早期教育


 

 
1st Seminar 〜愛情


(1)




「えーと、大根とにんじんとジャガイモ・・・、豚は高いわね・・・お魚にしようかな・・・」
 杉山由美香がチラシを片手にスーパーで今晩の献立に頭を悩ませていると、突然声を掛けられる。
「あら〜、由美香さんじゃないですか〜」
 ほわほわ〜とした声がする方を向くと、白いニットの上着にチェックのスカートといういでたちの女性がカゴをぶら下げて立っている。
「あら、麻衣さん」
「はい〜麻衣です〜」
 麻衣、と呼ばれた女性は相変わらずにこにこと立っている。

 杉山由美香と藤井麻衣は、二人とも近所の学園に娘を通わせている。時々こうして買い物で一緒になっては立ち話をしたり、時には専業主婦同士の特権を生かして遊びにでかけたりもする仲だ。

 由美香は26歳。専業主婦歴5年。短大を出た後、堪能な英語力を買われて一流企業の秘書として会社に入社した。そこで職場結婚、寿退社。すぐに子供が出来て晴れて専業主婦になった。出産後肥満を涙ぐましい努力でクリアした結果、学生の頃アルバイトをしていたコンパニオン時代のスタイルをいまだに維持している。
 軽くウェーブをかけた髪形に小ぶりな顔、あまり化粧を乗せなくても目立つ目鼻立ちが印象的だ。身長は平均より高めで、日本人にしては形の良い体型が密かな自慢だ。
 今日は白いブラウスと黒いタイトスカートを身に着けている。少しヒールの高いミュールに加え、ちょっとしたブランドのイヤリングをアクセントにつけてみた。あまり所帯じみた雰囲気を醸した出したくない、という彼女なりのささやかな抵抗だ。そのおかげか、抱えた大根さえなければ、秘書として、あるいはイベントコンパニオンとして十分通用するだろう。

 麻衣は23歳。「ははー、出来ちゃった結婚なんですよ〜」という台詞のとおり、高校を出たと同時にその高校の先生と駆け落ち同然で結婚、という、その雰囲気にそぐわないドラマティックな経歴を持っている。実家は名門らしく、当初は勘当同然だったらしいが、「なんのかんのいっても孫がかわいいみたいなんです〜。うちのお父様〜」などと子供をダシに和解をしてしまうあたり、抜け目無いと言えるだろう。ポニーテールがトレードマークの彼女の言動はまだ女子大生といっても通じるくらいで、とてもそんな年齢の子供がいるとは思えない。意外と運動神経が良かったり、実は脱いだらすごかったりということも、由美香は密かに知っている。


 由美香と麻衣はたわいも無い若い主婦同士の会話をしながら、あれこれ商品を物色してスーパーを練り歩く。
「そういえば由美香さん〜。みゆちゃんのお受験の方はどうするつもりなんですかぁ?」「お受験?」
 突然の麻衣の言葉に頭が混乱する由美香。
「えーと・・・。みゆちゃんも、うちのエミリも、再来年は進学なわけでぇ・・・。やっぱりこんな時代だから、私立も考えたほうがいいんじゃないかってうちのお父様が言うんですよねぇ〜」
「えっと・・・。そんなこと考えたことも無かった・・・」
 確かに娘の美優(みゆ)は今、年中組だから、再来年には晴れて進学だ。自分の時代は地元の公立学校に進学するのが当然ではあったが、今はそういう時代でもなくなっているかもしれない。
 しかし、全くそういう知識が無くて、皆目見当がつかないのも確かだ。
「・・・とそろそろ園が終わる時間みたい。麻衣さん、行きましょうか?」
「はい〜」
 二人は足早にレジを通過すると、子供達を迎えに行った。






「みなさーん、それでは今日はこれでおしまいでーす。それではあいさつしましょー!」
「「「「「はーい!!!!!」」」」」
 元気ではちきれそうな声が教室の中から溢れてくる。
「「「「「せんせいさよーなら、みなさんさよーなら!!」」」」」
「はーい、お母さんが来てる人はお母さんの方に行ってください〜。バスに乗る子はバスにいくんですよ〜」
 先生の声に弾かれたように、小さな子供たちが母親のほうに、あるいはバスに向かって走り出す。

 この学園でのいつもの風景だ。

「お母さんただいま〜」
「はい、お帰りなさい」
 制服である赤いベストとスカートを着て青いベレー帽をかぶった娘、美優が由美香に抱きついてくる。
「あのね、きょうね、せんせいがね・・・」
 今日の出来事をあれこれ説明しはじめる娘にしゃがんだ由美香がうんうんと頷いていると、カツカツと固いヒールの音が後ろから近づいてくる。
「杉山さん?ちょっとよろしいかしら」
「あ、植松さん・・・何か?」
 固い声に向かって振り向くと、そこにはベージュ色のスーツ姿に身を包んだ黒いロングヘアの女性が立っている。美優と同じ組にいる女の子の母親、植松瑞希だ。彼女の足元には、瑞希の娘、樹里が、こちらのほうをちろちろ伺っている。

 瑞希は美優より一つ若い25歳だ。四大在学中に司法試験を突破、卒業後司法研修所を経て、大手の弁護士事務所に勤めている。ある意味キャリア志向の女性が思い描く最高の経歴を歩んでいる。
 忙しいであろう業務のかたわら、瑞希は子供の送り迎えを毎日こなしている。その点は尊敬に値する、と由美香は率直に思う。

