サグラダ ファミリア


 

 
第九話


 そんな奇怪な「裁判」が終わったあと、しばらくして、また病院に行く日がやってきた。


「はい、今日も元気だね〜祥平君。はーい、いたいところはないですかー」
「先生、困りますよ、そんな風にからかっちゃ……」
 今日は病院。週に一度は、僕はまだこうやって病院に通っている。
「うん、熱もないし、血液も特に問題なしだねぇ。最近何か変わったことはある?」

 僕を覗き込むようにして、上目遣いにたずねてくる美樹先生。

 ここしばらく、本当に嵐のような経験があったわけだけど、もちろんそんなこと言えるわけないから、
「いえ、ぜんぜん問題ありません」
 と僕は型どおりの答えをする。

 看護師の絢音さんが、メガネをくいっとずりあげて、
「薬はきちんと飲めてるかな?間違ってかんだりしてない?」
 と尋ねてくる。
「もう、こどもじゃないんですから……飲めてますよ。お気遣いなく」
 僕は少し膨れそうになりながらも、そんなふくれっつらをするほうが子供っぽいということで、ここはひとつこらえておく。
「うーん、つれないなあ、祥平君。患者のことを気遣うのがお医者さんの使命、喜び、生きがいなのよ♪ましてや、祥平君のためともあれば、人肌でもふた肌でも脱いじゃうからねー」
「ちょ、ちょっと美樹先生、こんなところで白衣脱がないでください!!」
 絢音さんの叫び声、それをほほえましく見つめる唯さん。

 うん、なんだかいつもの診察風景って感じで、悪くない。
 最近、変わったことがありすぎて、こういう「ふつう」がなんだかとても幸せな感じだった。



「祥平おにーちゃん、大丈夫だった?お医者さん怖くなかった?お注射痛くなかった??」

 診察室の前で待っていたのは、瑠美ちゃんと唯さんだ。

「大丈夫だよ、注射、痛くなかったし」
「えらいねー、つよくなったねー、お兄ちゃん」
 ぼくは瑠美ちゃんによしよしと頭を撫でられる。

「あのね、瑠美、今日は静かに待ってられたの、偉いでしょ!」
「うん、偉いね」

 僕が瑠美ちゃんにお返しによしよしをしてあげると、瑠美ちゃんは、えへー、と笑顔を浮かべる。

「あのね、いい子にしてられたから、今日ね、お母さんと一緒におもちゃ屋に行くの!一緒にいこ!!」
「へ?」
「そう、祥平君、これからご褒美に、瑠美ちゃんと一緒にデパートに行くの、祥平君も、一緒に行きましょう?」

 唯さんは僕ににっこり笑いかけた。









 近くにある、大きなショッピングモールにある、かなり大きめのおもちゃコーナー。
 おもちゃ専門店が丸ごと入ってて2フロアぶち抜きなので、そんじょそこらにはないようなおもちゃやら、実際のにおもちゃで遊べる体験コーナーやらがあって、遠くからもたくさんの人が来ている。

 たくさんの子供たちの声が溢れて、そしてBGMもすごくにぎやかな感じで、なんだか「幸せな街の午後」みたいな雰囲気でいっぱいで。

 病院帰りという立派な理由があるとはいえ、普通の日にこんなところに来るのはちょっと気が引けてたけど、そんな幸せ空間を遠目に見ていると、なんだかそんな小さな心配はどうでもよくなってくる。

 僕が片隅の木でできたのベンチでぼんやりと座っていると、遠くからふわふわしたピンク色のコートを着た女の子がトタトタと走り寄ってくる。
「おにいちゃん〜そんなところで座ってないで、もっといろいろみよーよー、あっちにすっごいかわいいぬいぐるみとお人形、あるんだよー」
「い、いや、もうちょっと疲れたから……さっき、もう30分くらいずっと瑠美ちゃんのウィンドウショッピングにお付き合いしてたし……」
「えー、そんなおじいちゃんみたいなこと言ってると、おじいちゃんになっちゃうよー」
 意外と真実を突いているかもしれないその女の子、瑠美ちゃんの言葉に苦笑いしながら僕が適当にあしらっていると、瑠美ちゃんはほっぺをぷーっと膨らませて、おもちゃゾーンに戻っていった。

 瑠美ちゃんには申し訳ないけど、さすがにまだ足が回復しきってないので、僕はもう少し「おじいさんモード」を満喫しようと思っていると、別の方向から人影が近づく。
「祥平君、疲れちゃったかな。もう祥平君くらいの年になると、こういう場所にきてもそんなに面白くないかな?」
「い、いえ、そんなわけじゃなくて……」

 近づいてきたのは、少し心配そうな顔をした、ベージュ色のコートに身を包んだ唯さん。裾から伸びる黒いストッキングに包まれたふくらはぎのカーブに、僕は少しだけどきっとする。

「本当に大丈夫ですから」
 僕がこういっても、唯さんは何かもじもじしている。何かいいにくそうにしていたけど、やがて、何か思い切ったかのように、
 
「……あ、あのね、祥平君、そ、その……ほ、ほしい、おもちゃ、とかって、ないのかな?ええっと、やっぱり、男の子はゲームなのかな?」

「え。いや……そんなの、あまり……」

 そう言われると、僕は「事故」の前の記憶はあまりなく、「事故」の後はあれこれ慌しく、で、玩具や遊びやテレビゲームやら、そうしたものにほとんど関心無く過ごしていた。
 これは別に、「もらわれっ子」だから遠慮している、とかいうのとは違う問題だったんだけど。

 しかし、その答えに、どうも唯さんは困ってしまったような表情を浮かべている。


 僕はふと、賑やかなおもちゃ売り場の光景を眺めやる。
 ちょうどクリスマス前のシーズンのせいか、いたるところにクリスマスっぽい飾り付けがされている。BGMもクリスマスソングのアレンジが多い。


 僕は、ふと、ぴーーーん、と来てしまった。


 僕は唯さんのコートの袖口をちょいちょい、と引っ張って、耳打ちをする

「あの、あのですね、唯さん。僕、その、知ってますから。サンタさん、いないってこと」
 だから、お気遣いなく。そう僕が言うと、唯さんはあからさまに慌てふためいて、
「いや、えっと、そ、そうじゃなくて、あ、あの、えと……」

 その後、普段沈着冷静な唯さんが、珍しくすごくしょげかえったような表情を浮かべて、
「あ”〜〜私ってやっぱり駄目かも……」
 と呻いている。

 なるほど。ようやく、僕は、今日の唯さんの強引なお誘いに合点がいった。
 これは、僕と瑠美ちゃんのクリスマスのプレゼントをさりげなく調査するための寄り道だったわけだ。
 確かに、さっきから瑠美ちゃんがいろいろせがんでは、唯さんは「今日は駄目」を繰り返しているように見えたが、瑠美ちゃんが別のところに行くたびに、値札をじりじりと見ていたような気もする。
 きっと後でプレゼントを買いに来て、クリスマスイブの夜に枕元に置く、きっとそういうことなのだろう。

「あ、あの、僕、こういうの、いいですから、その、今までサンタクロースからプレゼントなんかもらったことないですし……あ、ひょっとしたら小さい頃、もらってたのかもしれないけど、覚えてませんし……」
「そ、そう……」

 僕の声に、唯さんの眼が少しだけ泳ぐ。

 うぁ。まずい。これはまた気を使わせてしまう展開だ。

「ぼ、僕、瑠美ちゃんの買い物、一緒に見てきますね!!」

 僕は、重くなった空気を振り払うように、その場をそそくさと退散した。


 僕は瑠美ちゃんのところに行ったものの、瑠美ちゃんのロング・ロング・ウィンドウショッピングは終わりがなく、僕はたちまちお付き合いに飽きてしまう。
 そうこうしているうちに、僕はおもちゃ屋さんの外にある広場に視線を動かすと、ある光景に、僕は思わず目を奪われる。


 何階もの吹き抜けを突き抜けるように聳え立つ、大きなクリスマスツリー。

 これもかなり気合が入った代物だ。


 だが、僕には――その脇に立つ、不思議な、建物、のようなもののレプリカにむしろ目が行った。

 レプリカ、と言っても巨大なもので、隣に立っている何階ものぶち抜きのクリスマスツリーに負けるとも劣らない迫力のもの。たぶん、体育館くらいの高さくらいあって、見上げるくらいのスケール。

 いくつもの不思議な形の高い高い塔が前にずらっと並んで、その周りもとんがった塔がたくさん並んでいる。その後ろ側にも同じような塔がすくっと空を向かって立ち上がっている。
 個別の塔は、不思議な感じな彫刻が至る所に彫り込まれていて、いやそれだけじゃなくて、なんだか穴ぼこだらけでもあって……なんだか、海の珊瑚みたい。そう思うと、彫りこまれている彫刻や飾りも、なんだか貝殻か海の生き物みたいに見えてきて、これがあたかも海の生き物のためのお城みたいに見えてくる。
 生き物のような、生き物で無いような、その不思議な建物――自分が今まで見てきた建物のどれにも当てはまらないものがそこにはあった。




 唯さんがようやく僕の場所に来て、

「すごいわね」

とつぶやいた。


「近くに行ってみようか?」
 唯さんは、優しい目をして微笑んだ。




 近くで見るといよいよそのデザインに圧倒される。
 僕がふと目をやると、そのレプリカの前にある解説板に、その建物の説明があった。
 遠い国にある教会で、百年以上前から作り始めて、設計した人が生きている間には出来上がらず、まだずぅっと作り続けていて、いつ完成するかもよくわからない、そんな建物。

 今、この市全体で、クリスマスに合わせてイベントをやっているとかで、これもその一環らしい。ほかにもこの町の中に、この教会を作った人のデザインした建物やベンチやらいろいろなレプリカが置いてあるとのことだ。

「祥平君も中に入ってみたら?面白そうよ」

 このレプリカの売りは、中に入ったり建物そのものに触れることにあるらしく、たくさんの小さな子供が中に入ったり、テラスに登ったりしていた。

 ちょっと興味があったけど、なんだか小さな子ばっかりで、気恥ずかしくて、

「いいですよ。ここで見てるだけで。……だけど、これってまだ作ってるんですよね」
「そうよ」
「それって、その……その、これを作ろうとした人にとって、意味があるんでしょうか」
「意味?」
「だって、これを作ろうとしてた人って、結局これが完成したのを、見ることができなかったんでしょ?」

 自分が作ろうとしたものの完成を見られないまま死ぬのって、なんだか少しむなしい気がする。

 僕が思わずそういうと、唯さんは、珍しくはっきり、
「そういうものでも、ないのよ」
 その建物の塔の、一番高いところにはめ込まれている星のようなものを見つめながら、そう告げる。

「生きている間に、何か自分がしようとしたものの完成が、見届けられるとは限らない。……ううん、たぶん、大きなこと、価値があることをしようとすればするほど、きっと死ぬまでにそこまでは届かない、完成することを見ることができないことがほとんどだと思う。……だけど、もし、自分がしたことに価値があると信じてくれる人が、自分が死んだ後にも、自分以外にいてくれれば、自分がしたことは、後に生まれてきた人が継いでいってくれるものなの」

 唯さんは、子供たちが遊ぶその建物の塔を見上げたまま、

「これを作るお手伝いをしている人たちも、自分が生きている間に、この建物が完成するかなんて、わからない。……だけど、この建物も、そうやって百年以上も作られ続けているものなの」


 僕は、唯さんの言っていることが、きちんと理解できているとは思えなかった。
 だけど、僕は、何かいけないことを言ってしまったような気がして、

「……ごめんなさい」

 僕は思わず謝ると、唯さんは、はっと我に返ったかのように、口を手で押さえて、

「あ、違うの、ごめんなさい。私、変なこと言っちゃったよね」

「……いいえ」

 僕は、まだきちんと、何もかも唯さんの言っていることに納得したわけではなかった。
 僕は、やっぱり、自分が生きてる時に、何か自分がやった結果や成果みたいのを見たいし、自分が作りはじめたものを人からとられるみたいなのもなんだかもやもやしそうだし。
 
 唯さんは、話を変えようと思ったのか、声音を少し高めに明るくして、
「そう、祥平君。もう、祥平君はわかっちゃっているから、正直に言っちゃうけど、祥平君、クリスマス、ほしいものがあったら、言ってくれないかな。祥平君、うちに来てから、何もその……おもちゃとか、欲しい、っていったこと、ないでしょ?その……変な遠慮、しなくていいからね?私が選ぶと、なんだか変なものになっちゃいそうで……、そうそう、瑠美なんてさっきから10個くらいおねだりしてて、1つにしなさい!って怒ってるくらいだから」

「はい、考えておきます」

 変に遠慮したことを言うと、また気を遣わせてしまいそうだから、僕はそんな『大人』な言い回しで引き取った。
 たぶん、何もお願いすることはないだろうな、と心の底では思いながら。
 そして、僕が何もお願いしなくても、唯さんは僕に何かプレゼントを用意して、それをクリスマスイブの夜、瑠美ちゃんのプレゼントと一緒に置いてくれるのだろう。そんな風にも思いながら。









 この僕の予想は、結局、当たらなかったんだけど、そのことは、このノートの、最後の最後のほうの部分で書くことになると思う。












■ ■ ■



 そのデパートから電車で移動して、最寄り駅からうちへの帰り道。
 唯さんと僕は一緒に並んで帰っている。瑠美ちゃんは、少し先をトタトタと歩いている。




 思えば、唯さんと二人きりになるのも、久しぶりかもしれない。




「祥平君。最近、優華とはどう?」

 唯さんの質問は、前、優華さんとギクシャクしてしまったときのことを受けてのことだろう。

「いえ、ぜんぜん、普通ですよ?」
「うん……そうならいいんだけど……」

 唯さんは、なぜか言葉を濁す。

「何か、気になること、ありますか?」
「ええと、気になること、というほどでもないんだけど……なんだか、最近、優華、ちょっと、勉強とか部活とかにがむしゃらな感じがして、ね。あんまり祥平君のことも、かまわなくなってるみたいだし……」

