深き淵にて


 

 
第一話



「あなたの名前は?」
「・・・飯野、弘平・・・」
「生まれた場所は?」
「・・・・・・・東京」
「・・・・・・私は誰ですか?」
「・・・・・・・わかりません」
「ここはどこですか?」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・今日は何月何日?」
「・・・・・・3月10日・・・」
「・・・事故のこと、覚えてる?」
「・・・・・・・何の事故のことでしょうか?」
「・・・はい、お疲れ様。しばらく休憩にしましょう」
 目の前の男の子にそう話しかけると、涼子は椅子から立ち上がった。
 しかし、その男の子は涼子には目もくれず、ただ茫洋と座っている。
 瞳の色は昏く何も映し出していないかに見える。
 その顔立ちとやや細めの体つきは、・・・男の子につけるべき形容詞ではないかもしれないが、儚く脆い。
 涼子は溜息をつくと、窓枠に鉄格子が取り付けられたその部屋から静かに出て行った。



「先生、お疲れ様です」
 涼子が控え室に戻ると、はきはきとした元気な声が飛んできた。声の主は由香里。明るく快活なことではこの医療センターでも有名だ。
「んー、疲れたってことはないんだけれどね」
 涼子は由香里が差し出すアイスコーヒーのストローの口をつける。
「・・・モカブレンド」
「ぶー、今日はキリマンジャロです。先生、そろそろ覚えてくださいよー」
「・・・コーヒーの味なんて分からないわよ」
「そんなぁ。折角豆買ってきて挽いてるんですから、そんなやる気を削ぐようなこと言わないでくださいよぅ」
 由香里が文句を垂れる。
「悪かった、悪かったわよ」
 涼子はもう一口飲むと、ふぅと溜息をつく。コーヒーの香りが控え室に広がる。涼子にはコーヒーの味は良く分からないが、自己主張をしない程度の甘さと頭をしゃっきりとさせる苦さのほどよいバランスには、由香里のコーヒー研究の成果が現れている。
 憂いを秘めた表情、震える長い睫、黒いタイトスカートから伸びるストッキングに包まれた細く長い脚・・・バランスの取れた涼子の肢体に思わず見とれる由香里の視線と、涼子の視線が絡み合う。
 訝しげな表情をする涼子に向かって、由香里は誤魔化すかのように、
「・・・まだ、『彼』は駄目なんですか?」
「あまり変わりは無いわね」
 由香里の気遣わしげな表情に気づき、涼子は慌てて付け足す。
「・・・でも、自己認識と遠い過去の記憶については戻っているから、大分マシにはなっているけどね。ただ、時間・空間の見当識と他者認識については相変わらず駄目だし、『あの事件』近辺以降の記憶は相変わらず戻ってないわ」
「・・・もう、事件から2ヶ月、ここに来てからは1ヶ月経ってるのに・・・」
「1ヶ月は、精神治療の世界では全然長くないわ。全くよくならなくても当たり前。それに、あの事件の『サヴァイヴァー』なんだから」
 涼子は白衣の袖口をいじくりながら、自分を納得させるかのように言った。



 涼子はこの医療センターで精神科医として勤めている。29歳という年齢はまだ医者の世界では嘴の黄色いひよっこもいいところだが、彼女はめきめきと頭角を現しており、日本でも有数のこの医療センターの精神科部門の1チームの責任者を任されている。
 就任当初流されていた「美貌と色気でその地位を獲得した」というありがちな風聞も、彼女の挙げる治療の成果や執筆される論文への高い評価によって、いつの間にか立ち消えた。白衣を着流し、長い髪の毛を後ろで結わえて、病棟内を闊歩するその姿は、センター内の男性医師はもちろん、若い看護婦連中からのほうが人気があるとも言われている。

 由香里は24歳。高校を出てすぐに看護学校に入り、看護婦としてこのセンターに勤めている。ショートカットでパタパタと病棟内を走り回る姿は、このセンターでも風物詩となっており、その明るい性格から患者からは人気がある。しかし、一見ドジのような見かけの割には、勉強家で、今まで専門でなかった精神科に異動してからは、休日も精神病医療の勉強をしている。涼子が由香里を信頼するのは、彼女のこうした向上心のあるところだ。