 ・・・しかし・・・。

 瑞希は美しい黒いロングヘアをさらっと掻き揚げる。彼女が一言物申す時の癖だ。
 ちらりと美優を一瞥した後、彼女は由美香に鋭い視線を投げかけながら、
「うちの樹里が、今日のおえかきの時間に、お宅のお子さんにクレヨンを取られたっていうんですけど」
「・・・はあ」
 思わず間の抜けた声をあげてしまう由美香。
 ふぅっと瑞希はあきれたように溜息をつく。もう一度髪の毛を掻き揚げ、ほっそりとした白い腕を組むと、形の良い彼女の胸が強調される。
「はあ?じゃありませんよ、そもそも、いつも美優ちゃんはうちの樹里に・・・」
「とってないよー。えみちゃんがね、まさるくんのクレヨンをとったから、じゅりはね、それをとりかえしてあげただけだよー」
 瑞希の発言にぶーっと頬を膨らませて横から抗議する娘の美優。慌てたのは樹里だ。
「ちがうよー、ママー、みゆちゃん、いつもうそばっかつくんだよー」
「うそじゃないもん。うそつきはじゅりちゃんのほうだもん。じゅりちゃんねー、まさるくんがすきだからねー、いつもまさるくんにちょっかいばっかりかけるんだよー・・・」
「なによー、みゆちゃんもまさるくんがすきなくせにー」
「ち、ちがうよ。じゅりちゃんのうそつきー!きらいだよ、じゅりちゃんなんか!」
「うっうっ、ママ〜〜〜」
 瑞希に抱きついてえうえう泣き出す樹里。
 こうなっては由美香も黙ってるわけにはいかない。
「こら!美優!なんてこと言うの!樹里ちゃんに謝りなさい!!」
「みゆ、わるくないもん、わるいのはじゅりちゃんだもん」
「美優!!」
 由美香の叱責の声に美優も泣きそうな顔になる。
「えっと・・・」
 思わぬ展開に瑞希も所在無く立ち尽くす。

 そこにどこからともなく現れてきたのは麻衣だ。相変わらずどこか緊張感のないのほほんとした雰囲気を漂わせつつ、仲裁に入る。
「あの〜、今日のところは私の顔に免じてお互い許してあげませんか〜。ほかのお母様方も『何が起こってるんでしょうねえ〜』みたいな顔をしてらっしゃいますし〜。ほらほら、由美香さん、そんな怖い顔したら美優ちゃんが夜眠れなくなっちゃいますよ〜。瑞希さんも〜、子供同士のやることですし〜、そんないつものお仕事みたいに、犯人を問い詰めるみたいな言い方をしなくてもいいと思いませんか〜」
 麻衣の娘、エミリは、樹里と美優の二人に良い子良い子をするかのように頭をなでさすっている。そのおかげか二人とも落ち着きつつある。
 麻衣の言う通り、確かに二人の周りを遠巻きにするように、他のお母さんたちの視線が微妙にこちらを伺っているのが感じ取れる。
 うぅ、恥ずかしい。思わず由美香は赤面し、瑞希も顔を赤らめている。
 さすがにこのまま続けるのは大人気ないと思ったのだろう。目をしばし瞑った後、瑞希は再び髪の毛をさっと撫でて、
「・・・そうですね、今日は、ここで終りにしましょう。客観的証拠が不足している状態で、これ以上問い詰めても意味の無いことですから」
「・・・ありがとうございます」

 ひとまずの和解が成立し、お互いの子供同士がごめんなさいをする。瑞希が樹里を連れてその場を立ち去ろうとして、ふと足を止める。
「・・・それとひとつ。裁判所で犯人−−被告を問い詰めるのは検事。私は弁護士なので被告を弁護するのが仕事です。一応、ご参考まで」
「あや〜、間違ってしまいました〜」
「・・・ご教示、ありがとうございます」
 立ち去る植松母娘の後姿を見ながら、由美香は溜息を一つついた。

 かくも、子供の絡んだ母親同士のコミュニケーションというものはなかなか大変なものだ。







 帰り道、きゃっきゃとじゃれつく美優とエミリを横目で見ながら、由美香は麻衣に愚痴をこぼす。
「・・・瑞希さんとはいつもうまくいかないんですよね・・・私」
 樹里と美優との間でトラブルが起きると、瑞希は何かにつけ美優のせいにして抗議を申し立ててくるのだ。確かに美優に問題があることもあるだろうが、あちらの娘さんもなかなか我侭なようで、親の僻目ではないが大抵はあちらに責任があるケースが多いように感じられる。どうも瑞希は自分の娘の言うことを碌に検証しない傾向にあるようだ。
「はぁ〜。でも瑞希さんも大変なんですよ〜。樹里ちゃん、自分のお子さんじゃないから〜」
「え?」
「あれぇ、ご存知なかったんですか〜」
 麻衣が言うには、彼女の夫はバツイチで、その連れ子が樹里なのだという。
「自分の本当の子供じゃないから〜、なかなか叱るのが難しいみたいで〜、でもそういう弱みを見せたがらない人だから〜」
「・・・そうなんですか」
 なるほど、彼女の経歴と若さにしては、子供が大きいのはそのためか。由美香は意外な瑞希の一面を見た気がした。
「それはそうとぉ〜、由美香さん〜、さっき話したお受験の件なんですけど〜、単にお受験というだけでなく、もっと広い意味から子供の教育について研究されている方がいまして〜」
 麻衣がバッグの中から一枚のパンフレットを取り出した。
「こういう講座があるの、ご存知ですか〜」
 そのパンフレットには「講演会&勉強会:真の人間性を育てるための教育とは〜お母さんのための早期教育講座(1) 主催:ピアジェ教育心理研究所」と書いてある。



(2)




「ピアジェ教育心理研究所」
 という看板が出ている建物は、ちょっとした大きさがある二階建ての瀟洒な造りをしていた。
 講演会会場に入ると、30席ほどある座席は既に自分と同年代くらいの若い母親で埋め尽くされている。こんなことを言うのもなんだけれど、結構みんな綺麗だったりかわいい人が多い気がする。母親というよりは、若妻というほうが相応しいくらいだ。
 会場には軽やかなピアノのBGMが流れ、柑橘系のいい香りがうっすらと漂っている。会場にはスーツを着た若い女性が二人、受付に座っている。
 由美香は今日は外向きのパールホワイトのスーツ、膝上までのスカート。麻衣は淡い色のワンピースを身に着けている。
 由美香と麻衣はなんとか滑り込むようにして隣り合った空席に座った。



 ・・・あれから2週間後、結局、麻衣に誘われるままに由美香はここに来てしまった。

 あの日、夜遅く帰ってきた夫に「美優の受験のことなんだけど・・・」と話を持ちかけたが、ろくに自分の話も聞かず「今日はもう疲れた、寝る」と酒臭い息を吐きながら、眠ってしまった。
 ・・・さすがに結婚して5年も経つと、自分に対する夫の対応がおざなりになっていることをつとに感じてはきている。だが、結婚に幻想をそこまで抱いていたわけではない由美香にしても、「家庭のことはお前の仕事だ」と言わんばかりにまったく自分の娘の教育に無関心で、普段の子育ての愚痴すら聞いてくれない夫には、さすがに不満が溜まってきている。
 由美香は娘にお受験をさせようという気はさらさら無かったが、今日、ここに来てみたのも、麻衣が熱心に誘ったことに加え、日ごろのそうした鬱屈が少しは晴れるか、というささやかな希望をもってのことだった。