 確かに、優華さんから「僕へのエッチな気持ち」をなくしてからというもの、優華さんは僕に対して話しかけたりすることがあまりなくなっていた。
 前の、ギクシャクしていたとき――優華さんが僕へのエッチな気持ちを隠すために、僕とかかわることを避けていたとき――も、確かに、似たような感じだったけど、今回は、ちょっと雰囲気が違う。
 なんだろうか、意識をして避けているのと、全く意識の対象にもあがらず、無視しているときとの差、といったものだろうか。
 僕は、原因が思い当たっているから、それほど気にはしていないけど、理由がわからない唯さんからみれば、気になってしまうのだろう。

 逆に言えば、唯さんは、すごく僕のことに気をつかってくれている、ということになる。
「大丈夫ですよ。優華さんも、勉強とか部活とか大事なときですし、僕はぜんぜん寂しくないですから。それに、唯さん、ありがとうございます。僕のこと、そんなに気にかけてくれて……」

 僕の言葉に、唯さんは顔を赤らめて、
「あ、そ、そんな、感謝されるようなことじゃないのよ。家族のことを気遣うのは当たり前だもの……それより、ほんとうに、無理しないでね。もし、優華に何か私から言った方がよければ、いつでも言ってね?」
「はい、ありがとうございます、でも、大丈夫です」

 別に今回は強がっても隠してもいない。理由がわかっていれば、少し疎遠にされても、人は気にしなくても大丈夫なものだ。

「だったら、いいんだけど……」
 僕の表情と回答に、唯さんは、それでも一抹の心配を隠しきれないようではあった。

 そんなとき、唯さんの携帯電話がブルル、と震える。
 携帯を取り出した唯さんの表情が、曇る。

「ごめん、祥平くん、ちょっと私、仕事で行かなくてはいけなくなっちゃったの。瑠美を連れて、先に家に戻ってもらえるかな?」
「はい、大丈夫です」
「ありがとう、本当にごめんなさいね。寒いから、風邪ひかないように、早く帰って。気を付けてね?」

 そういうと、優華さんは、少し足をはやめて、さっき来た駅からの道を戻っていった。














 なんだろう。
 なんだか妙な気がする。
 
 僕は、唯さんの表情に妙な胸騒ぎをおぼえ、唯さんの後をこっそりつけてみる。


 唯さんは、駅の途中にある公園にまでもどってきた。
 誰もいない公園のベンチに、唯さんは座りながらも、ときどき携帯電話をチェックしていて、とても落ち着かない風に見える。

 僕は、その公園のベンチが見える、だけど、向こうからはこっちが見えないという絶好のポジション――植垣の後ろ――から見ていると、そこに、紅いコートを着た、背の高い女の人が近づいてくる。

 誰だろう?雰囲気としては、唯さんより年上な感じだけど……。

 やがて、唯さんはその女の人と、一言、二言会話を交わすと、別の場所に移動するのか、連れ立って見えなくなった。


 さすがに、これを追ってしまうと、絶対にばれてしまうだろう。
 それに、唯さんが帰る前に僕が家にいないと、おかしなことになってしまう。
 第一、瑠美ちゃんひとりにほったらかしでは、まずすぎる。
 僕は、瑠美ちゃんをピックアップして、家に引き返すことにした。








「ただいま」
「お帰りなさい」
「おかえりなさーい」

 唯さんのただいまの挨拶に、僕と瑠美ちゃんの声が輪唱になる。

 唯さんが結局帰ってきたのは、僕が家についてからさらに1時間はたったあとだった。
「ごめんね、おやつ、遅くなっちゃって……プリン買ってきたから、ちょっと待っててね?」

 そういうと、唯さんは、買ってきたプリンの箱を、テーブルに置いた。



 僕と瑠美ちゃんが、プリンのケースをあけて、二人でプラスチックのスプーンで掬っていく。
 だが、プリンに関しては目のない瑠美ちゃんが、今日は今一つピッチが遅い。

「んーー」
「どうしたの?瑠美ちゃん」
「なんだか、お母さん、元気ないの」
「そうだね……」

 たしかに、さっきの外出から帰ってきた唯さんは、どこか元気がなく、僕たちが声をかけても、気がそぞろなのか、虚ろな感じだった。そのまま、何も言わず、自分の部屋に入っていってしまった。おかげで、プリンが一つ、余ってしまっている。
 

 瑠美ちゃんは、
「あのね、あのね、るみ、てれびで、いいことおそわったの」
「な、なに?」
 瑠美ちゃんは、にー、と笑うと、

「お母さん、まっさーじ、してあげるー」
と、とたとたと走っていく。


 ま、まっさーじ?

 ああ、と僕は思い当たる。さっき外から帰ってきた後、僕と瑠美ちゃんは、南の島のバカンス特集、とかいうテレビの番組を見てたんだ。こんな寒いところにいると、あったかい南の国で泳いでいるタレントのお姉さんの様子なんかを見ていて、うらやましーなーとか、いーなー、とか、瑠美ちゃんは言ってたんだけど、そうしているうちに、タレントのお姉さんが、アロママッサージとかいうやつをいろいろしてもらっている場面があったんだ。
 
 まあ、マッサージ、というのはさておき、肩たたきとかならよくある話だろう。

 僕はプリンを食べながら、しばらくぼうっとテレビを見ていたのだけど、それから10分も経過したころだろうか、

「お兄ちゃんお兄ちゃん」

 と瑠美ちゃんがいつの間にか僕の隣にやってくる。

「どうしたの?」
「お兄ちゃんも、まっさーじ、手伝ってー」
「え?」
「あのね、瑠美、まっさーじ、してたのだけど、おてて、いたくなっちゃって、もうできないの。だから、おにーちゃん、続き、やってあげて?」
「え”」
 突拍子のない申し出にたじろぐ僕。
「だって、それは、まずいでしょ?」
「まずい?プリン、おいしくないの?」
「いや、そうじゃなくて……その、だって……」
 男の人が女の人にマッサージするって、なんだかすごくエッチじゃないか?と僕は思ったのだけど、それをうまく瑠美ちゃんに伝えるのは難しい。
 瑠美ちゃんは、ぷくー、と膨れて
「ねー、いじわるいわないで、てつだってよー」
と、僕の耳を引っ張り始める。
「わ、わかった、わかったから、だけど、あれだよ?唯さんが、嫌っていわなかったらね?」
「よかったー、大丈夫だよ、お母さん、嫌だなんて言わないよ!」
 瑠美ちゃんはにこっと微笑んだ。



「し、失礼しまーす」
 僕はおそるおそる、唯さんと瑠美ちゃんの部屋に入る。
 前に、優華さんの部屋に入るために、押し入れに入ったことがあったけど、それ以来だ。

 ドアを開けると、きれいに整った部屋のベッドに、唯さんがうつ伏せになっている。

「あ、あの、ゆ、唯さん?」
「しーーーーーーーーーーー」
 唯さんに話しかける僕に、瑠美ちゃんは口に指を立てる。
「お母さん、寝てるから、おこしちゃ、かわいそうなの」
「え”、寝てる?」
「おにーちゃん、お母さんのおかたとか、おせなかとか、あしとか、もみもみしてあげて?」
「い、いや、それは……」
 寝てなくてもどうかと思うけど、寝てるのに本人にこっそり体揉んだら、もっとやばいだろう。
「う”ー、お兄ちゃん、嘘つき。お母さんが嫌っていわなかったら、まっさーじ、してくれるって、言ったじゃない!」
 瑠美ちゃんが小さな声で怒ってくる。
「い、いや、だって……」
「じゃ。瑠美、聞いてくるよ」
 唯さんの耳元まで行って、瑠美ちゃんは、
「おかーさん、るみのかわりに、おにーちゃん、おかーさんをまっさーじしても、いいよね?」
 瑠美ちゃんの声に、唯さんは、
「んん……んふ……うん……」
 と、鼻にかかった声で答える。
「ほら。お母さん、いいって言った!!」
「……いや、それ、寝言だし……」
 しかし、こうなった瑠美ちゃんを抑えこむのは簡単ではない。
 
 そりゃ、催眠をつかってしのいでもいいけど、唯さんに催眠をかけたことがない以上、唯さんの前で瑠美ちゃんに催眠をかけるのは避けたいし、何より、こんな程度のことで催眠の力には頼りたくはない。

 しかたない。僕は腹を決めて、
「それじゃ、始めるよ」

 僕は、失礼します、とつぶやいた後、唯さんの腰の上にのっかる。唯さんは、さっきの外着――白っぽい上着に、お揃いのタイトスカート――の上にタオルをかけただけの状態だから、唯さんの腰の上にお尻を乗っけると、唯さんの柔らかな体の感触と、ふわっとしたベッドの感触があいまって、まるで魔法のじゅうたんの上にのったような気分になる。

 僕はそこから、まずは肩に両手をかけて、揉み始める。

 う、凝ってる。

 マッサージ慣れしていない僕ですらそのコリが激しいことがわかるくらいの凝りようだ。これでは瑠美ちゃんの小さな手でもんでいたらすぐに疲れてしまうだろう。
 
 僕は、腰を据えて、じっくりと体重をかけてもんでいく。
 肩、肩甲骨、そして首筋、頭の筋、背中の筋、腕……。
 
 最初のころはおそるおそる、という感じだったけど、揉んでいくうちに、あまりそういう余計なことは考えなくなってくる。

「おにーちゃん、瑠美も手伝うー」
 そういうと、瑠美ちゃんは、唯さんの脚にのっかって、太ももやふくらはぎをマッサージしていく。
 うん、こっちは瑠美ちゃんに任せよう、僕はまねできない。

 唯さんは、そんな中でも、すーすーと、静かな寝息を立てて、起きる気配がない。相当今日は疲れてしまったのだろう。


 背中のほうはだいたい揉み終わった頃、

「じゃ、お兄ちゃん、お母さんをひっくり返すから、手伝って?」
「え”」

 仰向けもやるの?と僕がいう間もなく、瑠美ちゃんは唯さんをひっくり返しにかかる。僕は唯さんが起きないよう、あわてて手伝う。

 起きてしまうかと思ったけど、ちょうど寝返りのタイミングだったのか、唯さんは、ぐるんと、仰向けになった。

 胸元が少し乱れて、胸の谷間が見えてぎょっとする。

「おにーちゃん、じゃあ、お顔のほう、マッサージして?るみ、おあしをマッサージするね?」

 瑠美ちゃんはそう作業分担を勝手に決めると、太ももの上にまたがってマッサージをし始める。

「お顔って・・・」

 僕は、ベッドの上ですやすやと寝息を立てる唯さんを改めて見る。
 
 普段、起きているところしかみたことがない、唯さんの寝顔は、すごく新鮮だ。
 
 僕は、唯さんに体重がかかりすぎないよう、腰を半ば浮かせながら、肩とか、腕とか、無難なところをマッサージしようとしていくが、やはりさっきから気になる胸元にどうしても目が行ってしまう。心なしか、自分のおち●ちんも、柔らかい唯さんのお腹に触っているせいか、あるいは視覚的な興奮のせいか、すこしずつ立ち上がってきてしまっている気がする。

 やばい、これはやばすぎる。それに、唯さんが今目を覚ましたら、僕はまるでゴーカンマみたいなスタイルで鉢合わせしてしまうことになる。

「る、瑠美ちゃん。ぼ、ぼくは、もうここまで、でいいよね?宿題、やんなきゃいけないし」
「えー……んー、でもしゅくだいなら、しかたないかなー」

 珍しく鷹揚な瑠美皇帝のお言葉。僕は、ほっとして、唯さんからそそくさと体を離す。

 やれやれ心臓に悪いこと悪いこと…。

 僕がそうやって胸をなでおろししていると、瑠美ちゃんが、ベッドの上に立ち上がる。ちょうど、ベッドから降りて床の上にたっている僕と、おなじくらいの背丈になる。

「じゃ、がんばったおにーちゃんに、ごほうびー」

 そういうと、瑠美ちゃんは、僕に対して、思いっきりマウストゥマウス、いや、キス、をした。

「んん!!!」
「んちゅ……ちゅぷ……んく……」

 瑠美ちゃんとのキスは、これは初めてじゃないけど、優華さんに怒られてから、一度もしてこなかった。
 それに、いつもは催眠状態にした瑠美ちゃんだったから、あまりに不意打ち過ぎた。

 10秒、15秒、いや20秒たっただろうか。

「ぷはーーーーーーー」
 口の中じゅうを舐めまわした瑠美ちゃんは、長い潜水をした選手のように深い息をすると、
「おかーさんにもーーー♪」

 そのまま、寝息を立てる唯さんににじり寄ると、
 
 ちゅーーーーーーーーーーー。

 と、思い切り、キスをした。

「★★★!」
「☆☆☆☆!!」
「んん……んちゅ…………」
 さすがに寝入っていた唯さんも、このアクションには気づいて目を覚ます。しかし、唯さんもあまりの突然のことで反応できず、僕は目をまんまるにしてその風景を見つめているだけ。
 ようやく、10秒、いや15秒ほどたったときか、
「ぷはーーーーーーーーーー」
 と瑠美ちゃんが、やっぱり潜水から出てきた水泳選手みたいな深い息をする。

 ようやく何が起こったか把握したのか、唯さんは瑠美ちゃんを抱えるようにして体を起こして、

「ちょ、ちょっと、瑠美!ど、どこで覚えたの!こんなこと!!」
「んーー、てれび?かな?あのね、大好きなひと同士は、こうやって、好きなことを確かめるんだって、誰かがいってた!」
「…………そ、それはその……もっと大人になってからのもので……」

 あたふたする唯さん。どう諭したよいか考え込んでるようだ。
 僕は僕で、それはアメリカンすぎるだろう、瑠美ちゃん、と心の中で突っ込みを入れていたけど、ふと、前に、「王様ゲーム」を優華さんと瑠美ちゃんとしていたときのことを思い出す。



