20年前、本紙は「韓国号、沈没はできない」という見出しで新年の社説を出した。「我々は他人の苦境に後ろ指を差し、あら探しし、互いに人のせいにしながら長年暮らしてきた…」。不況とゼネラルストライキ。前年の不吉な気運は新年になっても消えなかった。この年の初日の出も雲に遮られていた。気温も氷点下10℃まで下がった。それでも韓国各地には帰省客や行楽客の車があふれていた。「韓国は先進国クラブ(経済協力開発機構〈OECD〉)加盟国なのに、まさか…」。筆者もそんな考えを持って研修のため海外に出発した。30歳ぐらいのことだ。高度成長期で、就職も対して心配せずにできた。
ところが、その年末に国がつぶれた。いわゆる「アジア通貨危機」だ。つぶれた国の国民がどのような扱いをされるのか、初めて知った。政府・財閥・一家の大黒柱の順につぶれていった。多くの留学生が三度の食事に困って荷物をまとめた。日本の指導教授たちが彼らのために奨学金のあてを聞いて回ってくれた姿が忘れられない。韓国では「国が滅びたらどうなるの?」という質問に、「解雇された労働者が稼働停止になったエレベーターの代わりに階段を降りる」という回答が寄せられた。それはただの没落した国の哀れな国民に過ぎなかった。
その年の大統領選挙で政権が交代した。しかし、野党支持者たちも喜んでばかりはいられなかった。大統領就任演説は悲しかった。「物価が上がり、失業者が増えるでしょう。所得が下がり、企業倒産が続出するでしょう。我々全員が今、汗と涙と…」。大統領は言葉を詰まらせた。そして辛うじて言葉を続け、「…苦痛を強いられます。国が瀬戸際に立たされている今年1年だけでも私を助けてほしい」と訴えた。
20年前の元旦、その年末に国があれほどむなしく崩壊すると誰が予測していただろうか。韓国を取り巻く国際環境がどれだけ冷静に展開しているのか、知ろうとしなかったからだ。政治家は体制を改革しなくても、財閥は体質を変えなくてもいい暮らしができると信じていた。労働者は共同体意識を再び持たずとも暮らしていくのに何の問題もないと考えていた。世界がこのような国をそのままにしておくはずがない。それが通貨危機だ。企業倒産でリストラの嵐が吹き荒れ、追いやられた多くの一家の大黒柱や家族たちが命を断ったこともあった。
それから20年後、韓国はどれだけ変わっただろうか。「我々は他人の苦境に後ろ指を差し、あら探しし、互いに人のせいにしながら」1年をスタートさせたのではないだろうか。そんなことをしながら年末には大統領の悲しい演説をまた聞くことになるのではないだろうか。20年前、我々韓国人は試練に耐え、新たな時代を切り開いた。そうした国民の力でどんな危機が来ても再び克服できると信じるだけだ。