 時間になると、突然部屋が暗くなり、前にある演台に講師役らしいスーツを着た男性が進んできた。年齢は20代後半から30代前半まで、どの年齢を言われても納得できそうだ。こざっぱりした短い髪の毛と、青系でそろえたシャツとネクタイが爽やかさを感じさせる。
「みなさん、本日はお忙しい中、当講演会にようこそおいでくださいました。私、当研究所の主任講師をやっております、猪山と申します。以後、お見知りおきを」
 あら、意外と若くていい男じゃない、などという無責任な論評で部屋がざわついた後、それを制するかのように猪山と名乗る男は続ける。
「・・・おそらく今日ここにいらっしゃった皆さんは、小さなお子さんを抱えていらっしゃる方々かと思います。さて、皆さんは、今までお子様にどのような教育をなさってきましたか?」
 唐突にマイクを突きつけられ、何人かの母親はあわてて「塾」だの「ピアノを習わせてますが・・・」などと答えている。

 講師は最前列に座っている母親に一通りコメントをもらうと、しきりにうなずく。
「なるほどなるほど。確かに塾やおけいこごと、もちろん学校は当然でしょうが、そうした学習機関に通わせていれば、子供を教育した気分にはなるでしょう。・・・しかし、お母さん達。あなた方は重要なことを忘れています。・・・子供が一緒にいる時間が一番長い人物・・・つまり、あなた方母親がそもそも子供を育てるのにふさわしい人間でなくてはならない。そうではありませんか?」
 講師はまず、早期教育の重要性や私立学校に進学する意義についてスライドを使いながら解説する。・・・彼が言うには、確かに日本の公立学校教育のレベルは相当落ちており、ごく一部の優れた私立学校に入れて教育を受けさせることには確かに価値がある。だが、そのために受けざるをえない『お受験』教育が子供の心を歪めているというのだ。
「・・・さて、世の中にお受験対策を行う塾は多いわけですが、その多くは受験テクニックを子供に刷り込むことのみに堕しているのです」
 彼はホワイトボードに

『1 3 □ 7 □ 11』

と書き込んだ。
「・・・さて、これはある有名私立学校のお受験問題です。この数字の列にはある規則性があります。さて、□にはどんな数字が入るでしょうか?わかるお母さん方、いらっしゃいませんか?」
 ぱらぱらと手が挙がる。男は一人の母親を指名して答えさせる。
「5と9じゃないですか?」
「その通りです。1つおき、というやつですね。では次の例はどうでしょうか?」

『1 3 □ □ 8 □ 12』
 
 会場がざわめくが、だれも挙手できない。もちろん由美香にも想像もつかない。
「はい、そこの黒っぽいスーツを着てらっしゃる方、想像でいいので立ち上がって答えていただけませんか?」
「え・・・?」
 とまどいつつも立ち上がった女性を見て、由美香は驚きの声を挙げた。その女性は瑞希だったからだ。
「あ〜、瑞希さんも誘ったんですよ〜。忙しいから来られるか分からないっておっしゃってたんですけど、来てくださったんですね〜」
 のんびりした口調で嬉しそうに麻衣は言う。

「・・・えっと・・・5・・・7・・・・・・・10?」
「はい、ありがとうございます。確かにそう答えたくなりますよね。しかし、それは『正解』ではありません」
 彼は赤いペンで、□に『4』『6』『10』と書き込んだ。
「『正解』はこうです。さて、この規則が何か、お分かりになりますか?」
 会場は静かなままだ。
「この数字は、関東のテレビ局のチャンネル番号です」
 会場がどっとはじけ、なんだ〜、という声があちこちで上がる。
「はい、分かってしまえば何のことはありません。しかし、コロンブスの卵ではないですが、こうした自由な発想からモノを見ることができるかどうかが、正に問われているわけです」
 気まずそうに立っていた瑞希が髪の毛を掻き揚げながら座ろうとしたところ、
「あ、瑞希さん、でしたっけ?もう一問、ついでだから答えてください!」
 男は、さっきの数列の下に、もう一度書き込む。

『1 3 4 □ □ □ □』

 瑞希がしどろもどろになりながら、
「え・・・、6、8、10、12・・・」
 男はすぐに問い返す。
「なぜ、そう思いましたか?」
「え・・・その・・・さっきの正解がそうだったから・・・」
 男はうんうん、と頷いて瑞希に話しかける。
「そう『さっきは』それが『正解』でした。ですが最近は、この問題自体がもうバレバレになっているので、テレビのチャンネル、と答える子供には、学校の方も却って点数を低くつけます。むしろいくつも解答を考えさせることで、その子供の本当の考える力を見よう、という姿勢に変わりつつあるのです。・・・そもそも、このケースならば、次のどれだって理屈はつくので正解です」
 男は
『1 3 4 3 1 3 4』
『1 3 4 1 3 4 1』
『1 3 4 7 11 18 29』
 と立て続けに書いてみせる。
 おお〜と会場がどよめく。
「・・・一番下などは、なかなか良い発想ですね。私なら一番良い点をつけたいところですが。ああ、もう座って結構ですよ、意地悪な質問をしてしまって申し訳ない」
 講師に促され、瑞希は顔をこわばらせながら着席する。座る瞬間、瑞希が由美香と麻衣の存在に気づいたようで、由美香と瑞希はあわてて互いに視線をそらした。

「さて、このように、最近の質の良い学校は、子供達のことを考えて、お受験に当たっても、単なる反射神経的な能力や知識の量ではなく、その子供の自由な発想はもちろん、その両親の発想や教育姿勢も見るようになってきています」
 男はそこで一区切りつき、
「・・・ところが、その『自由な発想』を問うための問題に対して、多くの塾はただ大人が考えている『自由な発想』に基づく『正解』を、子供達に押し込んでいます。そして、そんな塾の姿勢にあせった親御さんたちも、それを後押しするような振る舞いをしてしまいます。それぞれの子供が持つ真の個性、真に自由な発想を見ようともせず育てようともせず・・・。これこそ、お受験の、そしてお受験対策として世間で流布している早期教育のもたらす、最大の害悪です」
 ざわめいていた会場が静まり返る。
「さて、お母様方。あなた方は、子供のためを思って本当に『教育』をしているのでしょうか。『お受験』をさせようと考えているのでしょうか。つい世間体や自分の思い込みに突き動かされて、お子さんに大人の都合を押し付けてらっしゃるのではないですか?少し目を瞑って考えてみましょう」