 その二人が担当している患者の中で、今最大の問題になっているのは、飯野弘平、そしてその妹、飯野詩織だ。


 つい最近、ちょっとした事件が新聞やテレビを占領した。3ヶ月前の3月11日、遠い外国の雪山で小型機が墜落した。ところが、その1ヵ月後、乗客・乗員の生存が絶望視されていたその事故現場の近辺から、生存者が見つかった。
 それが、まだ高校生だった飯野兄妹だった。
 発見されて1ヶ月はまず半死状態だった二人の体調の回復に全力が投入された。そして、二人の身体がほぼ回復した時に、医療団は別の事実に気づいた。
 二人はまったく外界との反応を閉ざしており、何を話しかけても反応しなかったのだ。
 そして二人の治療について、涼子にお鉢が回ってきた、というわけだ。

 ここに来た段階では、会話すらまったくしようとしなかった弘平だが、涼子と由香里の尽力により、辛うじて会話が成立するまでには回復した。しかし、相変わらず事件当時の記憶は全く戻らず、外界の認識もまともとは言いがたい。
 本来なら、肉親や友人との接触を通じて回復させるのが常道なのだが、両親もその飛行機事故で死んでおり、親戚は面倒ごとに関わりたくないと面会を拒否。クラスメートとの面会もさせたが、これといった反応は無かった。


「でも・・・戻らないほうが良い記憶、というのもあるんじゃないですか?」
 由香里の言葉に、涼子は即答しなかった。


 小型機に乗っていた人間は56人。うち死者・行方不明は54人。
 墜落して炎上した飛行機の中から発見された47人は焼死体で見つかった。
 残る7人はまだ見つかっていないが、ほぼ絶望と見込まれている。

 そんな中、意識を失った二人は、雪山にぽっかりと出来た洞窟の中で発見された。

 1ヶ月間、ろくに食べるものの無い雪山でどうやって彼らが生き残れたのか・・・。
 今回の事故で、いったい何が起こったのか・・・。
 生存者である二人から事情が聴けない以上、真相は闇に包まれている。


「・・・何がいいのか、悪いのかは、私たちにはわからないわ。ただ・・・」
 由香里は一区切りを置いてから
「彼らの生きようとする力を信じるしかないわね」
 少なくとも、彼らの身体は生きようとした。
 ならば精神も、生きようとしているに違いない。
 私は、あらゆる手段を使って、その手助けをするだけだ。
 涼子は、溶けた氷で薄まったコーヒーを啜った。

「・・・先生、弘平君と詩織ちゃんを、会わせるのは・・・」
「まだ、駄目よ」
 由香里の言葉を遮り、涼子は短く言った。
 二人の意識が回復した後、一度だけ二人をあわせたことがあったが、それはひどいものだった。
 恐慌に陥って泣き叫ぶ妹。絶叫する兄。
 二人を拘禁して精神安定剤を打つのに男手5人がかり。涼子も由香里も弘平に殴られるやら詩織に噛みつかれるやらで、しばらくはミイラ男のような風体で出勤する羽目になった。
 ・・・何があったのかはわからないが、あの二人をまだ会わせるわけにはいかない。

 それにしても・・・。
「・・・せめて、そのときの事情がわかれば・・・」
 精神治療において、その症状の原因に関する情報というのは非常に有益だ。しかし、それがないと今回のようなケースでは、治療のとっかかりが掴めない。
 独り言のように呟く涼子を、由香里は複雑そうな表情で見守るばかりだった。