   「じゃあ、めいれ〜い。おねえちゃんとおにいちゃん、キスして」
   「い”」
    僕は思わず濁った声をあげる。
   「な、なんで?僕と優華さんは喧嘩してないって・・・」
   「うん。だからキス。できるでしょ?けんかしてないんだから」
   「・・・・・・・・・・・いや、それはちょっと・・・・・・」
   「えー、でもテレビでね、なかよしのおとこのことおんなのこはキスするんだって、いってたよ?」
    あーあーあー。マスメディアの害毒がこんないたいけな女の子の精神まで蝕んでる。



 げ。
 あの時にも瑠美ちゃん、そんなこと言ってた。
 まずい。下手をするとあの時のことを思い出されてしまう。もちろん催眠で「なかったこと」にはしてるけど、催眠は万能ではない。何が起こるかわからない。ここで瑠美ちゃんにあることあることしゃべられては、身の破滅だ。


 僕は慌ててフォローに走る。
「るみちゃん、るみちゃん、向うに、プリン、プリンあるから。はやく食べないとぬるくなっちゃうよ!!」
 そういうと、瑠美ちゃんを抱えて、ダッシュで台所に連れていく。

 危ない危ない、このままほっとくと何を話されるかわからない。

 そうやって瑠美ちゃんにプリンを食べさせると、今度は唯さんのフォローに走る。

 部屋の中にいた唯さんは、ベッドの上で茫然としていて、最初は部屋に戻ってきた僕にも気づいてない風だった。

「あ、あの……」

 僕が声をかけると、唯さんははじめて、はっと気が付く。

「ご、ごめんなさい、祥平君。変なところ、みられちゃったね?」
「い、いえ、そんな。僕こそ、部屋に勝手にはいって。すみません。あ、あのですね、瑠美ちゃん、唯さんが疲れていたから、マッサージしたいって言って、で、疲れたから僕にも手伝ってって言って……」
「うん、それは、分かってる。私も、瑠美にマッサージされているうちに、寝ちゃったから……瑠美、ときどきマッサージしてくれるの。私、結構寝ちゃう性質で…………でも、キスされたのは、初めてで、びっくりしちゃった」

 それはそうだろう。

「あ、あの、祥平君、あのね、変なこと聞いて、気を悪くしないでね……」

 唯さんは、珍しく、僕に上目づかいで、

「祥平君、私と、キス、した?」
「し、し、してない、してない、してないです!!!!!」

 と。反射的に答えたあと、僕は、考えてみれば、間接キスは成立してるかも、と一瞬思った。けど、あくまで、唯さんの質問は「直接キス」だと思ったので、その思い付きをすぐにかき消す。

 その僕の答える様子を、唯さんは、真剣な風で見つめていたけど、やがて、ふぅっと息をして、

「そう、だよね。キス、されて、ないよね……」

 なんだか、安心したような声。

 安心されてしまい、なんだかちょっと逆に微妙な気分になってしまった僕の気配に、唯さんは気づいたのか、

「ち、違うの。祥平君。私、その、別に、貴方にキスされたくない、というわけじゃなくて、えっと、その……瑠美とはね、瑠美はまだ小さな子供だし、女同士だから、まだ冗談で済むけど……祥平君は、もう大人になりかけてる男の子だし、それに、……血がつながっているわけでもないから、……私と祥平君との間ではね、冗談でもね、けじめとして……こういうことは、しないほうがいいと思うの」

「も、もちろんです。僕もそういうつもりは、あ、ありませんから。別にキスできないからっていって。何か思うことはありません!!!」

 なんだか真面目ぶっていう話でもないけど、思わず断言してしまった。

 気まずい雰囲気がしばらく漂ったあと、唯さんは、
「あ、あの、私、お夕食の準備、しなくちゃだめだから……」
「う、うん」
「…………そ、そのぅ……わたし、着替えをしないと……」
 僕は、はっと唯さん姿を見る。まだ、唯さんは、さっき帰ってきた時と同じ、白いブラウスにタイトスカート姿のままだった。
「ご、ごめんなさい、今、出ていきます!!」
 僕は脱兎のごとく逃げ出した。





 僕は部屋に戻ってから、自分の手をマジマジと見つめた。
 まだ、その手には、唯さんの柔らかな、それでいてその奥に解きほぐせない凝りが押し固まっていた、身体の感触が残っている。

 僕は唯さんに、自分から、積極的に触れたことはない。
 だけど、唯さんは、今までも、何度も、何度も、僕を抱きしめてくれたことがある。
 そのたびに、僕は唯さんの体の暖かさ、柔らかさを通じて、唯さんの心の暖かさを、実感してきた。


 だけど、その時には、唯さんの身体の体中に、こんな張りつめた凝りが隠れているとは、思ってもいなかった。
 



 瑠美ちゃんには、唯さんと優華さんがいる。
 優華さんも、唯さんのことはすごくたよりにしている。
 そして、こんな身寄りのない僕のことも、唯さんは受け入れてくれている。


 では、唯さんは?


 唯さんのお父さんやお母さんも、ずっと前に死んでいると聞いた。
 唯さんの旦那さん、つまり、瑠美ちゃんのお父さんも、死んでしまいもうこの世にはいない。
 唯さんに、新しい恋人がいる、ということもないだろう。たぶん。



 今、唯さんが寄りかかれる、たよりにできる、抱きしめてくれる誰かはいるのだろうか?



 ……瑠美ちゃんはしょっちゅう唯さんに抱き付いているけど、あれは抱きしめる、というよりは、絡まってるかぶら下がっているような感じだしなあ……。





 僕は、さっきの、少し疲れがたまっているように見えた唯さんの姿を思い起こして、今まで考えたことがなかったそんなことを、ふと考えてしまった。





 


■ ■ ■




 もう、クリスマスの足音もだいぶ近づいてきた、ある寒い日。
 空は、古いすりガラスを6重くらいに重ねたようなもやもやとした灰色で、なんだか気分が重くなってくる。

 僕は、チェックのマフラーに首を突っ込むような形で亀のような感じで下を向きながら、病院からの帰り道――今日は薬だけもらってきたので、そんなに時間はかからなかった――を歩いていると、突然、曲がり角で、誰かにぶつかってしまう。

「あ、ご、ごめんなさい」

 よろけそうになる僕の腕を、くい、っとその人は上手につかんでくれて、僕はなんとか転ばずに済む。

「す、すみません、僕のほうこそ、下向いてて、わかりませんでした」

 僕がそういって、腕をひっぱってくれている人――女の人だ――の方を見上げる。

 と。

 僕は、その姿を見て、少し息を呑んだ。

 真っ紅なコート、そして少し上等そうな、動物のしっぽのようなふわふわな毛でできている襟回り。
 髪は真っ直ぐ、そして長く、黒い。目の上で切りそろえられていて、色白だから日本人形、っていうのかな?そういうお人形みたい。
 年齢は、……唯さんより、少し年上、だろうか?背も、唯さんより高い。
 普段あまり濃いメイクをしない唯さんを見慣れているせいで、お化粧をしている女の人の年はよくわからないけど、ただ、この人のお化粧は、とても上手な感じがする。でも、お化粧を抜きにしても、きれいな人だ。
 

「あ……君、ひょっとして、祥平君、かな?」
 そのきれいな女の人は、にっこり微笑んだ。

「私、詩乃。高坂唯の、親戚なの」
「唯さんの、親戚……?」

 そこで、僕の記憶がフラッシュバックする。


 あの、病院帰り、そしてショッピングセンター帰りの公園で、唯さんが公園で会っていた、あの紅いコートを着ていた女の人。
 あの時は、遠目だったしよくはわからなかったけど、この派手な、紅いコートは、見覚えがある。

 あの時の人だ。

 僕がびっくりして目を丸くしていると、その女の人、詩乃さんは、

「どうかな、祥平君。外で話すのもちょっと寒いから、向こうのレストランで、一緒にお茶でもどうかな?」

 詩乃さん、という女の人が指をさしたのは、奇しくも、この前、4人のチア部員を催眠に落としたファミレスだった。

 普段だったら、もちろん知らない人についていくことなんてないけど、この前、唯さんとこの人が何を話していたのかが気になって――そして、唯さんとこの人との関係も気になって――僕は、こくり、と頷いた。




 そして、ファミレスの中。お互い温かい飲み物と甘いものを頼んだあと、雑談モードになる。

 詩乃さんは、もう少し自己紹介をする。
 水城詩乃(みずき しの)。唯さんの少し遠い親戚だから、苗字は違うのだという。
 僕も、簡単に自己紹介をした。だけど、詩乃さんは唯さんから聞いているのか、僕が唯さんと血がつながっていないことも、僕が事故で引き取られたことも、よく知っているようで、僕がそのことを話しても、びっくりはしなかった。

 話が少し途切れた後、詩乃さんは、
「祥平君、すごくお行儀がいいのね」
「いえ、別にそんな……」
「ううん。キミくらいの年でそれだけできていればたいしたものだと思うけど。きっと、シツケがいいのね。さすが、唯にカワレテルだけのことはある」


 カワレテル、カワレテル……。
 妙なイントネーションで、頭の中でうまく変換できないうちに、詩乃さんが更に言葉を続ける。

「ねぇ、貴方、唯のこと、どう思う?」
「へ?」
 僕はプリンをすくいかけたスプーンをもったまま、素っ頓狂な声を上げる。
「そう。ねぇ、正直に答えてみて。唯のこと、好き?……それとも、嫌い?」
 探るように、切れ長の眼を細めて僕を見つめてくる。
 そのすごく圧迫感のある雰囲気につい呑まれて、僕は、
「す、すきとか、きらいとか……そういうのじゃなくて……唯さんは……僕のことを面倒みてくれて……お母さんがわりになってくれて……本当に優しくしてくれて……すごく、感謝しています……」

 僕はつっかえつっかえ、だけど、なるべく自分の本心に当てはまるような言葉を一生懸命捜して、なんとか答えようとする。

 その僕の答えに、その女の人、詩乃さんは、一瞬眼を大きく見開いた後、その顔が俯く。
 しばらく、テーブルを見つめていたかのようだったが、次第に、肩が震えてきているようだった。
 なんとか堪えていたが、ついに、堪えきれなくなったのか。
「…………あ、あははははははははは!!!!」
 場違いな、そして詩乃さんの外見や年からはとても想像がつかないような大きな笑い声。思わず店員さんがびっくりしてこっちを見つめる。

「ご、ごめんなさい、ち、ちがうの、貴方を笑おうと、笑おうと、思った、わけ、じゃ、なくて……で、でも、……あははは、ご、ごめんなさい、本当に……」

 しばらく息ができないんじゃないか、と思うくらい、謝罪と笑いが入り混じっていたけど、やがて落ち着いたのか、笑いすぎて出てきた涙をハンカチで拭って。

「ほ、本当にごめんなさい……気、悪くしたわよね」

「……いえ……別に……」

 僕は大嘘をついた。非常に不機嫌そうな表情だったと思う。
 でも、誰だって、このシチュエーションで、愉快な気分にはなれるはずも無い。初対面も同然の人に、自分の大事な人への思いを伝えたら、意味も無く大笑いされたんだから。
 しかし、そんな僕の表情や声音に気づいてか気づかずか、詩乃さんはぶつぶつと呟いている。

「……本当に……いや、すごいわ。本当に、唯って……馬鹿にしてたけど、私よりあの子の方が、ずっと、物事が見えてたってことかしらね……やっぱりあの若さでも、ソウシュサマをやっているだけのことは、あるってことかもしれない……」


 ソウシュサマ、というのがよくわからないし、何で笑われたのかもよくわからない。とにかく僕のモヤモヤした気分があふれ出そうになったのを、どうやらようやく感づいたのか、詩乃さんは、僕を見て、

「ん、祥平君。やっぱり、怒ってるでしょ?」
「……」
 
 もうさすがにこれ以上付き合ってあげる必要もないだろう。僕はもう黙っていると、

「ごめんね。……そうね、お詫びに、一つ、いいことを教えてあげようか?」

「…………」

 無言の僕の反応を、流石に肯定と取るほど常識外れの人ではないだろう。
 だから、この人は、分かってて、わざと、僕に言葉を投げ込んでくる。













「ねぇ、祥平君……お母さんが、死んだ理由、知りたくない?」
 

 


 


■ ■ ■







 その言葉は、僕の予想の外側にあるものだった。

「理由って……」

 理由も何も。
 僕のお母さんとお父さんは、僕と一緒に車に乗ってて、交通事故で死んだ。
 それだけだ。

「僕の両親は、交通事故で死んだんです」

 僕はそういうと、

「ええ、そうね。だから、その『理由』を、知りたくない?」

 挑むような表情の詩乃さん。


「……それって、死因ってことですか?出血多量とか、全身打撲とか」
「ああ、違う違う、そんなことは私も興味が無いの。苦手なのよね、スプラッタ」

 この人は、いちいち人の感情を逆なでするような言葉を言う。
 なんだか、それにいちいち反応してたらこっちが負けのような感じがしてきたから、もう僕はいちいち反応しないことにする。

「じゃあ、何なんですか?理由って。事故に理由なんて、あるわけないじゃないですか」

 そりゃ、細かく言えば、わき見運転とか、スリップしたとか、そういう話はあるだろうけど。

 僕がそういうと、詩乃さんはわざとらしく首を振って、

「うんうん、そういう反応が普通よね。『事故』だって、思ってたら」
「思ってたらって……」

「祥平君」

 今まで少しふざけていたような口ぶりと表情だった詩乃さんが、真面目な雰囲気になる。

「祥平君。貴方は、嘘で塗り固められた幸せと、辛いけど、真実に向かい合うのと、……どちらを選ぶ?」


 この人、卑怯だ。
 ぱっと見、滅茶苦茶美人で、だけど話し始めるとかなりいい加減で、何なんだと思ってて話半分に聞いていると、いきなり真面目になって、そうなると普段の美人さのパワーを受けて、それがすごく本気で……ぞくっとするほど綺麗に見えて…………それが普段とギャップがありすぎて、つい釣り込まれてしまう。