 うーん・・・。由美香は言われるままに目を閉じて考える。
 確かに美優のやんちゃに対して、自分は結構きつくあたるほうだ。それは躾のためだと自分は思っていたけれど、考えてみると、夫から冷たくあしらわれているストレスをぶつけていただけなのかもしれない・・・。この先生の言うとおり、自分はそこまで柔軟な発想をできるわけでもないし、素直でもない・・・。美優の良いところを自分は本当に見てあげているだろうか・・・。

「はい・・・目を開けてください」
 男の声に引き戻され、由美香は目を開く。
「ここにいらっしゃるお母様方には理解していただけると思いますが、何より重要なのは、従来の枠に押し込められない発想を認めること、そして、大いなる愛を持って子供に接することなのです。そのためにはお母様方が、まず、柔軟な、素直な心を持つこと、広い愛情を持つことが何よりも必要なのです・・・」
 由美香はちらりと瑞希を見る。瑞希はこちらのことに気づきもせず、真剣な表情で講師の言葉に聞き入っていた・・・。

 男はひとしきりそうした話をした後、

「さて、ではここにいる方々がどれくらい柔軟な発想に対応できるか、素直な心を持つことができるか、テストをしてみたいと思います」
 男がリモコンのスイッチを入れると、プロジェクターの画面いっぱいにコンピュータグラフィックで描かれた幾何学模様が広がり、一定のビートの利いたBGMがスピーカーから流れ始める。
「皆さん、しばし、この環境ビデオを注意深く見ていてください。そして様々な指示が音声で流れますが、その指示通りに行動をしてみてください。これはあなた方の柔軟性を試すテストです。あなた方のお子さんのためにも、どうか、心を開いて受け入れてみてください・・・」

「・・・みなさん、画面の中央にある立方体を見つめてください・・・」
 ちかちかと明滅する立方体は、次第にゆがみ、球状になり、ドーナッツ状になり、三角錐になり・・・ゆっくりと形を変えていってやがて立方体に戻るという動きを繰り返す。色も赤、青、黄色、紫と次から次へとゆっくりと変わっていく。
「・・・この図形の移り変わりを予測してください・・・あなたの心の赴くままに形の変化を予測して、それを口にだしてみましょう・・・」

 青・・・紫・・・赤・・・オレンジ・・・。ボール・・・三角・・・四角・・・その動き回る不思議な図形を由美香がいわれるままに見ていると、次第に頭がぼんやりとしてくる。最初は各自がてんでばらばらに口にだして、全く当たらなかった予想が、次第に全員の意見が一致し始め、予想が不思議に当たるようになってくる。前よりもBGMが大きくなり、部屋の中に香る匂いが濃くなってきたが、誰もそれを疑問に感じることは無い。
 そうした時間が・・・どれくらい過ぎたかさえ、会場の参加者の誰も把握できなくなった頃・・・。
「さぁ・・・あなた方の予想がどんどんあたるようになって来ました。・・・あなた方の心が素直になってきた証拠です。それはとてもとても素敵なことです・・・。・・・さぁ・・・少し目が疲れてきましたね・・・あなた方はだんだん眠くなってきました。・・・次に図形が丸くなると画面が暗くなって、あなた方は深い眠りに落ちます・・・」
 あれ。なんでこんな催眠術のようなことを・・・。
 何も考えることができなくなりつつあった由美香の心に、わずかに残っていた理性が疑問を投げかける。
 ふと横目で見ると、隣に座っている麻衣も口を薄く開いて、とろんとした表情になっている。他の母親達も、奥に座っている瑞希も、虚ろな表情になっている。
「・・・ねえ・・・麻衣さん・・・」
 本能的な危険を感じた由美子が思わず隣の麻衣に声をかけた途端、後ろから柔らかい手のひらが由美香の目の上から押し当てられる。
「さぁ・・・眠りましょう・・・貴方は素直な心を持っていますから、眠ってしまいますよ・・・」
 後ろから呼びかけられた声が由美香の耳に入った瞬間、由美香の意識は抵抗することも無く深い闇に沈んでいった。







 その後、男は更に暗示を深めるいくつかの誘導法を施し、全体を立ち上がらせたり、座らせたり、様々な暗示を試行して、全員の被暗示性を試していく。
 かかりの浅い何人かの女性を退場させられ、会場に残されたのは12名だった。
 全員が椅子にもたれかかるようにして深い眠りに堕ちている。そこには由美香、麻衣、瑞希の3人とも残っていた。
「さて、少し具合を見てみましょうか・・・」
 男はマイクを握り締めて次のように語る。
「皆さん、皆さんは深い眠りについています。今から私が皆さんの様子を確認に回りますが、あくまであなた方がは深い眠りについたまま、頭は真っ白なまま、私の言われるとおりに体が動きます・・・」
 会場の女性たちはその声に対して全く反応しない。男は別にそれを気にする風もなく、一人、また一人と女性に近づいては、暗示の深さを確認するかのように女性を立たせ、顔や胸、太腿といった敏感な部分に触れていく。どの女性も彼に言われるままに立ち上がり、ただ彼に触れられるままになっている。猪山も、ある程度以上のことをするではなく、事務的に、かつ丁寧に一人一人の深度を確認している。
「今日の方々は中々筋がよろしい。素晴らしい素質の方々が揃っていらっしゃる・・・」
 彼は満足そうに呟くと、やがて瑞希に近づき、耳元でささやく。
「瑞希さん・・・聞こえますか?」
「・・・はい・・・」
「瑞希さん。私が今から声をかけると、足に力が入って立ち上がることができるようになります。ただ、貴方の心は深い眠りについたままです・・・・・・いいですね?」
「・・・はい・・・・・・」
「では、立ち上がりましょう・・・、いち、にぃの、さん!」
 男が瑞希の両肩をかるくおさえて上に引き上げると、瑞希の体がふわりと持ち上がる。「瑞希さん、私が指を鳴らすと、貴方の心は眠ったまま、目が開きます。ただ、何も見えません。何も感じることはできません。いいですね?」
「・・・はい・・・」
 ぱちん。
 男が指を鳴らすと、瑞希はゆっくりとまぶたをひらいた。その瞳からはいつも鋭く宿っている光は失われ、黒いスーツを着た彼女は、ただ虚ろに立ち尽くしている。普段の職場での彼女の姿を知るものからは想像もつかない姿だ。
 男の指は彼女の乱れた髪の毛を掻き揚げ、そのまま頬をつつっと伝い、顎をくいっと摘み上げる。そして喉、うなじ、耳たぶ・・・上質の人形を検品するかのように男の指は彼女の白い肌を這い回る。
「・・・いい表情ですね・・・」
 男は瑞希を座らせる。
「さて、次は貴方にしましょうか」
 由美香の両肩に軽く手をおいて、ゆっくりと回転させはじめる。
「由美香さん・・・こうやって身体を揺らされていると貴方の身体はだんだん軽くなっていきます・・・私が今からぐっと貴方の身体を下に押し込むと、その反動で貴方はすっと立ち上がります・・・でも貴方の頭の中は真っ白で深い眠りについたままです・・・いいですね・・・」
「・・・はい・・・」
「それではいきますよ・・・はい」
 猪山が彼女の身体を上から押すと、ばねのように曲がった由美香の脚に力が入り、その反動で体がゆらりと立ち上がる。
「目を開いてください・・・ただ、何も見えませんよ。はい」
 ぱちん。
 男に言われるまま由美香はゆっくりと目を開く。
「・・・なるほど、さすがは一流企業で秘書をやっていただけはある。非常に美しい・・・。今回はなかなか楽しませてもらえそうですね」
 その柔らかさを確かめるように、男の指は由美香の唇を撫ぜる。落ち着いた紅いルージュのひかれた唇は、彼の指の動きに弄ばれるかのように艶かしく無抵抗に形を変えるが、彼女は茫洋と視線を彷徨わせたままであった。
 ビートの利いていたBGMは、いつの間にか聞き手をリラックスさせるかのようなピアノと弦楽器の絡み合う音楽へと変わっている。そんな曲が潮騒のように薄暗い部屋に満ちる中、女性たちは虚ろに座っている。男の助手である女たちは、そんな様子を何の不思議も感じないかのようにただ無表情に眺めている・・・。
 男はその様子に満足したかのように少しだけ口を歪めて笑った。