 コーヒーの会を終えると、涼子は別の患者の問診に行き、由香里は弘平の妹、詩織のいる病室へと向かう。
「入るわよ、詩織ちゃん」
 パチン。由香里は暗い部屋に明かりをつける。
 暖色系の明かりに包まれた部屋には、ベッドが一つぽつんと置かれており、女の子が身体を半分起こしてぼうっとしている。長い髪の毛に包まれた小さな顔には、どことなく兄、弘平の面影があるように思われる。
 由香里は1日2回、詩織のところを巡回している。
「・・・今日は良く眠れたかな、詩織ちゃん」
 しかし、彼女は全く反応しない。焦点を結ばない瞳は、この世には無い何かを見つめている。
「・・・身体を綺麗にしましょうね・・・」
 由香里は詩織の服を脱がす。詩織は全く抵抗せず、ボタンを外される。由香里は持ってきた洗面器に満たしたお湯にタオルを浸して固くしぼり、そのタオルで彼女の白く柔らかい肌を丁寧に拭く。
 救出された当時はげっそりとしていた身体も、ここ2ヶ月の加療によって女性が持つ本来のふくよかさと艶やかさが戻っている。しかし、その心は相変わらず閉ざされたままだ。・・・いや、言葉すら発しない点では、弘平よりも悪いかもしれない。
 しゅ・・・しゅ・・・。タオルと詩織の肌が擦れて音をたてる。
 ふにゅ。
 手がすべり、由香里のタオルが彼女の胸に当たる。
「あ。ごめんなさい!」
 年齢の割には早熟なふくらみの持つ柔らかな感触。何かを穢してしまったように感じて、思わず由香里は謝ってしまう。
「・・・詩織ちゃん?」
 由香里は彼女の顔を見上げる。彼女はやはり無表情のまま宙を見つめている。
 由香里の胸からタオルを外すと、その薄紅色をした乳首が、少し立ち上がっているように見える。
 ・・・血行がよくなって、立ち上がっただけだろうか。
 どうも、人形のような彼女の肌を拭いていると、妙な背徳感に襲われる。・・・職業柄、別に裸を見るのは男女を問わずしょっちゅうだけれど、彼女は不思議な色気がある。
 ・・・いや、わたしにその気は無いんだけれども。
 由香里は一通り彼女の身体の汗を拭いとり、再び服を着せる。
「ねえ、詩織ちゃん。しゃべりたいこととか、ないかな?・・・お姉さん、詩織ちゃんと色々話してみたいんだけどな・・・」
 しかし詩織の反応は無い。
「じゃあ、また明日ね・・・」
 由香里は部屋の明かりを落とし、外に出た。


 由香里の手元には一片の写真がある。
 飯野兄妹が写っているスナップ写真だ。セーラー服の妹に抱きつかれ、迷惑そうな顔をしている兄の図。彼女が高校に入学したときの写真らしい。全く暗さを感じさせない微笑ましい姿が、かえって痛々しい。
 ・・・あの子たちは、こんな表情ができるんだ。
 彼女たちをなんとか元に戻してあげられないんだろうか。

 由香里は、超過勤務の後よろめくようにして家に帰ってから、連夜、自学用の専門書をあれこれひっぺがしていた。
 そんなある日、夜も2時を過ぎ、もうあきらめようとした時、
「・・・これ・・・どうなんだろ・・・」
 由香里の目は分厚い専門書の一ページに釘付けとなった。
 
 


 それから数週間が過ぎたが、飯野兄妹の容態は、相変わらず進展しなかった。
 そんなある日のこと、
「・・・催眠療法?」
 由香里の提案に涼子はすっとんきょうな声を上げた。
「・・・と、とりあえずのとっかかりとして、試してみたらどうなのかなー、と思ったんですが・・・」
 由香里の声はやや緊張気味だ。
「・・・催眠療法、ねえ・・・」
 涼子の訝しげな声に促されるかのように、由香里は続ける。
「・・・多分、彼・・・弘平君の心には、当時の記憶を思い起こさせないように、何重かの防壁ができてると思うんです。・・・その防壁がある限り、彼は多分、過去を思い起こすことはおろか、まともに外界とぶつかり合うこともないと思うんです」
「・・・その可能性もないとは言わないけど・・・、それで催眠療法というのは少し・・・」
 確かに催眠療法は古典的とはいえ精神医学の一手法として存在する。だから涼子も催眠の心得が無いわけではない。しかし、あまり臨床の現場で使ったことはなかった。
 というのも、催眠はまだ良く分からない部分が多く、その効果がいまひとつはっきりしない、という思いが涼子には強かったからだ。
 しかし、これまで彼らに対して試みた手法は--薬物療法から洞察療法まで様々だったが--芳しい効果を上げなかった。
 それであれば、駄目もとで試してみる価値はあるのかもしれない。
 おそらく妹、詩織はそもそも言葉に対する反応が無いので難しいだろうが、兄の弘平には効果があるかもしれない。
 それに・・・こんなに一生懸命な由香里の提案を、涼子はないがしろにもできなかった。
「・・・分かったわ、少し検討してみるから、現場に戻りなさい」
「あ、ありがとうございます!」
 ぺこんと頭を下げる由香里に、涼子は続けて、
「・・・後、今日からは、家に帰ったらすぐに寝ること。目にパンダみたいなクマ、できてるわよ」
 涼子の言葉に、由香里はナースキャップが落ちそうになるくらいに深々とお辞儀をした。