「そ……それは……」

 僕は、子供で、子供過ぎて。
 「嘘」よりも「本当」のほうがずっと大事なことだって、学校でもそう教わっていて、テレビでもそう言っていて。
 「嘘でも幸せ」と「辛くても真実」みたいなシチュエーションで「辛い方が大事」みたいな選択を主人公がすることで、それが、結局みんながハッピーエンドを迎えるような、昔話やアニメで育ってしまっていたから。

「………………辛くても、本当のことを知ったほうが、いいんだと思います」

 詩乃さんが、僕の言葉を測るような眼をして、僕を見つめる。
 僕は、思わずそらしかけた眼を、もう一度、詩乃さんの眼に見つめ返す。

 数秒。だけど、長く感じられる時間。
 
 先に眼を伏せたのは詩乃さんだった。

「うん、いい子だね、勇気があるね、祥平君」

 詩乃さんの声には、少しだけうらやましそうな声音が入り混じっているようにも聞こえた。
 そして、その言い回しは、ちょっとだけ、ちょっぴりだけだけど、唯さんみたいな、あるいは優華さんみたいなかんじもした。


 だけど、詩乃さんは、その後、金色のコーヒースプーンでコーヒーをかき混ぜたり、コーヒーを飲んだりで、何も話してくれない。

 痺れをを切らして、僕は、

「あ、あの」
「ん?」
「そ、その、僕のお母さん……じゃなくて、『ハハ』が死んだ理由って、何なんですか?」
「あ、ごめんなさい、私、それ、喋れないの」

 ずる。思わずずっこけそうになる僕。

「あ、ごめんなさい。いや、私、意地悪してるわけじゃないのよ、これ本当」

 これが意地悪でなくて何なんだ。
 おそらく自分の表情にはそういう文字が、極太フェルトペンでがっつり書き込まれていたに違いない。

 それを察してか、詩乃さんは、細くて長い指を、形のよいあごに寄せて、

「……うん、意地悪をしてるのはね、『魔女』なの。……私、意地悪な魔女の呪いをかけられた、可愛そうなお姫様なのよ」

 お姫様、というには、たぶんシンデレラなら意地悪なお姉さん、白雪姫なら鏡よ鏡〜と言っている側の配役が絶対お似合いだと思うんだけどな……。

「あ、祥平君、貴方、今、私のほうが魔女にお似合いだ、と思ってるでしょう?」
「お、思ってません!!!」
 僕が手を慌てて振っても、ふーん?という表情を浮かべて、微笑みを浮かべている。ニヤニヤ、というには上品過ぎて、ニコニコというには意地悪すぎる、絶妙な表情だ。

「いいのよ、いいのよ、私も当たらずとも遠からず、ってとこだしね、この年で独身の女はみんなそうよ、覚えておきなさい?祥平君。……それはさておき、流石にここでほったらかしにしてしまうのもあまりにもひどいから、ヒントをあげる」


 詩乃さんが眼を細める。表情が、すっと真面目になる。


「貴方の通ってる、お医者さん。女医さんかな?……その人が書いてる貴方のカルテ、こっそり、読んでみなさい。……面白いこと、書いてあるから」

「か、かるて?……そんなの、勝手に読めないですよ」
「うん。まあね。いや、本当は、カルテって患者のものだから別に読んでいいんだけどね。でも、私が言ってるのは、そういう普通のカルテじゃないやつ。たぶん普通に『カルテ読ませて』と言っても、たぶん読ませてくれないし、読ませてくれたとしても、きっと『だみー』を渡されるだけ、そして、貴方がそういうものに関心を持ったことを怪しまれて、『魔女』はきっと、貴方に、もっと強い『呪い』をかけてしまうわ」

「……え……あの……」

 詩乃さんの使う単語は、まるでどこかの御伽噺にでてくるようなものばかり。だけど、詩乃さんの表情は真剣で。

「だからね、こっそり、読むの。貴方の、本当の『病気』が書いてある、本当の『カルテ』をね」
「あ、あの……カルテって、普通、お医者さんか看護師さんに言わなきゃ、読めないですよね。それに、本当の『カルテ』なんて、そんなの、どこにあるかわかるわけないですよ」
「うん、だから、貴方は、貴方の担当の『お医者さん』か『看護師さん』に、『本当のカルテのありか』を教えてもらわなくちゃだめね」

 ……。

 僕が黙りこくっていると、

「あ、祥平君。今、私のことバカにしたでしょ、心の中で」
「……わかりますか?」
「うん、私、人の心読むの、得意なの」

 僕、この人、本当に苦手だ。
 僕は、むすっとした声音で、
「あの、僕がバカじゃなければ、貴方がいっていることは『ムジュン』すると思います」
「お、来たね、祥平君。そういうの好きよ?私。ゲームの台詞だったっけ?」
 まぜっかえしは無視無視。僕は続ける。
「さっき貴方は、本当のカルテを読ませて、と、僕のお医者さんに伝えても、駄目だっていいました。だけど、貴方は、本当のカルテのありかを、お医者さんに教えてもらわなくちゃいけない、って言いました。……お願いしないで、教えてもらうことなんて、できるわけないです」

 うんうん、詩乃さんは深く頷きながら、小指と小指をあわせて、拍手のミニチュアのようなしぐさをして、

「そうそう、よくできました、賢い賢い、パチパチパチ……」

 もう、どうしてやろうか、という気分がフツフツと湧き上がってくるのを何とか抑えていると、詩乃さんはそのしぐさをやめて、また手と手を組んで、そこに形のよい顎を載せて、

「……でもね、祥平君。――お願いしないで、教えてもらうことも、『やり方』によっては、できるのよ」
「そんなことできるわけ……」

 反射的に僕は反論しかけて、





          この前の、優華さんが、次から次へと、同じクラブの女の子と、そして先生を「催眠」に落としていく光景を、そして、前にこのファミレスで弥生さんたち4人を催眠に落としたときの記憶を思い起こしてしまい。





「……できるわけ、ないですよ」

 少し、震えそうになる声を押しとどめて、何とか言葉が不自然にならないように繋いだ。


 詩乃さんは、僕のほうを測るような眼をした後、


「……そうね。難しいよね。でも、不可能というわけでもない」


 そういうと、詩乃さんは、いくつか薬のビンと、薬の錠剤のパッケージを取り出し始めた。

「……え?」

 僕がおどろいたのは、そのパッケージが、僕が美樹先生からもらって、毎日欠かさず飲んでいる薬とまったく同じだったからだ。

「祥平君、この薬飲んでいるのよね?」
「ええ……はい……」
「この薬、何の薬か、知ってる?」
「は、はい、えっと……僕、事故のときに頭を強く打ったから、へんなぶり返しが来ないようにする薬とか……そういうのだと聞いてます」
「なるほど。そう説明されているのね。……祥平君、この薬を飲み忘れたりしたことって、ある?どれくらい飲まなかったことがある?」
「え……たまに……だけど、すぐ唯さんに注意されるから、すぐに次のときには、前の分もあわせて飲みます」
「あらあら、唯も神経質なこと」
 詩乃さんはあきれたような表情をして、
「祥平君、試しに、その薬、一週間くらい、飲むのやめてごらんなさいな」
「え?」
「大丈夫よ。一週間くらい、飲むのやめても、別に問題ないわ……いえ、正確に言えば、その薬を飲まなくても、あなたは平気のはずよ。そう。あなたは、ね」
「……なんで詩乃さん、お医者さんでもないのに、そんなことわかるんですか?」
「私も、君の『病気』のことには、少しばかり知識があるからね」
 そういうと、詩乃さんは、コーヒーを啜る。
「……無理ですよ、唯さん、僕の薬、毎日残りの数チェックしてますから。飲まなかったら、すぐにばれます」
「大丈夫、そのために、これがあるの」
 そういうと、詩乃さんは、さっき目の前に並べた薬のパッケージを僕の前に押し出した。
「これ、見かけはあなたのもっている薬とそっくりだけど、実は中身はただのデンプンとかビタミン剤とか、飲んでも毒にも薬にもならないようなものばっかりなの。だから、すり替えて、これを代わりに飲みさえすれば、唯に怒られることもない。いい考えでしょ?」
「…………」
 黙っている僕をみて、詩乃さんはクスクス笑う。
「祥平君、本当にわかりやすいのね」
「……じゃあ、僕が思っていること、当ててください」
「うん、そうね。『薬を飲まないことと、"本当のカルテ"のありかを"お願い"をしないでお医者さんと看護師さんから教えてもらうことと、どういう関係があるのか』、そんなとこでしょ?」
「……………………………………」
 悔しいが、そのとおりだ。
 今まで、おちゃらけていたような表情だった詩乃さんの表情が、ふとまじめになって、
「ごめんね。それは、私は『魔女の呪い』で、話せない。だから、あとは、貴方が私の言うことを信じてくれるかどうか、ってところかな。……そうね、試しに1週間、薬を入れ替えて飲んで、あなたに何の影響もなかったら、少しは私の言ってることが信じてもらえるかもしれないから、まず、そこから試してもらえないかな?ああ、そうそう。せっかくだから、このお薬と一緒に、便利な『道具』もこの薬といっしょに袋に入れておくね?いざとなったら役に立つものよ?」
「……1週間、本当の薬を飲まないで、僕が死んだら、どうしてくれるんですか?」
「そうね。お詫びに、私も死ぬわ。貴方が望む方法で」
 タイムラグも何もなく、詩乃さんは、さらっとそう言った。



 そのあと、詩乃さんは、にっこり「代わりの薬を飲んで1週間したら、この携帯番号に連絡を頂戴。『お願いしなくてもカルテを見せてもらえる方法』を、……直接は教えられないけど、ヒントは、教えてあげられるから」と笑いかけ、机の上に1万円札と携帯電話番号が書かれたメモを置いて、去って行った。
 あわてた僕が、レジで会計を支払っておつりをもらってからファミレスを飛び出したときには、姿が全く見えなくなってて……僕の手元には、僕の年で持つにはちょっと額面の高いお札が何枚も残されてしまった。




 


 何かとんでもない悪い夢を見ているかのような時間だった。

 本当のカルテだって?
 薬を飲むなって?

 初対面で、何の縁もゆかりもなくて、いきなり遠い親戚だ、だなんて言われて、そんな突拍子もないこと言われて、誰がそんなこと信じられるか。

 ただ、僕の手元には、お釣りだけでなく、僕がいつも飲んでいる薬と全く同じ形と色をした薬のパッケージが大量に残されており、それが、今の時間が、単なる夢物語でないことを示していた。











「どうしたの?祥平君。ぼぅっとして、テレビもつけないで……」
「い、いえ……」
 その日の夕ご飯の後、僕がテレビもつけないでぼんやりとしていると――今日は唯さんがお仕事で遅くなるので、優華さんがカレーライスを作ってくれた――おねむになった瑠美ちゃんを寝かしつけた優華さんが、リビングルームに戻ってきた。

 優華さんは、僕の目の前にあるテーブルの上に散乱している薬の空き袋をちらっと見ると、
「うん、薬は飲んでるよね。もし疲れているなら、早めに寝たほうがいいんじゃないかな?袋は私が片付けておくから」
「いえ、自分でします……」
 僕は目の前の薬の袋をのろのろと片付け、台所のごみ箱に捨てると、
「祥平君、お茶、淹れたから、一緒に飲もう?」
 といって、ぽんぽんと座布団を優華さんは叩く。
「う、うん……」
 お茶を淹れられてしまうと、さすがに断るわけにもいかない。だけど、優華さんがぽんぽん座布団を叩いているのは、優華さんのすぐ隣だ。
 僕はちょっとだけためらっているが、こうなると優華さんはなかなか折れないことも経験上よく知っているので、僕は優華さんの隣に座る。
 
 そうしてしばらくたった後、たわいもない会話を―たとえば、今日はお昼に何をたべたとか、部活でみちるさんがまた何かやらかした、とか――優華さんは少しして、僕はなんとなく相槌を打っていた後、少し沈黙が続いて、
「……祥平君、何か、心配なこと、あるの?」
「……いえ……」
 嘘がばればれの答え。だけど、こう答えるしかない。

「そっか」
 優華さんも、そう答えられるのはわかっていて、そしてそれが嘘だとわかっていて、そう答える。
 と、僕の隣にやってきて、
「ほら、祥平君。ここ」
 といって、自分の膝の上を指さす。
「え……」
「大丈夫。誰見てないから、恥ずかしくないよ」
「で、でも、僕重いし……」
「あー祥平君。それ、なかなかお菓子を断てない私への挑戦だね?君の体重で重かったら私は中性子星レベルだよ?」
 こうなると優華さんがなかなか折れないこともよく知っている。
 僕は、優華さんの膝の上に、おずおずと座ると、優華さんは僕をそっと後ろから抱きしめるように腕をまわす。
 途端、僕は背中と、お尻の下と、そして腕の外側に、優華さんの体温と柔らかな身体を感じ、そして、優華さんのいい香りに包み込まれる。

「……いいよ、祥平君。言いたくなかったら、言わなくても。だけど、覚えておいて。私は、いつでも祥平君の味方だから。私たちは、家族なんだから、いつでも、頼ってくれて、いいんだよ?」

 たぶん、「えっちな気持ち」を消してなかったら、優華さんはこんなことはできなかっただろう。僕の身体に触っただけで、場合によっては匂いを嗅いだだけで興奮してしまうくらいになっていたから。
 そういう意味では、優華さんと「えっち」なこと抜きで、こうやって抱きしめてもらったのは、本当にいつのころだったろうか。そんなに前の話ではなかったはずなのに、こうしてもらうのも、とても懐かしい気がした。