「では、みなさん、私が今から10数えて指を鳴らすと、深い眠りから覚めてすっきりと目が開きます。あなた方は既に私の講義の内容をしっかり理解しているので、私の言葉には心が素直に従うようになります。そしてその言葉に従えば従うほど、あなたたちも、あなたたちのお子さんも、幸せになっていきます・・・」
 ここではそれほど強い暗示を入れない。まだ初めも初め、あくまでこれからの講義の地ならしに過ぎないからだ。時間を掛け、被験者に自分から喉奥に釣り針を食い込ませるように仕向けるのが講師・猪山のやり方だった。
「じゅう、きゅう、はち、なな、ろく、ご、よん、・・・さあ、もうずいぶんと目が開いてきましたよ・・・さん・・・に・・・いち・・・目が開くとすっきりと目が覚めますが、私の言ったことは心の奥底に刻まれています・・・ゼロ!」
 ぱちん。
 全員の目が開き、途端に教室が騒がしくなる。
「あ、あれ?」
 由美香も突然目が覚め、慌てて周りを見渡す。隣では麻衣がふぁぁあとあくびをしており、瑞希も目をしばしばさせている。二人とも自分と同じように眠っていたようだ。
 ・・・確かさっき目が押さえられて・・・。
 それ以降の記憶が曖昧だ。
 ただ、非常に心地よい気分だけが残っている。
「さぁ、皆さん少し伸びをしてみましょうか」
 猪山がうーん、と伸びをすると、全員つられるように伸びをする。
「おめでどうございます。ここに残った方々は、先ほどのテストを見事合格された方々です」
 講師の男とアシスタントと思しき女性2名がぱちぱちと拍手をしている。
 確かに、見渡すとぽつりぽつりと座席に空白がある。いつの間にか何人かは退出させられていたらしい。
「それでは、しばらく休憩した後、次の講座に移りたいと思います。しばらくこの部屋でお寛ぎ下さい・・・」
 講師の男が退出すると、再び講義室に流れるピアノのBGMが大きくなった・・・。




 
「・・・瑞希さんも来ていたんですね」
「えぇ・・・」
 瑞希は髪の毛を撫でながら横目で由美香をちらりと見る。 
「・・・なかなか面白い話だったわよね・・・」
「・・・そうですか?よくある話かと思いましたけど」
「・・・・・・そ、そうかもね。あはは・・・」
 休憩時間。話しかけないのもかえって気まずいと思い、由美香の方から瑞希に話しかけたものの、やっぱり話は弾まない。
 そこにパタパタとやってくるのは麻衣だ。
「は〜。よかったです〜。瑞希さん、来てくれたんですねえ〜」
「え、えぇ・・・」
 心の底からうれしそうに話しかける麻衣に、瑞希は少しバツの悪そうに答えた。
 こういうときに彼女の天真爛漫な性格は助かる。由美香はその助け舟に便乗することにした。
「それにしても麻衣さん、よくこの先生知っていたわね・・・」
「はい〜。時々うちの子供もつれてきて色々お話聞かせてもらったり、勉強させていただくんですよ〜。あの先生中々人気なんで、この講座も3ヶ月先まで予約が一杯なんですよ〜」
「え、じゃあ私達は・・・」
「はい〜。先生に二人のことを話したら是非きてもらいなさいって。だから二人が来てくれてとってもうれしいです〜」
 そういう特別扱いだったとは今はじめて知った。
 瑞希の家庭の事情を知っていたり、麻衣は意外なところで妙なコネクションや情報網を持っている。これが名家の力というやつだろうか。
 嬉しそうな麻衣と対照的に、瑞希は少し落ち着かない様子だ。
「・・・ごめんなさい、変なことを言って・・・」
「はい?何かおっしゃいました?」
 あまりにニコヤカな表情をされて、瑞希はかえっておどおどしている。白い指で髪の毛を弄りながら、
「・・・え。あ。いえ、何でもないです・・・」
と、慌ててフォローする。

 へぇ・・・あの気の強い女が、ねぇ・・・、と、由美香は軽い驚きをもってその風景を見やる。
 おそらく彼女は、さっき自分に向かって講師の話に批判的な表現をしたことに対して、わざわざ誘ってくれた麻衣を慮ったんだろう。
 一度も瑞希に謝られたことの無い由美香にとっては、彼女の意外な一面を見る思いだった。