「弘平君。おはよう」
「・・・おはようございます」
 弘平と涼子、そして由香里は、診療室に居る。診療室には机とベッド、そして診療台が備え付けられており、弘平は歯医者の椅子のように背もたれが自由に動くその大きな診療台に座らされている。ブラインドにはカーテンが掛けられ、ドアには鍵が閉められている。
 弘平は大分涼子と由香里には心を開き、あれこれ会話をするようになった。しかし、相変わらず記憶はちぐはぐで、当時の記憶は回復していない。しかし、二人を認識することはできるようになっていた。
 
「弘平君・・・何か思い出せそうなことはあった?」
「・・・いいえ」
 涼子の言葉に、彼は申し訳なさそうに弱々しく首を振る。
「あ、いいのよ、別に悪いことじゃないんだから。・・・ただね、あなたの中の時間が今、止まってしまってるから、それを動かす手伝いを私たちはしたいだけなの。で・・・」
 涼子は一区切りして、続ける。
「・・・あなたは、・・・妹さん、詩織ちゃんには、会いたい?」
「・・・会いたいです」
 詩織という名前を聞き、茫洋とした弘平の瞳にに、少しだけ輝きが戻る。
「そう。ただね・・・、今のままではまだ会わせられないの。二人の間に何があったのか、あの時何があったのか・・・それが分からないと、駄目なの」
「あの時?」
 不思議そうな顔をする弘平に、
「ううん、気にしなくていいの。弘平君・・・。それでね、私たちを信じて、付いて来てくれるかな?」
 涼子の言葉に、弘平は頷いた。その仕草は年の割には幼く、妙に母性愛をくすぐられる。
「じゃあ、はじめるわ・・・。由香里さん、準備をお願いね」
「はい」
 由香里はアンプルと注射器、エタノールに浸した脱脂綿を取り出した。
「ちょっとちくっとするかもしれないけど、我慢してね」
 涼子は弘平の左腕を脱脂綿で拭くと、注射針を慎重に刺し込んだ。



「・・・弘平君。ゆっくりと目を開いてください・・・」
 涼子の言葉に弘平はゆっくりと瞼を開く。
 その瞳は輝きを失っており、ただ涼子の顔を虚ろに映し出している。
「・・・弘平君。今から私はあなたにいくつか質問をします・・・。それについて、答えてくださいね・・・」
「・・・・・・はい」
 涼子は唾を飲んだ。向精神薬の効果が現れた彼の表情は、いつもにまして表情が虚ろだ。普段の問診の時とは訳が違う。
「・・・では、あなたの名前は?」
「・・・飯野弘平」
「誕生日は?」
「・・・4月6日」
「血液型は?」
「・・・O型」
 しばらくは答えることが難しくない質問に終始する。弘平は淀みなく、涼子の質問に答え続ける。
 頃合を見計らい、涼子はペンライトを取り出す。
「・・・弘平君。このライトを見て」
 弘平の目線がそのライトの先端に吸い込まれる。
「・・・このライトを見ていると、あなたの目はだんだんチカチカしてきます。そう。どんどんどんどんチカチカしてきて瞬きが多くなっていきます。・・・そうです、どんどん瞬きが多くなっていきます」
 弘平はそのライトを眩しそうに見つめていたが、涼子がペンライトを高く持ち上げるにつれて、目線が上向きになり、瞬きの頻度が増していく。
「・・・そう、どんどん瞬きが増えて・・・瞼が重くなっていきます・・・。もう目を開け続けることが難しい・・・開けようとすればするほどどんどん瞼が重くなって・・・くっつく・・・くっつく・・・はい・・・もう離れない!」
 弘平の瞼がくっついた瞬間に涼子は手の平で彼の目蓋と顔を抑え、ゆっくりと頭を回転させはじめる。
「そう・・・体がどんどんふわふわして・・・自然に動き出します・・・前に・・・横に・・・くるくる・・・くるくる・・・、でもとても気持ちいい・・・頭の中はもう真っ白で何も考えられない・・・」
 涼子が手を離しても、彼の身体は自分から勝手にゆっくりと動いている。
 ・・・そろそろ大丈夫だろうか。
「・・・私が3つ数えると、あなたの身体は真後ろに倒れます・・・ですが、後ろには布団があるから安全です・・・。そして倒れると、あなたは深い深い眠りについてしまいます。・・・でもその眠りの中でも私の声だけは聞こえます・・・。いいですね・・・」
 弘平がこくりと頷く。
「では数えますよ・・・ひとーつ・・・ふたーつ・・・みっつ!」
 涼子が背もたれを倒すと同時に、彼の身体は後ろに倒れた。
 と、その時。涼子の後ろでバタンと音がした。
「・・・?」
 そこには、壁によりかかったような状態で床に座り込んでいる由香里が居た。白衣のスカートが捲くれて、白いストッキングに包まれた下着が露になっているが、本人は目を閉じてすやすやと眠ってしまっている。
「・・・・・・あなたがかかってどうするのよ・・・」
 涼子は苦笑しつつも由香里を起こすことにした。