「ありがとうござい――ふぇ?」
 優華さんが僕のほっぺたをつまんで横に引っ張る。
「もー祥平君、そういう他人行儀はダメ、って言ってるでしょ?祥平君はすぐ遠慮しちゃうからね。……わたしに、もっと祥平君のおねえさんっぽいこと、一杯、させてよ。ね?」
 ありがとうございます、とまた、答えそうになって、僕は、その言葉をぐっと飲み込む。それをしちゃだめだって、言われたわけだから。

 だから僕は、何も言わないで、身体の力を抜いて、優華さんの身体に背中を預けて、目を閉じる。
 優華さんも、それを受けて、僕の体温を冬の冷気から守ろうかとするように、より強く、僕の身体をぎゅっと包み込んだ。

 もちろん、この部屋は十分に暖房が利いているんだけど、人に抱き締められるときの温かさは、そういったものとは全然違う。

 次第に、僕と優華さんとの間での体温が、おんなじになっていくにつれて、今日の詩乃さんの言葉のせいで、僕の心の中で沈んで固くなっていた冷たい鉛の塊のようなものが、ほぐれていき、僕の口から、僕の心の中でずっとぐるぐる巡っていて答えがでてこなかった質問が、すぅっと自然に漏れる。

「……優華さん」
「……なに?」
「…………辛くても、本当のことって、知ったほうがいいのかな?」
 僕の言葉がすごく曖昧で、そして予想外なものだったからか、優華さんの身体は一瞬こわばったような感じだったけど、すぐに僕の頭を柔らかく撫ぜながら、
「…………難しい質問ね」
 すごく、慎重に、だけどやさしく、優華さんは答える。
「…………祥平君がいう、本当のことを、知ったほうがいいのかは、わからない。……それが祥平君にとってどんなに辛いことだか、わからないから、私には、簡単に、知ったほうがいい、だなんていえない」
 優華さんは、そこで言葉を切って、
「……だけど、人は、望むと望まないとに関わらず、辛い真実に向き合わなくてはならない時って、あるの。…………けれど、どんな辛いことであっても、それは、乗り越えられるものだと思う。……時間は、かかるかもしれないけれど、ね」

 祥平君なら、大丈夫よ。それに、私も、いつだって相談にのるから、ね。
 優華さんは、そう続けた。

 僕は、もう一度目をつむって、優華さんの言葉を反芻するようにたどった後、
「優華さん、ありがとうございます」
「ん。どういたしまして」
「…………優華さん、あのね」
「ん?」
「『優華さんは僕のお人形さん』」

 僕の言葉に、さっきまで僕の背中の後ろで柔らかな気配のあった優華さんの存在感が消える。

 僕が身体を起こして優華さんを見上げると、優華さんの瞳は虚空を見据えた状態になっている。

「優華さん、ありがとう……」
 そして、ごめんなさい。と僕は心の中で続ける。


 本当のことを知るためには、優華さんの「力」を使うしかない。


「優華さん、僕はこれから……優華さんにお願いをします……」
 
 そして、暗示を続けようとしたとき、僕は、ふとひとつの疑問が浮かぶ。
 
 もし、優華さんが、「本当のこと」を知ったら……僕が優華さんを思いのままに、催眠を使って人形のようにいいなりにしていることを優華さんが知ったら、優華さんは、僕のことをどう思うだろうか?
 軽蔑するだろうか?なじるだろうか?……嫌いになってしまうだろうか?
 
 僕は、これまで、優華さんを催眠にかけてはいても、優華さんが絶対に嫌がることはしていない……つもりだ。
 そもそも、催眠は、本当にその人がいやがることはさせられないはずだし。

 だけど、

 僕は、虚ろな表情をしている優華さんを見ると、僕の下腹がずきっとうずく。
 実はさっき、優華さんに抱き締められた時も、僕の下半身は少し勃ち上がりかけてしまっていた。
 

 優華さんのいやらしい気持ちを消し去ったように、僕は、優華さんの気持ちをないがしろにしてまで優華さんにいやらしいことをしたいという気持ちを、いつまでも押さえ続けることができるだろうか?


 僕は、かぶりを振って、改めて優華さんを見つめる。
「優華さん、僕の目を見てください」
 優華さんの虚ろな瞳が僕を見つめる。
「僕は、今から優華さんにお願いをします。だけど、一つ、約束してください。優華さんは、強い人です。ですから、優華さんが、本当に、本当に本当に本当に本当に、絶対にしたくないことであれば、僕の命令も……いや、僕だけでない、誰からの命令からも拒絶してください。今みたいないいなりの人形ではない、自分のことを自分で決める、自由な人間に戻ってきてください。それは、今からする僕のお願いにも、有効です……お願いします」
「……わかりました。約束します……」
 僕は小さく頷いて、
「それでは、これから、優華さんにしてもらいたいお願いを言います……」

 僕は、言葉をつづけた。










■ ■ ■


 あくる日。僕が詩乃さんと出会ってから、10日ほど経った後。
 僕と優華さんは病院に来ていた。

「あら、祥平君。今日は病院に来る日だったっけ?どこか具合が悪くなったの?」

 驚いたような表情を見せるのは、看護士の絢音さん。
「すみません。その……実は、薬、落としてしまって、なくしてしまったのです」
「え、大変!」
「そうなんです。なので、薬をちょっと前倒してもらいたくて……」
 それを聞くと、絢音さんは、ほっとした表情になって、
「なんだ、そうなの……。よかった。実は、今日は美樹先生、いなくてね。祥平君の診察はできないの。だけど、お薬だけなら、なんとかなると思うから、少し待っててね」
「あ、あとですね、その……今日、ここに来たこと、唯さんには、秘密にしておいてもらえませんか?唯さんに薬なくしたって知られたら、怒られてしまうので……」
「もう、祥平君。困るよ、おっちょこちょいは。絢音さん、すみません、本当に」
 優華さんの言葉に、絢音さんは、クスクス笑って、
「大丈夫、秘密にしてあげるから」
 そういうと、絢音さんはトレードマークのメガネのフレームを少し上下に動かした後――これは絢音さんの癖だ――絢音さんは調剤室に向かっていった。


「はい、お薬」
 調剤室から戻ってきた絢音さんはそう言うと、僕にお薬の入った袋を手渡した。
 普通、病院は、薬をもらう場所は別にあって――これは、センモンヨーゴでイヤクブンギョーというらしいんだけど――僕の薬は特別らしく、毎回直接美樹先生か絢音さんからもらっていたから、今回もそうだった。

「祥平君、一応念のため聞くけど、お薬、いつなくして、いつから飲んでないの?」
「え、えっと……10日前から、です」
 その僕の言葉を聞いて、絢音さんの顔が青ざめる。
「え、だ、大丈夫なの?」
「え、えーと……大丈夫です。僕はぜんぜん平気です」
「あ、えと、そうじゃなくて、その……」
 絢音さんは、少しとまどったような表情を見せたけど、気を取り直した様子で、
「そ、そしたら、今すぐ、今日の分、飲んでおいたほうがいいから」
 そういうと、僕の手からひったくるように薬の袋を奪うと、二回分の薬を――これがめちゃくちゃな量なんだ――僕の前のテーブルに並べて、コップに水をさす。

 やっぱり、おかしい。
 唯さんといい、美樹先生といい、詩乃さんといい、僕の回りの誰もが、この薬のことになると、目の色が変わる。


















 僕は、覚悟を決める。
















「さぁ、祥平君、お水よ。今日の朝とお昼の分、まとめてになっちゃうけど、今からでも呑んでおいたほうがいいから」

 と僕にコップを差し出す。

「ほら、祥平君。絢音さんの言うように飲まないと……」
 心配そうな表情の優華さん。

 でも、僕は。

「絢音さん、飲む前に、ひとつ、お願いがあります」
「なに?あ、粉薬、ゼリーに混ぜたほうがいいかな?」
「違います。子供じゃないんですから……あの、ですね。僕の、病気の、『カルテ』、見せてもらえませんか?」

 その言葉に、絢音さんの表情が凍る。

「か……かるて?」
「そうです。僕の病気のこと。僕が事故にあってから受けた治療のこととか……その『薬』のことが書いてある、カルテがあるはずです。それを、全部、見せてもらいたいんです」

 数秒の間のあと、絢音さんはぎこちない表情で笑顔を作って見せて、
「だ、だめだよ、祥平君……カルテは、子供が見るようなものじゃないのよ」
「カルテは、お医者さんのものじゃなくて、患者さんのものだ、って、えらい病院の先生とかテレビの人が言ってるの、僕、聞いたことがあります。自分の病気や治療の中身のことを知るのは、患者さんのケンリだって。僕の病気のこと、僕に教えられないなんて、お医者さんの中のルール違反じゃないんですか?」
 
 正直、こういう言い方や考え方、ケンリケンリな話って――なんだかうちのクラスのヒステリックな学級委員の女の子のことを思い出しちゃったりしちゃって――僕は好きじゃないんだけど、この際、利用できるものはなんでも利用してしまおう。

「で、でもね、祥平君。それは、大人の患者さんの場合であって、祥平君の治療はね……あ、あの、その……そ、そう!!唯さん!!祥平君の保護者の唯さんの許可がないと、見せられないから、まず、唯さんに相談してから、ね?」
「しょ、祥平君。ねえ、絢音さんの言うとおりだよ。いきなりこんなこと、美樹先生も唯姉もいないところで頼んだら、絢音さん、困っちゃうよ?」
 なんとか言いくるめようとする絢音さん。そして、諭すような口調の優華さん。

 僕は、一歩ずっと踏み込んで、僕の頭2つは上にある、絢音さんの目を見つめる。
「どうしても、どんなに僕が頼んでも、駄目、ですか?」
 絢音さんは、無意識のうちにメガネのフレームを両手で押さえるようにしながら、
「だ、だめよ。私の一存じゃ、見せられないの……」
「……ということは、どこにあるかは、知っている。そういうことですよね?」
「そ、それは……」
 目が泳ぐ。

 詩乃さんの言うとおりだ。
 僕の治療、そして僕の飲んでいる薬には、何かがある。

「……わ、わかった。それじゃあ、ちょっと美樹先生に電話できいてみるから、少し待っててくれる?」
 そういうと、絢音さんは、白衣のポケットから携帯電話を取り出し、診察室の外に出ようとする。部屋の外でかけるつもりなのだろう。


 まずい。僕がこんなお願いをしたことを絢音さんが唯さんや美樹先生に伝えたら、更に警戒されてしまう。

「ま、まってください!」



 僕は思わずタックルして、廊下に出ようとしかけた絢音さんの腰をつかむようにダイブすると、「きゃあ!!」と叫び声をあげ、絢音さんはその場で転げて倒れこむ。

 かなり激しい音と悲鳴が出たので、僕はあせって、
「絢音さん、大丈夫ですか?」
 僕が絢音さんの顔を起こすと、髪の毛が乱れた絢音さんと目が合う。さっき転んだ弾みでか、絢音さんはメガネがない状態になっている。その新鮮さのせいか、絢音さんが、いつもにもましてすごく綺麗に見えて、僕が一瞬たじろいでいると、
「め、メガネ!!どこ?」
と叫んで絢音さんは、メガネを探し始める。立ち上がってきょろきょろしているが、メガネらしいものはすぐには見当たらなかったが、やがて、かなり離れた部屋の隅――10メートルは先だろうか――にそのメガネがあるのを僕は見つける。おそらく転んだ拍子に外れたメガネが滑ったのだろう。
 絢音さんも、やがてそのメガネに気づくと、慌てて小走りになって拾い上げにいく。


 ……何か、おかしい。
   なんで、あんなにメガネに必死になるんだろう?
     それに、目が悪いからメガネをかけるはずなのに、なんで、あんなに遠くにあるメガネの場所が、すぐにわかったのだろう??


 絢音さんが、あと少しでメガネに手が届く、というところになったその瞬間に、僕は回り込んでその脇からメガネを先に拾い上げる。

「しょ、祥平君!!」
「…………」
「ね、祥平君、お願い。そ、そのメガネ、返して」
「………………………………………………………………………………いいですよ」
「え、本当に?」
「ええ…………ただし、僕の目を見て、お願いしてもらえませんか?」

 さっきから、絢音さんは、僕の顔を極力見ないように、目をそらしている。
 人に何かをお願いする姿勢としては、すごく不自然だ。
 
 もちろん、僕がこう言っているのは、礼儀とかなってないとかなんとか、そういう理由ではない。


「こら!祥平君!!」

 そうこうしているうちに、優華さんが僕の手から、メガネを奪い取る。
「絢音さん、困っているじゃないの。何変な意地悪をしてるのよ!!」
 そういうと、優華さんは、絢音さんに向き直って、
「ごめんなさい、絢音さん。うちの祥平が変なことして……」
 そういうと、絢音さんに、優華さんはメガネを差し出す。




 困るよ、優華さん。



                    そんなことされたら、「アレ」をするしか、なくなっちゃう。






 僕は、低い声で。

「……………………じゃあ、しかたないです。優華さん、『絢音さんに、僕の代わりにお願いをしてください』」

 その言葉に、さっきまで言うことを聞かない僕に困ったような表情を浮かべていた優華さんから、一切の表情が抜け落ちる。

 そして、

「……絢音さん」

 優華さんの言葉に、絢音さんは思わず目を上げ、
 そして、優華さんの目を見てしまう。

 すると、優華さんは、ぱしん、と絢音さんの目の前で手を叩くと、

「はい!絢音さんは私から目が離せない、そのまま、そのまま、ずぅーとずぅーと、私の目に貴方の心は吸い込まれてしまう。そう、そのままそのまま、どんどんどんどん吸い込まれていく……………………そう、貴方の心はもう、真っ白………………………………」
 そういって、優華さんは絢音さんの頬を両手でそっと挟み込むと、虚ろな目で絢音さんを見据えて、

「…………絢音さん、私からもお願いです……祥平君のカルテを、見せてもらえませんか?」

「あ……あ…………………………………………」





 長い沈黙の後、



「……………………………………わかり、ました……………………………………」


 虚ろな目をした絢音さんは、そうつぶやいた。









 僕の「カルテ」は、ほかの人のカルテがたくさんある場所ではなく、美樹先生専属の診察室の中にあるキャビネット、しかもその中にしつらえられている金庫の中にあった。
 金庫なんて、大判小判でも入っているのだろうか、と思わんばかりのところだ。






 そして、そこから、1冊のカルテの束が出てきた。
 ここ数ヶ月のカルテのようだった。

 ただ、奇妙なことに、そのカルテには名前がなく、名前の欄には、「S」とだけ記載されていた。





 ●年●月●日

 特に変化なし。
 精神的にも安定している。
 姉役、妹役とも順調なようだ。
 薬も欠かさず飲んでおり、能力が発現している様子はない。
 薬剤は5日分出すことにする。


 ●年●月●日

 特に変化なし。
 精神的にも安定している。
 姉役、妹役とも順調なようだ。
 薬も欠かさず飲んでおり、能力が発現している様子はない。
 薬剤は5日分出すことにする。





 内容は、あまり変化がない。
 ときどき、表情があかるくなった、くらくなった、背が伸びた、落ち込んでいる、といった話が混じるくらい。
 あとは、脳の検査でとったときのスライド写真や、体のX線とか、細かい血液のデータとか。ここらへんは、僕は読み取りようがなく、ちんぷんかんぷんだ。




 だけど、変なところがある。
 まず、「姉役」「妹役」という言葉。
 これが僕のカルテだとすれば、「姉役」は優華さん、「妹役」は瑠美ちゃん、ということになる。
 そういう意味では、べつに変じゃない、ということもできるが、普通、カルテに「姉『役』」なんて言葉を書くだろうか?いや、もちろん、優華さんと瑠美ちゃんは僕とは血がつながっていない。だけど、それにしたって、カルテの中で「役」だなんて言葉はふつうつけない。なぜ、単純に「姉」「妹」ではないのだろうか?