(3)






 やがて部屋が暗くなり、女性の助手が2名、そしてあの猪山と称する講師が入ってくる。

「・・・では、次のステップに入ります。皆さん。最低限の素質をお持ちであることはわかりました。しかし、残念ながら素質だけでは駄目、それは磨かれてこそ価値を持つものです・・・」
 男はアシスタントの女性に指示し、二人一組になるように受講者の組み合わせを読み上げた。
「・・・瑞希さん、よろしくお願いします・・・」
「・・・こちらこそ・・・」
 なぜか由美香は瑞希とのペアを組まされた。由美香には「5」と書かれた赤いバッチが、瑞希には「6」と書かれた青いバッチが胸につけられる。麻衣は「11」と書かれたバッチをつけ、別の女性とコンビを組んでいる。

 この時間は二人一組になっていろいろロールプレイというのだが・・・。

「では、次のステップでは、子供の心を理解できるようになることです。皆さん、いつもお子さんの相手をしているでしょうから、自分は子供の心を理解しているとお思いでしょうが、実際はなかなかそうではありません」

 つまり、片方が子供の役、片方が大人の役をして、改めて子供の感覚を実感させようというのだ。

「では、代表してまずこの中の一組に実演をしてもらいます。・・・そうですね、5番と6番のペアの方」
 え、私達?
 とりあえず二人ともまじまじと目を見合わせる。周囲の視線も瑞希と由美香に集中する。
「では試してみましょう」
 猪山は瑞希の目に手のひらを押し当てる。一瞬びくっとして振りほどこうとした瑞希だが、猪山が耳元で「瑞希さん・・・良い子だからおとなしくしましょうね」と囁くと、彼女の腕はそのままだらりと膝の上に落ちた。猪山が手を開くと、瑞希の目蓋は閉じられ、顔はすっかり弛緩している。
 猪山は瑞希の両肩を押さえて身体をゆっくりと回し始める。長いさらさらとした黒髪と、瑞希の小さな顔がそのたびに揺れる。
「瑞希さん。私が一つ数えるごとに、あなたの年齢は一つずつ若返ってきます・・・25・・・24・・・23・・・22・・・今大学生です・・・21・・・20・・・19・・・18・・・17・・・16・・・15・・・中学生になりましたね・・・もっと若くなります・・・14・・・13・・・12・・・11・・・10・・・9・・・8・・・7・・・6・・・5・・・さあ、瑞希ちゃん、貴方は何歳ですか?」
「いつつ」
 舌足らずな声を瑞希は出す。
「そうですね〜。じゃあ瑞希ちゃん、今目を開くと、目の前には瑞希ちゃんのママがいますよ〜。瑞希ちゃん久しぶりにママに会えてうれしくてうれしくてたまらないよ〜、甘えちゃおうね〜」
「え、そんな、猪山先生・・・」
 由美香の抗議の言葉を聞き入れることも無く、猪山は暗示を続ける。
「さぁ、目を開くよ・・・いち、にいの、さん!」
 瑞希はぱちっと目を開く。瑞希と由美香の視線が合う。すっかりあどけない少女の表情となった瑞希の顔がにぱぁっと明るくなる。天使の微笑みとはこのことだろう。
「ママぁ!」
 瑞希が由美香に向かって抱きつく。
「え?え?」
 混乱する由美香に向かって上目遣いの瑞希が甘えた声を出す。
「ママ、瑞希、留守番一人で頑張ったんだよ、えらいでしょ?」
「え・・・その・・・」
 思わず猪山に救いを求める視線を泳がす由美香。猪山はいたずらっぽく笑い「うまくやってね」とばかりのジェスチャーをする。
「あ、ええと。そう、瑞希ちゃん、偉かったわねえ・・・」
「うれしい、ママ、私のこと褒めてくれるんだね。ママ、大好き♪」
 と、突然瑞希は由美香の唇にキスをした。その行動に周囲の母親達がどよめく。
 瑞希のあまりにその純朴な行動と、普段の瑞希の態度とのギャップに由美香の頭が追いついていない。思わず赤面する。
「あれ、ママどうしたの、お顔、真っ赤だよ?」
「え、あ、うう・・・」
 こつん、と瑞希は由美香に額に当てる。
「お熱はありませんか〜」
「・・・ええ、無いと思うわ・・・」
「そうなんだ〜よかった〜」
 にっこり笑う瑞希を見ていると、なぜだか由美香の心の中にも彼女への愛おしさが沸いてきて、思わず由美香は抱きしめる。瑞希のつけている上質の香水の匂いが由美香の鼻腔をくすぐる。瑞希は気持ちよさそうに由美香に頬擦りをし、由美香ももはや何の疑問を持つことも無く彼女の自慢の黒髪を梳き、あやすような仕草をする。
「瑞希ちゃん良い子だねぇ〜、優しいママでよかったねぇ」
 猪山はしゃがみこんで、瑞希の目線で優しく話しかける。
「うん!ママ大好き!」
「そう、じゃあ、瑞希ちゃん、ちょっとおじさんの持ってるこのライトの先を見てくれないかな?」
 瑞希の視線が猪山の持つライトの先に集中する。
「では瑞希ちゃん。今度はもっと小さくなって赤ちゃんの頃を思い出しますよ〜。そして、お母さんのおっぱいがほしくて欲しくてたまらなくなりますよ〜」
 瑞希は猪山の持つペンライトを虚ろな表情で黙って見つめていたが、やがてこくりと頷く。
 慌てたのは由美香だ。思わず抗議の声をあげる。
「そ、そんないくらなんでも・・・」
「おや、どうしたんですか?由美香さん」
「どうしたんですかって・・・・・・幾らなんでもこんなところで・・・」
 周りの女性たちもざわついている。
「大丈夫です。男は私だけですから、恥ずかしがることはありませんよ」
 その貴方が問題なんでしょうが、と怒鳴りかけたときに、突然身体に何かがぶつかってくる。
「だー」
 それは赤ん坊になった瑞希だった。
「あぁ〜うー」
 瑞希は由美香のブラウスを脱がそうとしている。
「ちょ、ちょっと瑞希さん!正気に戻・・・」
 慌てふためく由美香の頭の脇から手が伸びて彼女のこめかみと頬を柔らかく押える。
「・・・由美香さん。瑞希ちゃんの目を見てください」
「え?」
 後ろから投げかけられる声のまま、由美香は視線を下げると、瑞希は由美香の太腿に両手をついて、乗り出すようにして由美香の顔を見上げている。そんな瑞希の澄んだ瞳が由美香の瞳を捉えた。
「だってそんな・・・・・・そんな・・・」
 あれ、あれ・・・。
 その透き通った瞳と・・・美しい彼女の、普段は見せないようなあどけない表情を見ているうちに、頭の中が・・・ぼんやりしてきて・・・。
 私、何を考えていたんだろう・・・。
「どうしましたか?由美香さん・・・」
 いつの間にか彼女のこめかみを押えていた両手は外されている。由美香が振り向くと、スーツを着た男性が立っている。
 あれ、この人は・・・。
「ああ気にしないで。私は医者です。あなた方母娘の主治医ですよ。貴方達のお産にも立ち会ったじゃないですか」
 男は優しそうな笑みを浮かべる。
「あ・・・そうなんですか・・・そうでした、よね・・・」
 あれ、私なんでそんなことを忘れてたんだろう?
「それよりも、瑞希ちゃんがおっぱいを欲しがってますよ・・・」
 ああ、そうだ。おっぱいの時間だった。
 虚ろな目をした由美香がブラウスのボタンを外し、薄い青色のブラジャーを押し下げると、形の良い大きめの乳房がふるんと顔を出す。
「あ〜」
「こらこら、遊ばないの」
 ぺたぺたと揺れる乳房を掴もうとする瑞希の顔に乳首を近づけると、瑞希はちゅぷちゃぷとその乳首に吸い付き始めた。
 無心に母乳を飲もうとする彼女の黒い髪の毛をさわさわと触っていると、猪山が近づいてくる。
「どうですか、由美香さん、気分の方は」
「え・・・気分って・・・」
「こんなかわいい赤ちゃん、こんな綺麗な赤ちゃん、こんな元気な赤ちゃんに恵まれて、由美香さんは幸せですね。そうではありませんか?」
「・・・はい・・・わたしは幸せです・・・」
 瑞希に乳房をふくませながら、由美香は言われるままに彼のいうことを肯定する。
 ・・・そう、こんなかわいい赤ちゃんがいるなんて・・・、私は幸せな母親だ・・・。
「瑞希ちゃんに幸せになってもらいたいですよね?」
「・・・はい・・・」
「・・・よろしい。それでは・・・」
 男が二人の目に手を柔らかく当てる。
「あ・・・」「あー・・・」
 二人は短く声を挙げるが、一切抵抗はしない。
「二人とも眠って・・・ふかぁく深く眠りましょう・・・。そう・・・安らかな気持ちです・・・」
 男が手を離す。瑞希は由美香の乳首を口に含んだまま眠りに落ちており、そんな瑞希を抱きかかえるように由美香は目を閉じて寝息を立て始める。
「・・・二人とも、私が1、2の3で手を叩くと、すっかり目が覚めます。覚めたときには、瑞希さんあなたはいつもの大人の瑞希さんで、由美香さんもいつもの由美香さんです。だけど、目を覚ますといつもよりずっと安らかで心が温かくなっていますよ・・・さぁいきますよ・・・1、2の、さん!」