「・・・先生、すごいです。本当に催眠療法、やったことないんですか?」
「昔研修中にやっただけよ。一応今日のためにやっつけで少しは勉強したけど。だいたいアミタール系つっこまれたら誰でも多かれ少なかれ催眠状態にはなるものよ」
「でもこれは相当薄めた液だし・・・それに、私は注射されてなかったけどかかっちゃいました・・・」
「あなたは掛かりやす過ぎ」
 深い眠りについた弘平を目の前にして、二人は小声で声を交わす。
「・・・でも、こうして改めてみると、男前ですよね・・・彼」
「年下趣味でもあるの?由香里さん」
「ち、違います違います」
 慌てて首を振る由香里をもう少しいじめたくもあったが、それほど時間もない。涼子は彼に退行催眠をかけることにした。
「・・・弘平君・・・聞こえますか・・・」
「・・・・・・・はい・・・」
 彼から反応が返ってくる。深い眠りには付いているが、涼子の声だけは聞こえているはずだ。
「あなたは今何歳ですか?」
「・・・18です」
「・・・そうですか。それでは、私が数字を数えると、あなたの年は1歳ずつ小さくなっていきます。いいですね・・・それでは数えますよ・・・、1・・・2・・・3・・・4・・・5・・・6・・・7・・・8・・・9・・・10・・・。さあ、弘平君。あなたは今、何歳ですか?」
「・・・やっつ・・・」
 少しあどけないしゃべりになった彼の髪の毛を撫でながら、
「そう、良くできました・・・。それでは、私が数を数えると、あなたの年はまた一つずつ増えてきます・・・。1・・・2・・・3・・・4・・・5・・・ずいぶん大きくなってきました・・・6・・・7・・・8・・・9・・・10・・・。・・・あなたは今、何歳ですか?」
「・・・18です」
 いつの間にか、もとの大人びた声音に戻っている。
 ・・・これからが本番だ。涼子の声が微妙に緊張し始める。
「・・・じゃあ、弘平君。今年のお正月から時間を進めてみましょう・・・。1月・・・2月・・・3月・・・。はい、3月10日・・・。あなたは何をしていますか?」
「・・・旅行の・・・準備です・・・」
「・・・そう。詩織ちゃんは何をしていますか?」
「・・・やっぱり・・・旅行の準備をしています・・・」
 3月10日。あの事故の前日だ。普通は日時の指定だけでその日の記憶が戻ることはない。やはりこの日は彼にとって特別で・・・この日以降の記憶を彼は閉ざしている。
「・・・では、時計の針を進めてみましょう・・・、次の日、3月11日・・・。あなたは・・・今飛行機に乗っています・・・。家族で旅行をしています・・・」
 彼の眉がピクンと動き・・・眉間に皺が寄る。
「・・・あなたの乗っている飛行機は事故で地面に落ちました・・・。あなたの周りには何が見えますか?」
「・・・飛行機が・・・燃えて・・・僕と詩織は逃げ出して・・・」
 カチカチと彼の歯が音を立てて鳴り始める。寒そうにしているのは、雪山に落ちたその時の記憶がよみがえっているからだろうか?
「大丈夫です。あなたは大丈夫・・・あなたもあなたの妹さんも・・・だから落ち着いて話してください・・・いいですね・・・」
 涼子が弘平の手をぐっと握ると、弘平の表情が和ぎ、こくりと頷く。
 弘平は事故直後の阿鼻叫喚の様をぽつり、ぽつり、と話し始めた。わけのわからないうちに墜落したこと。すぐに逃げたが飛行機が直後に爆発し、逃げ遅れた人が死んだこと。生き残った人間は命からがら雪山の洞窟の中に逃げ込んだこと・・・。
 彼の腕がぴくぴく動き始めている。そろそろ限界だろうか。
「・・・少し休みましょうか。弘平君・・・私が今から三つ数えると、あなたはまた深い眠りにつきます・・・今までの怖かった記憶は消えてなくなります・・・そして次に起きたときは気持ちよく目を覚ますことができます・・・いいですね・・・では、1・・・2・・・3!」
 涼子が弘平の目を押さえると、彼はまた固く目を閉じて深い眠りに落ちた。しばらくすれば自然に起きるだろう。・・・怖いことは忘れて。
 彼の頬は涙で濡れている。
「・・・先生・・・」
「・・・辛いかもしれないけど、こうやって少しずつ記憶を起こしていくしかないのよ・・・。いきなり全部は難しいから、今日はこれくらいで・・・」
 その時、涼子のPHSがぶるぶると震えた。
 画面の表示を見て、涼子の顔色が変わる。
「・・・詩織ちゃんの意識が戻ったって。まずいな・・・。今すぐ彼を覚醒させるのは難しいし・・・」
「先生、ここは私が見てますから、先生は詩織ちゃんを・・・」
 涼子は一瞬逡巡したが、由香里の表情を見て頷いた。