 そしてもうひとつ、明らかに異常なのが

   薬も欠かさず飲んでおり、能力が発現している様子はない。

 というフレーズだ。

 普通、薬の効果を書くのなら「症状が発生していない」とか「発作が現れていない」とか、だろう。

 「能力が発現している様子はない」というのは、どういうことだろうか。



 もうひとつ、その金庫には、カルテとは別に、分厚いレポートのようなものがあった。

 表紙には、持ち出し厳禁とか、コピー禁止、とか、あと英語の文字とか……多分意味は日本語と同じだろうけど……が赤いインクでペタペタはんこが押してある。

 そして、大きな字で、表紙に










「高坂と水島の能力とその交配に関する一考察」












という字が書かれている。



 ほとんど、知らない、というか繋がらない単語ばかりだ。


     考察……これは確か、考え、とか、整理、とか、まとめ、とか、たぶんそういう意味だったと思う。


     交配……これは、そもそも意味が分からない言葉。はじめてみる単語だ。コーハイ、だろうか?


     水島……これは誰かの名前だろうか?


     能力……これは、単語の意味はもちろんわかるけど……。



 だけど、その中で唯一、

 「高坂」

 という単語だけが目を引く。

 高坂、は、僕の苗字。いや、正確には、僕が唯さんと優華さんと瑠美ちゃんの「家族」になったときに貰ったものだから、この3人の苗字だ。




 これは、まずい。
 僕の本能がそう告げる。

 多分、これを読んでしまったら、僕は、もうこれまでの生活には戻れない。
 本能的に、僕はそう感じる。


 だけど、もう、引き返すことなどできない。


 あまりに分厚いので、僕はパラパラと目を通す。全体として、ほとんどが英語なのか、アルファベットの活字羅列で、僕にはほとんど読めない。あとたくさんデータやらグラフもあるけど、まったくちんぷんかんぷんだ。


 だけど、途中から、日本語になっている。ここは手書きだ。おそらく、まずは手書きで書いておいて、その後外国語に差し替えるというスタイルをとっているのだろう。

 残念ながら手書き文字は達筆とはいいがたく、かなり読みにくいが、僕はなんとか読めそうなところの、その最後の部分を読んでみる。






 ひとまずの整理

 Sの父の水島の能力を考えると、Sに水島の能力が発現した場合、高坂一族に与える影響は甚大なものがあり、相当危険がある。
 しかし、一般に水島の能力は第二次性徴の後すみやかに発現するが、Sの場合は性徴後も発現している様子が見られない。これが、現在投与している薬剤の効果か、あるいは薬剤の有無を問わずそもそも能力を承継していないかについては、現在のところ確たる証拠がなく、判然としない。
 なお、仮に能力を承継している場合、現在投与している薬剤が切れた後、数日は問題ないが、その後薬効が薄まった際には、能力が発現する可能性がある。ただし、現在の薬により化学的に能力が除去されるに至れば、発現は未来永劫しないことになる。
 どちらにしても、薬を欠かさないことが肝要である。また、より効果的な薬を開発することが必要である。


 一方、Sの母親の高坂の能力がSに遺伝している可能性も否定できないが、高坂の能力は女系遺伝であること、そして、Sに今のところその徴候も見られないことから見ても、その可能性は相当低い。仮にその可能性があったとしても、現在の薬剤投与により、その効果は発現しないと考えられる。
 もっとも、仮に母親の能力が完全な形で発現した場合、宗主の下命に対する絶対的従属性についても同時に発現すると考えられることから、かえってそのほうが安全との見方もある。
 しかしながら、長い歴史の中で高坂一族から男児が生まれたケースはなく、男児に遺伝しないということを確証することも、また困難である。

 まとめると、現在、Sに水島の能力、高坂の能力が両方引き継がれているか、片方だけか、あるいは全く引き継がれていないかは、一切の証拠がない。


 いずれにせよ、高坂の血と水島の血の両者を継ぐ男子が生まれるのは、双方の一族の存在と能力が発見されたこの数百年の歴史の中でも初めてのことであり、一切のサンプルがないこと、また、水島の血を継ぐものがSの父親の死によりSしかいないことを考えれば、みだりに彼を措置することは好ましいことではなく、現在の薬が効果を発揮している間は、Sを生かしつつ、さまざまなデータや薬剤の効果を試すことが、高坂および水島の能力の解明、そして今後の高坂の一族の繁栄にも重要と考えられる。















 なお、仮に、Sに水島の能力が発現した場合、Sの父と同様に、速やかな措置を執ることが必要となる。
 また、Sへの措置が遅れ、水島の能力が発現したSに犯された高坂の者についても、高坂の規律に即して、Sの母と同様に措置をする必要がある。
















 難しい漢字が多く、漢字がわかってもそもそもの言葉がなんだかわからないものが多く、さらに前提としていることがなんだか分からないことが多すぎる。その上文章もこんがらがっていて、なかなかすんなり頭には入らない。それに、至る所にある「措置」という言葉も、すごく曖昧だ。

 だけど、事実と組み合わせていけば、おのずからある程度の推測はつく。
 









「絢音さん」
「……はい」
「絢音さんは、このカルテとレポートを、読んだことがありますか?」
「カルテは、あります。レポートはありません」
「レポートも、同じ場所にありますよね?読もうと思ったこと、なかったんですか?」
「これは読むな、といわれました」


 奇妙な言葉だが、きっと本当だろう。優華さんの催眠に堕ちている絢音さんが、嘘をつけるとは思えない。



 このレポートを書いた人に、聞くしかないか。






 僕はこの字は見覚えがあった。
 その性格に似つかわしいこんな自由奔放な字体をかけるのは、僕の知る限り、美樹先生しかいなかった。



■ ■ ■




 あくる日。やっぱり病院にて。今日も優華さんと一緒に来ている。


「あら、祥平君、元気してたかな〜〜今日はひとり?大丈夫?途中で変な人に襲われなかった?」
 そういうと、僕に頬をすりすりと摺り寄せてくるのが美樹先生。
 今、襲われてます、という言葉を僕はぐっと飲み込んで、
「や、やめてくださいよ、美樹先生、みんな見てますよ……」
「えー、みんなって、絢音ちゃんと優華ちゃんしかいないじゃない。二人は私と祥平君がラブラブなこと、よく知ってるから、問題ないでしょ?」
「うー、そういう問題じゃ……」
「そういう問題、そういう問題。さて、今日はどうかな。お薬飲んでる?」
「大丈夫ですよ……」

 たわいもないやりとりと問診が続く。


 そして、そのやりとりも終わりに近づく。

「よし、今日はこんなところかな?お薬、まただしとくからね。ほかに何か聞きたいことはあるかな?」
「美樹先生、ちょっと聞きたいことがあるんですけど……」
「お、ほいきた。なになに、私の彼氏のこと?それとも3サイズ?それとも恋愛相談???」
 僕は、からからになりそうな喉をつばで湿らせながら、



































「――――僕のお母さんは、何で殺されたんですか?」























 口に出した後、正直、僕は「しまった」と思った。

 いろいろ聞きたいことはあった。そして、それをいろいろ頭の中で順番を組んで、シミュレーションもしていた。

 だけど、いざとなると、頭が混乱してきてしまい、一番、とんでもない、ややっこしい質問が口から飛び出してしまった。


 一瞬、凍りついた美樹さんだったが、すぐに、優しい表情になって、

「祥平君。……どうしたの、いきなり」

 美樹先生は少し間を置くと、

「祥平君のお母さんは、……覚えてないと思うけど、祥平君と、祥平君のお父さん、お母さんと一緒に車に乗ってて、交通事故で亡くなったの。……単独事故だったから、誰も、お母さんを殺したり、してないわ」
「そうよ、祥平君、何言ってるの。へんなこと、いわないでよ?ちょっと今日、おかしいよ?」
 とまどう優華さん。

 今なら、「そうですよね。僕、寝ぼけてました」とかなんとかいって、スルーできるかもしれない。だけど、僕は、そうしなかった。


「……この薬、僕の『能力』を、封じ込めるための、ものなんですよね」


 美樹先生は、返事をしない。


「僕、この薬、ここ2週間くらい、飲んでないです」


 美樹先生は、やっぱり返事をしない。


「美樹先生。僕、僕のお父さんみたいに、殺されるんでしょうか?」


 美樹先生は、ようやく、ふぅ、とため息をつくと、

「祥平君、どうしたの?らしくない。最近読んだ漫画か小説か何かとごっちゃごちゃになってるのかな?うーん……あんまりそういう症状は今まで出てなかったんだけど……しかたないかな。絢音ちゃん、トランキライザー、用意してもらえる?」
「え……でも……」
 一瞬反論しようとする絢音さんに、美樹先生は鋭く視線を飛ばすと、絢音さんは小さくうなずき、調剤室に移動する。

「美樹先生、僕、混乱も何もしてません」
「うんうん、そうだよね。大丈夫、一瞬ちくっとするだけだからね……」

 そういうと、美樹先生は、絢音さんが持ってきた小さなシャープペンシルのようなものを手にして、僕の腕をぐいっとつかもうとする。

 僕は、あわてて立ち上がり、部屋から飛び出そうとすると、
「絢音!彼を捕まえて」
「はい!」
 絢音さんは、逃げ出そうとする僕の手をつかみ、そのままぐいっと後ろ手にして床に押し倒す。絢音さんは昔合気道をやってた、ということもあり、ガチガチにロックされた僕は、もう動けない。
「はーい、おとなしくしててね。このお注射は、針が短いから大丈夫だけど、いきなり動くと針が皮膚に残っちゃうからね?手術をまたするのは、いやでしょ?」
 近づく注射器の気配。アルコールが塗られる腕の感触。
「優華さん!」
「え?」
 僕は、ただ一人この場の流れが読み切れていない優華さんを床から見上げながら叫ぶ。
「『優華さんは僕のお人形さん!!!』」
 僕の声に優華さんの瞳が光を失う。
「優華さん!美樹先生に催眠をかけて止めさせて!!僕を助けて!!!」
 僕の声が「刺さった」優華さんの反応は速かった。僕の腕をまくろうとしかけていた美樹先生の襟ぐりを掴んで、僕から美樹先生の身体を引きはがすと、美樹先生の瞳をぐっと見つめ、
「……美樹先生、……私の目を見てもらえませんか?」
「……え……?」
「そう……私の目を見て、美樹先生。私の目を見ていると、美樹先生の心はふわー、となってきてしまいます。そう、どんどん、どんどん、頭が真っ白になって、美樹先生の心は私の目の中に吸い込まれてしまいます……」
「……あ…………」
 絢音さんにロックをかけられたままの僕は二人の様子はきちんとは見えないが、遠目には、襟ぐりを優華さんにつかまれて、至近距離で見つめられている美樹先生が、茫然としているように見える。
「……美樹先生、……私の祥平を、いじめないでくれませんか?」
「……………あ……あなた……まさか……」
 美樹先生はそう呟いた後、
「…………………………ごめん、優華。痛いの、一瞬だから」
 と独り言のようにつづけた後、

 どす。

 という音とともに、美樹先生の手が優華さんの首筋に押し当てられ、その途端、優華さんが、その場に崩れ落ちる。
「ゆ、優華さん!!」
 な、なんで?なんで優華さんの『催眠』が利かない?混乱し、慌てふためく僕に、静かな声で、美樹先生は、
「……大丈夫。『こっち』はふつうの麻酔薬だから、少ししたら目が覚めるから」
 そういうと、美樹先生は、もう一つの注射器を白衣の裏ポケットから取り出し、
「……さて、祥平君。今ので、祥平君にはたくさん聞かなくちゃいけないことができちゃったね?仕方ないから、こっちの『素直でいい子になる』お注射をすることになっちゃう。さっきのお姉ちゃんにした注射より、針が大きくて長い時間注射しなくちゃいけないけど、我慢してね?」

 そういって、美樹先生は、絢音さんの固められたままの僕の腕の袖を改めてまくり、まさに僕の肌に針が突き刺さろうとしたその瞬間。

 ドアがバタンと開く音、そしてその直後、部屋中が青白く発光する。

「あ”……ぅ……」


 美樹先生が呻くと、そのまま床に崩れ落ちる。

 崩れ落ちた美樹先生の後ろには、制服姿のミサキさんが立っていた。
 手には、髭剃りのばけもののようなものがある。
 これは、詩乃さんからもらった袋の中に入っていた「いいもの」。高圧電流で人をしびれさせる、スタンガンだ。