 パチンと男の手のひらが鳴らされ、二人ははっと目を覚ます。
 お互いに目線がぶつかる、その後、視線が下に落ち・・・
「きゃぁぁぁ!!」「あ、あ、あ、あ・・・」
 瑞希は目の前にまろびでた由美香の乳房から慌てて離れ、よだれでびしょびしょになった口の周りを慌ててハンカチで拭う。由美香は派手に叫び、あわててむき出しの乳房を隠す。
「な、何をさせたんですか!」
 由美香が立ち上がり、猛然と猪山に向かって抗議する。
「お母さんと赤ちゃんになってもらうといったでしょう?あと、させたんではありません。あなた方が自分からしたんです」
「何をむちゃくちゃな・・・」
 瑞希はあまりのことに放心状態で立ち上がることも出来ない。
 さらに言い募ろうとする由美香を制するように、猪山は受講生の母親達に話しかける。
「みなさん、いかがだったでしょうか。母と子の愛情。それはこの世のありとあらゆる愛の、正に原点とも言えます。全ての子供達は、こうやって母親に愛されるために生まれてきたはずなのです・・・」
 だからといってこんなバカなことを・・・と言いかけて、由美香はちらりと自分の痴態を見ていたはずの女性たちを見やる。彼女達は真剣そのものの表情で講師の話に聞き入っており、その異常な雰囲気に思わず由美香は息を呑む。
「・・・しかし、あなた方とあなた方のお子さんは、生まれて次第に時間が経つにつれ、そうした純粋な愛をいつのまにか喪ってしまっています・・・ささいなことで子供を叱り、子供も親を疎むようになる・・・悲しいことです・・・。そんないつの間にか私達が忘れていた愛の姿を、彼女達は再現してくれました。皆さん、彼女達に盛大な拍手をしましょう!」

 その瞬間、講義室内がどっと拍手の渦で包まれる。どの母親も母親も、由美香と瑞希を尊敬のまなざしで見つめながら、嵐のような拍手をしている。麻衣に到ってはぐずぐずと泣き出す始末だ。

「ありがとうございます。瑞希さん、由美香さん。素晴らしかったですよ」
 猪山はニコヤカに笑いかける。もはや怒鳴るタイミングを逸した由美香は、黙って一礼すると、服の乱れを直し始める。ようやくわれに返った瑞希も真っ赤な顔をして小さく頷いた後、その場で恥ずかしそうに俯いた。
 猪山は大きくうなずくと、受講生である母親たちに呼びかけた。
「さぁ、今度は皆さんの番です。最初は恥ずかしいかもしれませんが、お互いの心の壁を突き破って、真実の愛を思い出しましょう。では、さっきの二人組に別れて、まずは母娘になってみましょう・・・」
 若い母親達は散り散りとなって、お互い向かい合わせに座ると、さっきの自分達と同じようなことをしはじめる。すぐに甘えにかかる子役の母親もいれば、恥ずかしいのか、なかなか役割に入れないペアもいる。しかし、猪山がそんなペアに近づき耳元でささやくと、たちどころに二人はあたかも親子のように抱き合い始める。麻衣も、ショートカットの女性の胸に顔を埋めてちゅばちゅばと乳首を吸っている。
 