「・・・わかった。ここは任せるわ、由香里さん。あと、ここには誰も入れないこと。いいわね?」
「わかりました」
 由香里の返事を最後まで聞かずに、白衣を羽織った涼子は部屋を飛び出した。

 
 慌しく部屋から飛び出す涼子を見送ると、由香里はドアの鍵を掛ける。
 ・・・この催眠療法は上の許可をもらってないから、見つかるといろいろと面倒だ。
 薄暗い診療室の中、改めて由香里は弘平を見る。
 椅子の上に横たわっている彼の目からは涙が零れ落ちている。
 ・・・あんなつらい事故の記憶をもう一度たどらせなくてはいけないのだろうか?
 自分が提案したこととはいえ、心苦しい思いがする。
 やるせなくなった由香里はタオルをもってきて彼の涙を拭い始める。
「・・・・・・あ」
 由香里は思わず小声を上げた。弘平が目をゆっくりと開いたからだ。由香里と目が合うと弘平は、
「・・・あなたは?」
と問う。
 薬を注入した割には、目覚めが早いわね・・・。と疑問に思いつつも、由香里は答える。
「・・・わかる?弘平君。私は由香里。あなたの担当の看護婦よ」
「・・・ここは?」
「病院よ。大丈夫。安心して、あなたは大丈夫だから」
 催眠療法の影響か、彼の記憶は混乱しているようだ。後で涼子先生にきちんと催眠を解いてもらわなくては・・・。
「・・・・・・詩織は?」
「・・・詩織ちゃんは別の場所に居るから安心して。ね?」
 にっこり笑う由香里の顔を、弘平はぼんやりと眺めていたが、突然ぽつりと呟く。
「・・・由香里さん。僕の記憶を知りたいんですか?」
「え?」
 由香里の驚きを先回りするかのように弘平は続ける。
「・・・ごめんなさい。僕も・・・まだ良く分からないんです。・・・さっき、もう少しで思い出せそうだったんですけど・・・つっ!」
 弘平は頭を押さえる。慌てる由香里。
「だ、大丈夫?」
「・・・思い出そうとすると頭が・・・痛くて・・・」
「いいのよ、まだ。そんなに焦らなくても。ね?」
 由香里は持ち前の明るい声で弘平を励ますと、弘平は由香里の方を見る。
 その瞳の色は、以前の弘平とは違い、何かの意志が存在している。
 ・・・よかった、効果があったんだ・・・。
 弘平が饒舌になったのも、瞳の色が変わったことも、由香里は催眠療法の効果があがったものだと単純に喜んでいた。
 そんなうれしそうな笑顔を見せる由香里に、弘平はぽつりと、
「・・・由香里さん、もし良かったら少し手伝ってくれませんか?」
「え、何を?」
「催眠の、続きです」