「ちょ、ちょっと貴女いったい……」
「『絢音さんは、僕のお人形さん』」
 僕がそういうと、僕を押さえつけていた絢音さんの力が抜ける。
「……絢音さん、この体勢、苦しいし、床も冷たいんだ。看護師さんが患者さんにこんなことしちゃだめだよね?身体、起こしてくれない?」
「はい、わかりました……」
 絢音さんは、さっきの態度と打って変わって、従順に僕の命令にしたがって、僕の身体を引き起こす。

 僕は身体の埃をパタパタと払うと、

「ありがとう、ミサキさん」

「うん、お兄ちゃんの命令だもん♪」

 虚ろな目をしたミサキさんはそういうと、スタンガンを両手でもちながら、蕩けるような微笑を僕に向けた。





















「ここは……」
「目が覚めましたか?美樹先生」


「ここは病院です。すみません、動けないように、体は縛らせてもらってます」

 病院の診察室のベッドに、まるではりつけになるように両手両脚、そして腰を縛られた美樹先生がいる。

 そして、それを取り囲むように、僕、絢音さん、ミサキさんが囲んでいる。そして優華さんもいる。

「美樹先生は、優華さんの催眠術が効かないんですね。びっくりしました」
「さいみん……………………ああ、そういうこと」

 美樹先生は、小さく、あざけるように笑う。

「なるほど、もう、『能力』が発現してしまっている、ということね。うかつだったわ。気がつかなかった……。失敗した、ということか」

 美樹先生は一人ぶつぶつとつぶやく。

「僕、僕のカルテと、僕のことを書いてある、レポートを読みました。S、でしたっけ。あれ、僕のこと、ショーヘーの頭文字、ですよね?」
「……なるほど、絢音を手篭めにして、あのレポートを読んだのね。そして、優華をつかって、そっちの女の子も操ってるわけ。……さすがは立派ね。あの男の息子ってことか。血は争えないものね。それにしても、こんな病室、よく貸切にできたわね」
「この病院の当直の人、みんな、優華さんが催眠をかけてますから」
「……大げさなこと」
 美樹先生はため息を小さくつくと、
「さて、こんなことをして、私をどうしたいの?」
「このレポートに書いていることを、教えてください。これを書いたの、美樹先生ですよね?」
 僕がばさばさとレポートの束を振ってみせる。
 美樹先生は僕をにらむと、
「一応、言っておくわ。私は、優華の、『催眠』、だっけ?それは、私には通じないのよ。私は、貴方に、何も教えないから」
「そうみたいですね。だけど、美樹先生は絢音さんと、いろいろな研究をしてたみたいですね。僕、絢音さんに、いろいろ教えてもらいました。たとえば……………………人を操るための薬とか」
「……」
「絢音さん、美樹先生を、素直にしてもらえませんか?」
「…………わかりました」
 絢音さんは、僕の言葉に素直に頷き、注射器を取り出す。
「ちょっと、絢音、やめてよ、それ、それはまずいから。祥平君も、お願い、やめさせて!!」
「美樹先生、それはおかしいですよ。だって、絢音さんが持ってるお注射は、さっき僕が美樹先生に打たれそうになった注射と同じ、『素直でいい子になる』だけの注射ですよ?自分が人に打とうとして、人に打たれるのはいやなんて、そんなの勝手ですよね?」
 僕がそういっている間にも、絢音さんは美樹先生の腕に注射をさし、美樹先生は、体をこわばらせる。


 やがて、注射から数分もしないうちに、その効果は現れてきた。
 視線が定まらず、額からは汗が噴き出している。顔色も蒼白になってきた。

 絢音さんによれば、この薬は、一種の自白剤で、注射された人は、言われた命令に素直に反応してしまうようになるらしい。同時に、すごく暗示にかかりやすくなるとか。
 昔、こういった薬を使って、大きな国同士でスパイに尋問をしたとかなんとか、そういう話だ。ちょっとお伽噺じみててそこは流石に話半分くらいにしか信じられないけど。
 
 もう、美樹先生の瞳孔は完全に開き切り、表情はうつろになっている。普段は意思の光に満ちたその瞳が、今や虚空をさまよい何も映し出していない。

「美樹先生、僕の声が聞こえますか?」
「…………はい…………」
「はい、美樹先生は、僕の声を聞くと、すごくすごく気持ちよくなります。僕の声は、美樹先生の頭の中にすぅっと入っていって、美樹さん先生の心の一番深いところにすとーんと染み込んでしまいます。美樹先生は、僕の言葉に素直に答えてしまう、僕の言葉には逆らえません。何も考えることなく、そのまま素直に答えてしまいます。いいですね?」
「…………はい…………」
 美樹先生は、光を失った瞳のまま、素直に僕の言葉に答えていく。
「それでは、僕の質問に答えて下さい。美樹先生、貴女の名前は?」
「……美樹です」
「年齢は?」
「……27」
「好きな食べ物は?」
「かに玉……」
「嫌いな食べ物は?」
「ブロッコリー……」
 意外に変わった好みに、思わず笑ってしまう。僕は顔を引き締めて、薬の効き目を確かめるのを兼ねて、次第に踏み込んだ質問にシフトしていく。
「今、つきあっている人はいますか?」
「……いません……」
「前につきあったのはいつですか?」
「……男の人と、お付き合いしたことは、ありません……」
 意外な言葉が返ってくる。
「…………えっと、その……それじゃ、美樹先生、その、キスとか……セックスとか、したことは?」
「…………ありません……」
 言動の節々に、あらゆる面で百戦錬磨の達人、という風格がにじみ出ている美樹先生の、意外な答え。
 そろそろいいだろう。僕は、本格的な質問に入っていく。
「……美樹先生、このレポートに見覚えはありますか?」
 僕は、例のレポートを美樹先生の目の前につきつけながら質問する。
「……はい……」
 虚ろな表情、虚ろな声のまま、肯定する美樹先生。
「これを書いたのは、美樹先生ですよね?」
「……はい……」
 僕は生唾を飲み込んで、覚悟を決めて続ける。
「…………美樹先生、この、レポートの、Sというのは、……高坂、祥平の、ことですよね?」
 あたかも、なるべく他人のようないい振りで質問をする僕。
 少しだけ、ほんの少しだけ、これが僕でなければ、という思いをこめて、だけど、僕だったときに、あまりショックを受けないように。
 そんな逃げを打ちながらの僕の問いかけに、だけど、美樹先生は、当たり前だけど、何の遠慮もなく、本当に素直に、
「……そうです……」
 と答えた。

 僕はいちのまにか握り締めている手に、汗をにじませながら、

「教えてください……高坂の、能力って、何ですか?」

 美樹先生の僕の質問に対する答えは、











「……………………高坂の能力は…………人を、支配する力………………………………」













 それから、僕は、あたかもコンピューターのオペレーターのように、淡々と、美樹先生に質問を投げかけて、そして美樹先生は、あたかもコンピュータのように、淡々と、その答えを返していった。


 そこでわかったことは。

 「高坂」の一族は、人を支配する力があること。
 それは、人を見つめたり、力のこもった声を投げかけたり、あるいは体液をほかの人に浸透させることで、人を支配できる能力。その能力を免れることができる人はいないこと

 ただ、唯一の例外があり、「水島」の一族は、「高坂」の能力から免れることができること。それどころか、「水島」の一族は、「高坂」の一族を、逆に支配する能力があること。ただし、「水島」の能力は、普通の人には一切影響を及ぼさないこと。

 昔から「高坂」の能力は疎まれ、存在が発覚すれば殺されるか、あるいは「水島」の能力によって支配されるかしてしまうため、その能力は一族のものだけに秘密にされていたこと。
 かつては、様々な権力闘争の駒にされていた二つの一族は、いつしかその存在を互いにごく一部のものだけの口伝として伝えているうちに、その秘密を知っていたものが消されたり、あるいは伝承が途絶えることで、史実としてはほとんど残っておらず、ただ、時として、様々な民間伝承やフィクションの題材としてのみ残されているということ。
 それとともに、「水島」の能力の存在を知る者もいなくなり、その一族のみが伝える状態になっていたこと。

 高坂の能力は女系遺伝であり、高坂の一族からは女性しか生まれないこと。
 逆に水島の能力は男系遺伝であり、水島の能力を継ぐのは、水島の男系だけであることがわかっていること。



 かなり難しい話で、ようやくそこまで整理するまでにも相当の時間がかかってしまっていたが、僕はようやくそこまでなんとか整理したうえで、いよいよ核心的な質問に入っていく

「……確認させてください。僕のお父さんは、『水島』の一族の者で、僕のお母さんは、『高坂』の一族の者、ということでいいんですよね」
「……はい……」
「水島の一族、というのは、僕、しか、もう、いない、ということでいいんですか?」
「…………確認されている限り、そう、です……」
「…………その……高坂、唯さん、優華さん、瑠美ちゃんは……高坂の一族、なんですか?」
「…………はい……」
「美樹先生も、高坂の一族なんですか?」
「……そうです……」
「僕が、飲んでる……飲まされている薬は、その……高坂の一族を支配する、水島の能力を、抑えるための、もの、なんですか?」
「……そうです……」




  僕は機械じかけになったかのように、パズルのピースを埋めるかのように、質問をしていく。

    だけど、一番、聞かなくてはいけない、大きなピースだけ、わざと埋めずに質問をしている。


       そのことは、自分が一番よくわかっている。


              この質問から逃げられないことに。

               だけど、この質問をしてしまえば、
                 そして、その答えを聞いてしまえば、
                   何もかも、元には戻らなくなってしまうだろうことにも。



                         だけど、僕はもう、逃げることができない。





                        おかしいなあ。
                               僕は、美樹先生を操って、
                                  絢音さんを操って、
                                  優華さんを操って、
                                  弥生さんもみちるさんも操って、ヒトミさんもミサキさんも操って、
                                  誰も彼も操って、操る側であって操られる側ではなかったはずなのに。







                                   いつの間にか、僕はもう、この一本道から、抜け出せなくなってしまっている。












                 最後のピースを埋める質問を、僕は、美樹先生に投げかける。



「美樹先生、その……知ってたら、教えてください。だけど、知らなかったら、教えてくれなくていいです。あ、あと、その……推測とか、『多分』とか『だろう』とか、そういう注意書きがつくような話だったら、『分かりません』とか『知りません』とか、そう答えてくれて、いいです。本当に、確実に、間違いがない、というときだけ……答えを、教えてください。

 ……僕の、お父さんと、お母さんを、殺したのは、誰なんですか?」


 一瞬の静寂。だけど、美樹先生は、これまでとさしてかわらず、淀みなく、答えを紡ぐ。





































「………………祥平君の、お父さんと、お母さんを殺したのは……………唯。高坂、唯です」



















■ ■ ■








 ベッドで寝ていた美樹先生が目をしばたたかせて目を開いたのは、すでに僕が質問を終えて、1時間は過ぎたころだった。ようやく「自白剤」の効果が切れたのだろう。美樹先生の瞳の色は、普段の美樹先生と同じくしっかりしたものだった。

「……こ、ここは……」

 美樹先生は、しばらく目をぱちぱちとさせていたが、やがて、この2時間の記憶が戻ったのだろう。
 身体を動かそうとしていたが、ベッドに縛り付けられていることにすぐに気が付く。

「お目覚めですか、美樹先生。あ、ここは美樹先生のおうちの美樹先生の部屋です。さすがにいつまでも病院を貸切、というわけにはいかないですからね。ここには、絢音さんの車で運んできてもらいました」

 僕の言葉に、美樹先生は僕を見つめる。

「祥平君……」

 美樹先生は、僕にかける言葉を考えあぐねているようだった。あの「自白剤」は、記憶を消す効果はないから、美樹先生は、自分が何をしゃべってしまったのか、すべて思い出してしまったのだろう。顔面が蒼白となっていたが、やがて、

「祥平君……あの、あのね?もう……私が何を言っても、何を伝えようとしても、貴方には届かないかもしれないけど……ひとつだけ、覚えておいてほしいの。唯は、唯はね、貴方のこと、本当に、大事な、大事な、家族だと思ってる。それだけは……それだけは、信じてほしいの」

「……信じる?」


 黙っていたから、なんとか押しとどめられていた僕の心の中の堤防みたいなものが、美樹先生の言葉が川面を撫でただけで、一気にあふれ出していくような、そんな感じだった。

「……この期に及んで、何を信じろっていうんですか?両親殺されて、それを黙ったまま引き取られて、妙な薬を嘘つかれて飲まされて……この薬だって、要するに、僕を都合のよい人形にしておくための薬ですよね?自分たちを支配する力を持つのが僕だけだから、僕を手元においておけば安全……要するに、そういうこと、なんでしょ?全部、自分の、自分たちのためじゃないですか??何が家族ですか???お父さんとお母さん殺した人に、家族になんてなってほしいわけ、あるわけないじゃないですか!!!!」


 僕の言葉に、美樹先生はもともと色白の顔を更に蒼白にさせながらも、黙って聞いている。


「なら……なら……これから、どうするの?祥平君……」

 かすれ声で、美樹先生は僕に問いかける。



「…………………………うん、だいたい理屈がわかってきました」


 これまで、いろいろな人がいろいろな人にいろいろな方法で操りを試みてたから、話がかなりこんがらがっていたけど、だいたいこれで、これまでに起きたおかしなことに、理屈がついた。

 まず、優華さん。優華さんは、高坂の一族の者だから、人を支配する能力を持つ。これまで、「催眠術師になった」と思い込んだ優華さんは、たちまちあらゆる人……弥生さん、ヒトミさん、みちるさん、などなど、を操っていたが、これは何のことはない、催眠ではなく、「能力」によるものだったわけだ。
 だとすれば、魔法のように、ラポールが成立しない人まで操っていたことにも合点がいく。
 思えば、優華さんは、これまで、人に視線を合わせることで操っていたけど、これは優華さんの能力が、視線による支配能力だった、ということなのだろう。