 ようやく服装を整えた由美香は、そんな光景を唖然として見守るばかりだ。
「あの・・・由美香さん」
「え?」
 由美香が振り向くと、そこには瑞希がいた。
「瑞希さん、大丈夫?」
「はい・・・」
 しかし、いつもだったら由美香に冷たい視線を投げかけ皮肉の一つでも言ってくる彼女だが、タイトスカートの裾を撫でたり袖のカフスをいじったりと落ち着かない。
 確かにあんなことがあった後なら仕方ないだろうけど・・・。
「・・・どうしたんですか?」
「その・・・さっきは私が赤ちゃんで・・・由美香さんがお母さんだったから・・・」
 瑞希が上目遣いで由美香を見る。
「今度は・・・逆なのかな・・・って・・・」
「え?って、その、あの、え??」
 まさか、あんな恥ずかしい真似をまたやろうというだろうか?しかも今度は自分が胸を出して??
 思わず瑞希の胸のふくらみに目がいく。平均以上のサイズを誇る彼女の胸は、彼女の白いブラウスを押し出すかのように形よく自己主張をしている。この絶妙なプロポーションに加えて胸のサイズこんなんで、それで顔も頭もいいだなんて・・・。
 いや、そうじゃなくて・・・由美香は慌てて瑞希に耳打ちする。
「瑞希さん。ちょっと、あの、今更なんですけれど、この講座、どこかおかしいですよ?」
「え?そ、そうですか・・・」
 瑞希は由美香を見る。その瞳は、どことなく熱に浮かされているかのように虚ろで、いつもの冷たい刃のような彼女の雰囲気はどこかへ消えてしまっている。
「だって・・・、いくらなんでも赤ちゃんにおっぱいをあげるだなんて、その・・・」
 ちらりと辺りを見ると、殆どのペアがもう胸をむき出しにして相手の母親に含ませている状態だ。自分達にやったとはいえ、大の女性同士が乳房を貪っている姿を改めて客観的に見てみると、恥ずかしいというよりは恐ろしく異常な感じがする。

「どうしたんですか?」
 低く、よく頭の中に染みとおる柔らかいあの男の声。いつの間にか二人の脇に近づいてきていたのだ。
「い、いえ、何でも・・・」
 猪山の手が由美香の目を覆う。
「な、何を・・・!」
「静かに・・・立ったまま眠りなさい・・・」
 瞬間、猪山の手を振り解こうと浮かび上がった由美香の手が空を掴み、力なくぶらりと落ちる。
「・・・瑞希さん。こんどは瑞希さんが由美香さんのお母さんということですね?」
男の視線が瑞希の瞳を捉えると、瑞希の瞳の中に一瞬戻りかけた理性の煌きは再び消え、彼女の瞳はすりガラスのように曇っていく。
「・・・え、・・・・・・・・・・はい・・・私は・・・・・・・由美香・・・の・・・お母さんです・・・」
「そう、よく出来ました。そうしたら、そこの椅子にかけて、由美香ちゃんにおっぱいをあげてください。由美香ちゃんは、瑞希ママからおいしいおいしいおっぱいを飲むんですよ?」
「はい・・・おいで・・・由美香・・・」
「だぁ・・・」
 瑞希は由美香を抱きかかえるように座る。ブラウスのボタンを一つ一つゆっくりと外すと、白く肌理の細かい肌が薄暗いライトの光を浴びて艶かしく露出していく。すっかりブラウスの前をはだけると、瑞希はレース飾りのついた黒いブラジャーを外し、白い乳房の中央に浮かび上がっている薄紅色の乳首を由美香に含ませる。
 由美香は最初は不思議そうにその乳首を眺めていたが、やがて口をつけ、次第に積極的に吸い始める。ひとしきり、ちゅばちゅばと吸うと、由美香はぷはぁと息をつく。
「はぁーい、由美香ちゃん、げっぷしましょうねー」
「こほ、・・・げふ・・・」
 瑞希が背中をとんとんと叩くと、由美香はあたかも母乳を飲んだかのようにげっぷをし、満足気に微笑んだ。
 パチン。
 猪山は手を叩くと二人の視線が再び絡み合う。
「や!」
 瑞希が慌てて自分の胸を隠す。
 二人の疑念が沸き立つ前に猪山は二人の視界を手で遮る。
「はい、二人とも、もう何も分からない、分からないままどんどん眠くなります。そう、もうあたりは真っ暗で、貴方たちの頭の中は真っ白です・・・さっき赤ちゃんにおっぱいをあげた時の気持ち・・・そして赤ちゃんになっておっぱいを貰ったときの気持ち・・・その暖かい、安らかな気持ちで貴方たちの心は一杯になったまま・・・気持ちよく眠ることができます・・・それはこの上ない・・・本当に幸せな眠りです・・・」
 猪山の手の動きにあわせて彼女たちの首が力なく揺れる。猪山がその手を離すと、二人は抱き合う形になって安らかな笑みのまま眠りについた。


 猪山はそのまま受講生の母親を全員眠らせ、全員に暗示を与えていく。再びこの講義を受講したくなること。自分の指示された言葉はあたかも自分の意志のように感じること。キーワードによってすぐに洗脳状態に陥ること・・・。そして着衣の乱れを整えさせると再び全員を着席させる。

「はい、皆さん、目を覚ましてください!」
 全員がびくっとはじけるように目を開く。
 由美香も瑞希も、そして麻衣も、驚いたように目をぱちぱちさせ、辺りを見回す。
 ・・・あれ、私確か・・・おっぱいを瑞希さんにあげて・・・そして・・・。
 ・・・。
 ・・・・・・。
 あわてて自分が服をきちんと着ているかどうかを確認し、きちんと元に戻っていることに安心したのも束の間、思わず自分のしたことに赤面する。
 それが恥ずかしさか怒りからくるものかはわからない。
 由美香が睨みつけたその先にいる背広を着た講師は、何食わぬ顔をして滔々と受講生に語りかけ続けている。
「・・・皆さん、今日は素晴らしい経験をなさいました。普通の方々は忘れてしまった心を、そしてあなた方も昔持っていたはずなのに忘れてしまった心を、つかの間ではありましたが、その気持ちを忘れずに、今後も子供に接するようにしていただきたいと思います・・・」
 自分と同年代と思われる母親は、講師の話に心酔しきったように頷いている。
 ・・・瑞希は・・・ぼんやりとただ彼の話を聞いているようだった。

 
 


 

 

戻る