「・・・駄目みたいです」
「んー、やっぱり私じゃ無理ね・・・先生にやってもらわないと・・・」
 弘平に催眠を掛けてくれるように頼まれた由香里は、何度か見よう見まねで試したものの、弘平は催眠に掛かる気配がなかった。
 首をかしげる由香里に対して、弘平は静かに口を開いた。
「・・・由香里さん、それじゃあ今度は僕が試してみます」
「え?」
「一度くらい掛けられてみたほうが、相手の心理がわかっていいと思うんです」
「そんな、だっていきなり催眠なんか掛けられるわけ・・・」
 しかし、弘平は本気のようだ。
 ・・・うーん。
 外界に対して自分の心を閉ざしていた彼が、せっかく何かをやる気になっているのだ。ここで水を差すのはまずいかもしれない。
 とはいえ、彼は若い男、私は、一応若い女、のつもりだ。暗い診療室で二人きりで催眠ごっこ、というのはまずいような気もする。
 由香里はポケットをまさぐった。ナースセンター直通の緊急通報用のボタンがある。
 ・・・いざとなればこれを押せば大丈夫だろう。素人の彼が掛けられる筈も無い。
「じゃあ、試してもらえる?弘平君。・・・ただし変なことしたら、警察呼ぶわよ」
「わかりました」
 弘平はにっこり笑った。


 弘平はベッドに由香里を座らせると自分は隣に座った。
 ペンライトを握る由香里の手を彼は両手で包み込む。
「じゃあ、試してみますね。この腕を真っ直ぐ伸ばしてください。思いっきり真っ直ぐ真っ直ぐ真っ直ぐに伸ばして・・・そう・・・そしてペンライトの先を見つめてください・・・」
「ちょ、ちょっと待ってよ・・・」
 突然積極的になる弘平の言動に戸惑いつつも、弘平が彼女の手を包んで引っ張るために、否が応でも由香里の腕は伸ばされる。
「ああ、ごめんなさい。少しあせりすぎましたね。そうしたら、ゆっくり息を吸って・・・吐いて・・・吸って・・・吐いて・・・目はペンライトの先を見つめたらまま・・・吸って・・・吐いて・・・」
 ・・・強引なんだから・・・と思いながらも、由香里は言われるままに呼吸を開始する。
「・・・すう・・・はあ・・・すう・・・」
 弘平が呼吸するリズムに合わせて、由香里の胸のふくらみも上下に動く。一定のリズムが彼女の身体に染み込み始める。
 ・・・。
 ・・・。
 ・・・。
 単調な呼吸の音とぼんやりと光るペンライトだけが由香里に感じられる五感の全てとなって2分も経った頃だろうか。彼女の顔から次第に表情が抜け落ち始め、まぶたがぴく・・・ぴく・・・と動き始める。
「ペンライトを握る手には力を込めてください・・・。ぎゅっと、固くかたーく握り締める・・・。目線はペンライトの光だけを見つめる・・・すると由香里さんの肘と腕はどんどん力が入って固まっていきます・・・・・・。ほら!もう動かない!」
 弘平が突然鋭い声を出して彼女の手を一瞬がしっと握りしめ、手を離す。
「・・・え・・・あ・・・あれ・・・」
 しかし、彼の手が離れた後も、弘平の低い声が言うとおり、彼女の腕はガチガチに固まり、指は固く握り締められ、ペンライトを離すことが出来ない。
 あれ、手の力ってどうやって抜くんだったっけ・・・。
 とまどう由香里に向かって弘平は考える暇を与えないように次々と暗示を与えていく。
「そのままペンライトを見つめてください。するとどんどんペンライトの光が大きくなる、大きくなっていきます。白い光がぼわーーっと大きくなっていきます。どんどん貴方を包んでいきます・・・」
 由香里の瞳孔が大きく見開かれる。
 あ、あれ、あれ・・・。
 混乱する由香里の思考を見透かしたように、弘平の声が由香里の耳に染み入ってくる。
「貴方の身体がその白い白い大きな光に包まれて・・・その光が貴方の頭を占領します・・・もう・・・真っ白・・・。でも目はどんどん開いていきます。・・・もうあなたは光しか見えません・・・そして私の声だけが聞こえる・・・他には何も感じることができません・・・」
 彼女の身体の硬直は指や腕はおろか、全身に伝播し、もうガチガチに固まっている。彼女の意志無き瞳の中には、白いペンライトの照り返しだけが虚ろに映し出されている。
 
