【平成30年史 第1部皇室(1)】高御座の中、陛下は無言で立ち上がられた 新時代の幕開け「10年かかった」抵抗の払拭
皇居・宮殿「松の間」。正面の帳(とばり)が下ろされた高御座(たかみくら)の中で、背後から侍従が声をかけた。
「陛下、まもなく開きます」
右手に笏(しゃく)、頭には冠。天皇のみが着ることが許される黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)に身を包み、玉座に座っていた天皇陛下は、無言のまますっと立ち上がられた。
鉦(しょう)(=かね)の音を合図に、2人の侍従が帳を左右に開く。高御座に初冬の光が入り込んだ。
「ここに即位礼正殿の儀を行い、即位を内外に宣明いたします」
昭和天皇の崩御から1年10カ月が過ぎた平成2年11月12日。天皇陛下は「即位礼」で、国内外の賓客を前に、自ら天皇となったことを宣言された。平成の世が本格的に幕を開けた瞬間だった-。
皇居から続く即位のパレード。洋装に着替えた両陛下を人々の祝福の波が包んだ。26年後に自ら譲位の意向をにじませられることになる陛下が、皇室のあり方を模索する「旅」はこのとき既に始まっていた。
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「ご病気の最後の段階は、昭和天皇にとっていかに残酷なことだったかということは、おっしゃっていました」。平成8年から10年以上、侍従長を務めた渡辺允氏(80)はそう語る。
昭和天皇が倒れた昭和63年9月以降、体温や血圧、下血量までもが一日に何度も公表された。
「最後のころは、崩御の前から葬儀に備えた皇居の中の工事が始まっていた。そこを通るたび、自分は残酷なことだと思ったともおっしゃられた」
渡辺氏はそう振り返る。
陛下の旧友である明石元紹氏(82)は、昭和天皇が崩御する直前の昭和63年の大みそか、当時皇太子だった陛下のお住まいに招かれた。
昭和天皇は意識がない状態。陛下は「自然に振る舞っておられた」という。
だが、「昭和天皇もご自分は当たり前の人間でありたかったが、あの時代はそれを周りが許さなかった。一番極端なのは、手術することすら批判を浴びた医療の問題。陛下はそういう面を見て、残酷に感じられていたと思う」。
「もうちょっと天皇は自然であっていい、自然でありたい。そう思われていたのではないか」。明石氏は当時の状況が、現在の「譲位のご意向」につながっていると考えている。
昭和天皇が崩御したのは、その大みそかから7日後の昭和64年1月7日。「平成」が動き出した。
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「昭和とは大きく宮中の形が変わったのだなと感じた」。昭和天皇と両陛下に和歌を指南した岡野弘彦氏(92)が、最も変化を感じたのは「拝謁の際のお声かけ」だった。
「初めて昭和天皇に拝謁したときは、侍従からはただ立ち止まり最敬礼すればよいと言われていました」。言われた通り昭和天皇の前で最敬礼する岡野氏に、「ご苦労である」という昭和天皇の声が響いた。「腹の底から出るような声が頭上から降ってきた。威厳に満ちたお声でした」
今の天皇、皇后両陛下は会う相手に親しみ深く語りかけられる。皇太子ご夫妻時代から現在まで続けられてきたスタイルだ。だが当時は「良しあしではない。ただ、寂しさとともに時代が変わったと実感した」と受け止められた。
「天皇とは昭和天皇」との思いを引きずる宮内庁本庁の空気は、両陛下の皇太子時代からの側近にはさらに厳しいものだった。
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「そういうものではない」。赤坂御用地で皇太子時代から両陛下に仕えてきた側近が、公務について述べた意見は、宮内庁の本庁に拒否された。
崩御間もない元年5月、両陛下の初めての地方訪問となる徳島訪問でのことだった。陛下は「行幸啓(=地方訪問)ではセダンがよい」との意向を伝えられた。「沿道の人々と同じ目線でなければならない」
しかし、宮内庁は昭和天皇が車高の高い御料車を使ってきたことを理由に、申し出を拒否した。さらに食事も「簡素に現地のものを」という両陛下の意向に反し、本庁は大膳とよばれる宮内庁の調理担当者を徳島に同行させる昭和の方式を求めてきた。
「相当ぶつかった。昭和天皇に仕えた元侍従が叙勲を受ける際に、『新天皇からは受けない』と辞退したことがあった。それほどまでの空気だった」
元侍従の一人は、当時を振り返る。
「そういう昭和のやり方を、両陛下は少しずつ変えていかれた。それには10年はかかった」
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政府は、平成30年をもって天皇陛下の譲位を実現する方向で検討に入っている。陛下の譲位で年号も新たになる。30年で幕を閉じようとしている平成は、どのような時代だったのか、そして現在を形作るさまざまな事象はどのように萌(ほう)芽(が)していたのか-。1年を通じて紐(ひも)解(と)く。