 そして、絢音さん。絢音さんは、普通の人間だから、高坂の能力が効果を発揮する。だから、優華さんの「催眠」……いや、これは要するに、もう催眠ではなく、それとは異次元の能力なんだけど……この能力で、絢音さんは支配された。

 だけど、絢音さんがつけている「メガネ」は、高坂の目による支配を抵抗できる能力があるらしい。そのことは、すでに催眠状態の絢音さん、そして薬で支配状態にあった美樹先生からすでに聞きとっている。ちなみに、あのメガネを作ったのは、美樹先生だ。
 僕のお母さんは、視線によって人を支配する力があったようだ。だから、その能力が僕に遺伝して発現することを恐れたので、ただの人間である絢音さんに、美樹先生はこれをかけさせていたんだ。だからこそ、メガネが外れることを絢音さんは恐れ、そして、メガネが外れた後も、真っ先にそれを探しにいったんだ。

 そして、美樹先生。美樹先生は、優華さんの「催眠」が効かなかった。それは、高坂の一族同士では、きちんと防御をしておけば、基本的には互いの能力を防ぐことができるからだ。だけど、この「自白剤」だったり、あるいはスタンガンであれば、別に人間には誰しも効くものだから、当然美樹先生にも効く。


 理屈さえわかってしまえば、何のことはない。グーはチョキに、チョキはパーに、パーはグーに勝つじゃんけんみたいなものだ。


 残念ながら、すでに自白剤の効力はなくなり、美樹先生に対して暗示は効かない状態にある。絢音さんによれば、この薬は一度使うと耐性ができてしまうため、次に同じ状態にするためには薬剤の量を数倍にせざるをえず、だけど、そんなに使ってしまうと副作用で廃人になってしまうリスクがあるらしい。

 薬もだめ。優華さんの「能力」も同じ一族の美樹先生には通じない。

 となれば。

 僕は絢音さんに目配せすると、絢音さんは注射器をもって、美樹先生の腕にアルコールを含ませた脱脂綿を塗る。

「え……ちょっと……それ……」
「大丈夫ですよ、美樹先生。これは自白剤じゃありません、もっと、すごく気持ちよくなれるものです」

 そういうと、絢音さんは、美樹先生の白い二の腕に、注射針を差し込んで、透明な液を全て注入する。

「……っ」

 美樹先生は顔をしかめていたが、やがてすぐに、その額に玉のような汗を浮かべ始める。頬は上気して、吐息が熱を帯び始め、瞳は潤んでいる。

「あ、あなた、これ……」
「はい、これは、媚薬、っていうやつみたいですね。今、先生の体はすごくすごく敏感になってます。だから……」

 そういって僕が美樹先生の頬を手の甲で撫ぜると、美樹先生の体はそれだけで、びくん、と跳ねるように反応する。

「な、なんで、こんなもの……」
「なんで?わかりませんか?僕、今から、美樹先生を『支配』します。水島の能力で、ね?」
「な……」
「僕、薬、ここ10日くらい、飲んでないんです。だから、多分、水島の能力が、戻ってるんじゃないかと思うんです。それを、先生の体で、確かめさせてもらいます。だけど、先生、セックス、初めてなんですよね?痛いとかわいそうだから、なるべく気持ちよくなれるように、先生にはお薬を注射させてもらいました。感謝してくださいね?」
 僕は、あえて先生の神経を逆撫でするような口調で、かつ、そういいながらも先生の体をその服の上からさわさわと撫で回す。

 やがて、僕は、乱雑に、美樹先生のタイトスカートをずり上げるようにして、そのかもしかのような細くて長い脚を開脚させる。黒いストッキングの奥に透けて見える白いショーツの光沢がなまめかしい。
「や、やめなさい、祥平君、き、君は、君はこんなこと、できる子じゃないわ!それに、まだこんなの、君みたいな子には早すぎる!!」
「お気遣いなく、美樹先生。僕、美樹先生と違って、もうとっくに『経験』してますから。ミサキさん、絢音さん。美樹先生の脚、押さえておいてもらえませんか」
「はい……」「承知しました……」
 僕の命令に、虚ろな目をした二人が、暴れまわろうとする美樹先生の脚をがっちりと抑えこむ。普段だったら美樹先生の脚力のほうが上回りかねないけど、優華さんの「能力」に支配された二人は、まるで万力のよういがっちりと脚を固めて、美樹先生はもうそれ以上動くことができない。

 僕はストッキングを破ると、美樹先生のショーツの上から、指で美樹先生の敏感なところを摺っていく。
「んあ!!!ああああ……」
 途端、さっきまで威勢のいいことを言っていた美樹先生の声が、艶やかなものとなる。
「かわいいですね、だけどすごくいやらしいですよ、美樹先生。わかりますか?美樹先生の大事なところ、すごくひくひくしてます。まるで潮干狩りで取ってきたばかりのアサリかハマグリみたいですよ?いやらしい液もどんどん染み出してきて、うわぁ……もうぐしょぐしょですよ?」
 僕が指でぐりぐりと襞をさわるだけで、美樹先生の肉の溝からは、ねばねばした液が染み出してくる。
「あんまり指でいじってると、大事な膜が破けちゃうかもしれませんよね。初めてはやっぱり本物がいいでしょ?先生?」

 美樹先生は僕の言葉に、顔を背けて、ぐっと歯を食いしばって目を閉じている。だけど、その頬の赤さは、さっきの薬を注ぎ込まれた以上に赤くなっていて、まるで熟れた桃のようになっている。

 僕は、ズボンを脱ぐ。美樹先生のショーツを横にずらし、すでにガチガチに固くなっていてさきっぽから少し湿った汁が滲んでいるアレを、美樹先生の肉の割れ目に思いっきり体重をかけて差し込む。何か抵抗があった感じだったけど、その体重に負けて、すぐに僕の肉のかたまりは、美樹先生の奥の奥まで刺さる。

「んんんっ……んあぁ……」
 一瞬、顔をしかめた美樹先生だったけど、すぐにその表情は蕩けて、鼻にかかった甘い声が漏れる。

 僕がゆっくりと腰を前後させていくと、美樹先生の腰や体がびく、びく、っと反応する。
「美樹先生、気持ちいいでしょ?」
「そ、そんなこと……ない……」
 そうは言いつつも、美樹先生からは、うわずったような、甘えるような声が、こらえきれずにその口から漏れてくる。

「いいですよ、美樹先生、もっともっと抵抗しても。だけどね。美樹先生は、僕に射精されると、水島の力に支配される。水島の力に支配されるのは、高坂の運命。絶対に逃れられない。そのことを美樹先生はすごくすごくよく知ってる。だからこそ、僕に射精されて、その精液を子宮に受け止めた瞬間、美樹先生の価値観は全てひっくりかえってしまう。美樹先生は、僕に支配されることが何よりもうれしくて、僕の命令には何の疑いもなく従ってしまう、そうしたイキモノに成り下がってしまうよ?さぁ、がんばって抵抗してみよう。抵抗しようと努力すれば努力するほど、僕が射精したとき、その反動で美樹先生はすごくすごく気持ちよくなってしまって、もう何も分からない状態になって、……それが終わると、美樹先生は身も心も僕のモノになってしまうよ……」
 僕は美樹先生の耳元でそう囁くと、美樹先生はいやいやと涙をこぼしながら首を振る。普段の凛々しい姿とはかけ離れた弱々しい姿に、僕は興奮し、下半身も益々いきり立ってくる。

 繰り返しの腰の動きに、美樹先生の声も、こらえようという努力のかいもなく口から洩れ、上ずっていく。
 媚薬の効果か、愛液はとめどなく溢れてきて、いやらしい水音がくちょくちょと部屋に響き、そしてその肉壁が僕の肉の塊を、美樹先生の意思とは別にぎゅぅぎゅぅと締め付けてくる。
 そんな固い締め付けに、やがて、僕のほうにも限界が近づいてくる。
「さあ、いまからあと3回衝かれると、美樹先生はイッてしまう。そして僕の精液を注がれると、さっきいったとおりになってしまう。必ずそうなるよ……」
 
 美樹先生は、まだ、僕に支配されていない。だけど、美樹先生は必死になって、それを否定するかのように頭を振っている。否定すれば否定するほど、その言葉に絡めとられていることを逆に証明しているようなものなのだけど、美樹先生はそのことには余り気がついていないようだった。

 僕はおもむろに、

「ひとーーーーーーーーつ」

 というと、思いっきり腰を美樹先生の奥に突き刺す。びくん、と美樹先生の体が震え、歯がカチカチとなっている。


「ふたーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーつ」


 さっきより更に長い声で、そしてなるべく低い声で、僕は美樹先生の耳元で声を出す。美樹先生の体が、思わず僕の背中をぎゅっと抱きしめかけて、あわててその手を振りほどいている。


「さぁ、最後の一回だよ……みーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっつ!!!!」


 最後の一撃は、少しひねりながらも、美樹先生のおなかの裏に突き当たるようにして、僕は腰を奥に差し込む。その瞬間、限界に来ていた僕のおなかの奥からも、白い液がどぴゅ、どぴゅ、と、あたかも音をたてる勢いで断続的に放出される。
 その瞬間、美樹先生の目が見開き、体が痙攣し、口から声にならない絶叫がほとばしる。僕の背中に美樹先生はつめを立ててしがみつき、両脚が二人の束縛をはずすと、僕の腰に絡みつく。勢いで、僕は美樹先生の大きな胸のハザマにぎゅっと顔を押し付けられ、一瞬窒息しそうになる。

 やがて、美樹先生の声が途絶え、痙攣が治まる。美樹先生の両腕、両脚から力が抜け、ようやく僕は美樹先生から体を引き剥がすと、こぽっと音を立てて、精液が美樹先生の肉襞から垂れおちる。

 そのとき、美樹先生の目が開かれた。最初ぼうっと、視線が定まらないようであったが、やがて、目の前に僕がいることに気がついたようだ。その瞬間、美樹先生の顔が、蕩けるようにほころぶ。

「あ…………」

 その表情、そしてその声……そして、その意思の光のない瞳の色は、これまで、僕に精液を注がれた、弥生さん、優華さん、みちるさんと、同じものだった。



「……………………………………………………祥平………………………………『さま』………………………………ん……んん……」

 今まで、僕につけたことがない尊称で、僕のことを呼んだ美樹先生に、僕は口付けをすると、美樹先生は、一瞬驚いたようだったが、やがてすぐに僕にしなだれかかるようにして、僕の唇に答え、やがて、僕が舌を絡めると、その動きに答えていく。

 やがて、僕がキスをやめて唇を引き剥がすと、美樹先生は名残惜しそうにしていたが、やがてほてった表情で、僕を上目遣いに見上げる。

 さっきまで、激しく抵抗し、そして僕を諭そうとしていた美樹先生。
 僕よりずっと年上で、すごく頭がよくて、それでいながら、すごく茶目っ気があった美樹先生。

 それが、今は、まるで目の前にいる人間を親だと刷り込まれてしまった生まれたての仔犬のように、あるいは、孵化したばかりのひな鳥のような表情で、僕を見つめている。


 僕は美樹先生の身体を縛っていた紐を解く。もはや不要のものだ。


「美樹先生……いや、美樹。君と僕の関係を、説明してくれるかな?」
「はい……美樹は、祥平様の奴隷です……祥平様の命令されると、うれしくてうれしくてしかたがない、そういういやらしい、はしたないイキモノです……」

 僕は美樹先生の頭を撫でると、美樹先生は仔犬が甘えるように鼻を鳴らし、目を細めてうれしそうな表情をする。

「……キス、初めてだったんですよね?」
「……はい……祥平様が……ファーストキスの相手です……」
「処女も、僕がもらっちゃったことになっちゃったね?」
「……ええ、……祥平様に捧げられるなんて、夢のようです……」

 念のため、実験してみるか。

 僕は、美樹先生の目の前に、ブロッコリーを見せる。ここに来る帰りがけ、コンビニで買ってきたサラダに入っていたものだ。
「さぁ、美樹。僕の奴隷だったら、僕の命令がきけるよね。美樹は、僕のことが大好き。だから僕の体から出てくるもの、僕に口移しされたものは、大好きで大好きでたまらなくなる。だから、このブロッコリーも、すごくおいしくなるよ。さぁ、僕の口から受け取って食べてごらん?」
 そう言うと、僕はブロッコリーを一度くちに含んで唾液で湿らせたあと、口から半分だけ出してみせる。美樹先生は、僕に顔を寄せると、僕に口付けをするようにそのブロッコリーを奪い取り、食べて見せた。

「おいしいかい?」
「はい……とても……なんでこんなおいしいもの、今まで食べられなかったのか、不思議です……」

 美樹先生は、蕩けるような表情でブロッコリーを食べつくした。

 これまでは、少しは「演技」のリスクも考えていたが、ここまでくれば間違いないだろう。

 美樹先生は、僕の能力に、支配された。
 美樹先生は、もう永遠に、僕を裏切ることができない。

「そしたら、僕のここをしゃぶって、そこから出る精液も、飲んでもらえるかな?」
「はい……仰せのままに……」
 そういうと、美樹先生は、僕のおち●ちんに、その小さな紅い口を寄せて、本当にうれしそうに、そしておいしそうに、ほおばりはじめた。










 そんな美樹先生の頭を撫でながら、僕は目を閉じる。
 今は、何でもいいから、心を埋めておかないと、余計なことを考えておかしくなりそうだった。
 幸い、今、ここには、綺麗な、――そして今までずっと僕のことを騙してきた、悪い女の人が二人いる。
 美樹先生、そして絢音さん。
 

 しばらく、この二人を犯すことに専念しよう。











 犯している間だけは、何も考えなくて大丈夫だから。

 
 
< 続く >


 

 

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