 ・・・真っ白・・・。真っ白・・・。

 ・・・もう彼女の頭は完全に思考停止しており、弘平の存在は思考の外から抜け落ちている。ただ耳から染み込んでくる言葉が真っ白になっている頭を素通りして身体を動かしている。

「・・・由香里さんの目は瞬きが出来ない・・・目が霞んでくるけど瞬きはできません・・・どんどん光が大きくなってます・・・」
 由香里の瞳は大きく見開かれ、ただペンライトの光のみを映し出す。瞬きができずにいるため、目から涙が溢れ始め、それが彼女の視界をぼんやりとさせる・・・。
「はい・・・だんだん頭が重くなっていきます・・・もう目には何も映りません・・・まぶしくて何が何だか分からない・・・もう目は閉じてしまいましょう・・・目を閉じるとすぅっと力が抜けて体が前に倒れてしまいます・・・3・・・2・・・1・・・はい!」
 由香里の目蓋が閉じ、溢れる涙が頬を伝って落ちる。と同時に彼女の上半身から力が抜け、体が前に投げ出される。腕から力が抜け、ペンライトがリノリウムの床に転がった。
「・・・あなたは深く深く眠ってしまいます・・・。もう私の声だけしか聞こえません。ただ私に揺さぶられると、あなたはどんどんリラックスしていきます。どんどん力が抜けていきます・・・。どんどん気持ちよくなっていきます・・・」
 由香里の身体は弘平の手が動かすがままに右へ左へと揺れる。

 ・・・。

 それから脱力暗示や硬直暗示を何度も繰り返させた後、
「・・・それでは由香里。由香里の身体は、三つ数えると、体が軽くなって起き上がります。目は開けますが、何も見えません。何も考えられません。何をされても感じません。頭は真っ白のままです・・・それでは、1、2、3!」
 弘平が指を鳴らすと、由香里の身体はゆっくりと起き上がる。顔からは表情は抜け落ち、光を失った瞳は何も映し出していない。
 


 −−まさか、外に出られるとは思わなかったな。



 『弘平』は口を歪めて笑った。その笑みは、弘平のものであって、弘平のものではなかった。おそらく涼子がその笑みをみたら、一瞬で彼の人格が以前とは異なっていることに気づくだろう、そういった性質のものだ。
 
 弘平が由香里の顎を人差し指でくいっと持ち上げると、彼女は虚ろな瞳を彼に向ける。弘平は由香里の柔らかい頬を手で押さえ、そのまま彼女の唇に自分の唇を押し当てる。しかし、彼女は何の反応もしない。弘平は舌を突き出し、由香里の口腔を陵辱する。唇を舐め、由香里の生暖かい舌に自分の舌を絡め、唾液を啜る。しかし、由香里はただその唇の端から唾液を床にしたたらせるだけで、何の反応も示さない。
 
 弘平は唇を離すと、唾液でべしょべしょになった由香里の唇と床を脱脂綿で拭った。

 −−あの女医・・・涼子とかいったか・・・。彼女がいつ帰ってくるかわからない。今日はこれくらいにしておこう。
 −−折角だ・・・。この病院で・・・できる限りのことはさせていただこう・・・。
 −−そして・・・彼女を・・・・・・。この前の決着を・・・。

 弘平は由香里に後催眠暗示を掛けた。事務的に、淡々と。






「こーら!由香里さん!」
 ・・・あれ。
 由香里は目を覚ます。
 ・・・いつの間にか眠ってしまったんだろう。
 目を開くと、いつの間にか涼子先生が薄暗い部屋の中に立っている。腰に手を当ててにやにや笑っている。
「二人しておねむの時間とはいい度胸じゃないの。こんな暗い部屋で若い男女が、ねえ?」
「え、え、そんな、私何にもしてませんよ!!」
「へぇ〜。普通『何にもされてませんよ』と答えるところだと思うけどねえ・・・」
 意地の悪そうに笑う涼子。真っ赤になる由香里。
「まあ、いいわ。後でこっちに来て。詩織ちゃんのことで話しがあるから」
「彼は?」
 由香里は眠っている弘平を見やる。
「疲れて眠っているんでしょう。このまま彼の部屋に戻してあげましょう」
「わかりました」
 由香里と涼子は彼をキャスターに移す。
 部屋は薄暗かったため、弘平が小さく口元を歪めて笑ったことに、由香里と涼子が気づくことはなかった。










 
 
< つづく >


 

 

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