇ナルハ前齒ヲ缺ク風ノアルコトナリ。
生蕃ノ男子ハ、外ニ出デテ、オホムネ、狩獵ヲ營ミ、女子ハ農業ニ從事シ、マタ織物ヲ製ス。ミナ、粟、米、サツマイモ、鳥獸ノ肉ヲ食用トシ、食器ニハ、土器、マタハ、籐、木ナドニテ造レル、盆ノゴトキモノヲ用フ。多クハ、指ニテツマミ食ヘドモ、マタ、木製ナドノヘラニテ食フモアリ。
生蕃ニハ、人ノ首ヲ切リ、ソノ頭骨ヲ貯ヘテ、勇氣ヲホコル風アリ。北部ニ住メルモノヽ間ニ、コトニ盛ニ行ハル。
昔ヨリノ武器ハ、六尺バカリノ木、マタハ、竹ヲ柄トシタル槍ト、長サ二尺アマリノ刀トガオモナルモノナリ。サレド、マタ、弓、矢ヲ有スルモノモ少カラズ。近時ニイタリテハ、鐡砲モ、マタ、大イニ用ヒラル。
臺灣ノ、イマダ、ワガ國ニ屬セザリシ頃、コノ生蕃ノ、ワガ民ノ漂流セルモノヲ害セシコトアリシカバ、ワガ政府ハ、兵ヲ出シテ、コレヲ懲シタリ。コレ明治七年ノコトナリ。
A-5.
旧土人保護法(明治32年法律第27号)
第一条 北海道旧土人ニシテ農業ニ従事スル者又ハ従事セムト欲スル者ニハ一戸ニ付土地一万五千坪以内ヲ限リ無償下付スルコトヲ得
第二条 前条ニ依リ下付シタル土地ノ所有権ハ左ノ制限ニ従フヘキモノトス
一 相続ニ依ルノ外譲渡スコトヲ得ス
二 質権抵当地上権又ハ永小作権ヲ設定スルコトヲ得ス
三 北海道庁長官ノ許可ヲ得ルニ非サレハ地役権ヲ設定スルコトヲ得ス
四 留置権先取特権ノ目的トナルコトナシ
前条ニ依リ下付シタル土地ハ下付ノ年ヨリ起算シテ三十箇年ノ後ニ非サレハ地租及地方税ヲ課セス又登録税ヲ徴収セス
旧土人ニ於テ従前ヨリ所有シタル土地ハ北海道庁長官ノ許可ヲ得ルニ非サレハ相続ニ因ルノ外之ヲ譲渡シ又ハ第一項第二及第三ニ掲ケタル物権ヲ設定スルコトヲ得ス
第三条 第一条ニ依リ下付シタル土地ニシテ其ノ下付ノ年ヨリ起算シテ十五箇年ヲ経ルモ尚開墾セサル部分ハ之ヲ没収ス
第四条 北海道旧土人ニシテ貧困ナル者ニハ農具及種子ヲ給スルコトヲ得
第五条 北海道旧土人ニシテ疾病ニ罹リ自費治療スルコト能ハサル者ニハ薬価ヲ給スルコトヲ得
第六条 北海道旧土人ニシテ疾病、不具、老衰又ハ幼少ノ為自活スルコト能ハサル者ハ従来ノ成規ニ依リ救助スルノ外仍之ヲ救助シ救助中死亡シタルトキハ埋葬料ヲ給スルコトヲ得
第七条 北海道旧土人ノ貧困ナル者ノ子弟ニシテ就学スル者ニハ授業料ヲ給スルコトヲ得
第八条 第四条乃至第七条ニ要スル費用ハ北海道旧土人共有財産ノ収益ヲ以テ之ニ充ツ若シ不足アルトキハ国庫ヨリ之ヲ支出ス
第九条 北海道旧土人ノ部落ヲ為シタル場所ニハ国庫ノ費用ヲ以テ小学校ヲ設クルコトヲ得
第十条 北海道庁長官ハ北海道旧土人共有財産ヲ管理スルコトヲ得
北海道庁長官ハ内務大臣ノ認可ヲ経テ共有者ノ利益ノ為ニ共有財産ノ処分ヲ為シ又必要ト認ムルトキハ其ノ分割ヲ拒ムコトヲ得
北海道庁長官ノ管理スル共有財産ハ北海道庁長官之ヲ指定ス
第十一条 北海道庁長官ハ北海道旧土人保護ニ関シテ警察令ヲ発シ之ニ二円以上二十五円以下ノ罰金若ハ十一日以上二十五日以下ノ禁錮ノ罰則ヲ附スルコトヲ得
附 則
第十二条 此ノ法律ハ明治三十二年四月一日ヨリ施行ス
第十三条 此ノ法律ノ施行ニ関スル細則ハ内務大臣之ヲ定ム