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道徳的動物日記

動物や倫理学やアメリカについて勉強したことのある人の日記です。

読書メモ:倫理学とはなんぞや、道徳における「理由」と感情についてのシジウィックの見解

倫理学 心理学

 

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics

 

 

 

『The Point of View of the Universe: Sidgwick and Contemporary Ethics(普遍的な観点:シジウィックと現代倫理学)』は、倫理学者のカタジーナ・デ・ラザリ-ラデク(ポーランドの人)とピーター・シンガーによる、19世紀の倫理学者ヘンリー・シジウィック(Henry Sidgwick)の主著『倫理学の方法』の内容を解説しながら現代にも通じる倫理学として擁護している本。

 以下では、『普遍的な観点:シジウィックと現代倫理学』の内容に沿ってシジウィックの主張やそれを発展した著者らの主張をメモしていく。『倫理学の方法』は邦訳も出ていないし、ラザリ-ラデクやシンガーも「重要だが退屈な本」と序文で強調しているくらいの代物らしいので現時点で読み通す気はちょっとないために、著者らがシジウィックについて書いている主張がどのくらい正しいかは私には判断できないのだが、ラザリ-ラデクはシジウィックの専門家らしいしシンガーも偉い人なのでまあ信用してもいいだろう*1

 

 第1章の前には、シジウィックの人生と思想遍歴についての短い伝記が書かれている。

 第1章の題名は「倫理学とは何か?(What is Ethics?)」であり、内容もタイトル通り。「シジウィックによると、どのようなことを行うことが合理的で理由のある(reasonable)ことであるかということに関わるのが倫理学であり、そして個人としての人間が行うべきである行為を決定する全ての合理的な手続きが倫理学の方法としてみなされる」(p.18)。シジウィックは倫理学の方法を「利己主義(Egoism)」「直観主義(Intutionism)」「功利主義(Utilitarianism)」の三つに分類している。カント主義や契約論、完全主義(perfectionism, 人間としての能力を最高に発揮して偉い人になることが道徳の目的、みたいな考え)などの他の倫理学理論は、実際には前述の三つのカテゴリのいずれかに収まる、とシジウィックは議論している。ただし、著者らはシジウィックのカント理解の不充分さや現代における契約論の発展などについて述べながら、シジウィックが現代に生きていればカント主義や契約論を独立したカテゴリとして扱っていた可能性はあっただろう、としている。

「利己主義」が倫理学の理論とされているのは奇妙な感じがするが、倫理学(Ethics)の定義に道徳(morality)の有無を含めずに「個人としての人間が行うべきである行為を決定する合理的な手続き」という点のみで判断すれば、利己主義は非常に強力な理論である、とシジウィックは考えていたようだ。

「もしシジウィックが"倫理学"と"道徳"との区別や私たちが行うべき理由が最もあることと道徳が私たちに行うように要求することとの区別を明確にしていなかったとすれば、ある行為が道徳的に不正であると私たちが言う時、その行為を行わないことについての決定的な理由が存在するということを意味している、とシジウィックは考えていたのかもしれない」(p.20)。

 

 第2章の題名は「理由と行為(Reason and Action)」であり、道徳における理性と感情の役割について論じられているメタ倫理学的な内容の章である。「ある人が道徳的な主張をする時には、その人の欲求や感情が先に存在しているのであり、理性は自分の欲求を満たしたり感情を正当化したりするための手段として使用されるに過ぎない。理性は感情の奴隷であり、一見理性的に聞こえる道徳的主張も感情を正当化したものに過ぎない」といった、デビッド・ヒューム(David Hume)に代表されるような主観主義・非認知主義の立場をシジウィックは否定する。著者らの解説によると、「…あることが正しいという私たちの信念は、行為へと私を導く。たしかに、その信念はある衝動や感情を引き起こすことによって私たちを行為へと導くのだが、それでもなお、動機は理解(cognition/認識)によって生じる場合があるとシジウィックは考えていた…その理解とは、道徳的な判断の真実を理解することである」(p.41)。私なりに要約すると、(1)まず、理性によって認識することができる客観的な道徳的真実が存在している(2)その客観的な道徳的真実を認識するという理性的な営みによって、道徳的な感情(moral feeling)が付随的に生じてくる、というのがシジウィックの主張の要旨であるようだ。また、この「道徳的な感情」は絶対的なものではなく他の様々な感情と競合関係にあり、「道徳的な感情」が生じたとしても他の感情(利己心など)が打ち勝って「道徳的な行為」をしない場合もある、ともシジウィックは主張しているらしい。

 

「客観的な道徳的真実」と言う書き方だとなんだか大層なものに聞こえるが、どうやら、「ある人が現時点で抱いている主観的な欲求や感情」とは独立に「〜という行為をするべきである」という「理由」が存在している、その「理由」を理解することで「現時点で自分が抱いている主観的な感情」とは別に「〜という行為をするべきだという道徳的な感情」が生じる、ということであるらしい。

 著者らは、『普遍的な観点』と同じくシジウィックの議論を取り上げているデレク・パーフィット(Derek Parfit)の著書『On What Matters(重要なものについて)』を参照しながら、客観的な道徳的真実としての「理由」という概念について説明している。この点については以前に私が訳したシンガーの記事に要約的な文章があったので、長くなってしまうがそれを引用する*2

 

…道徳的真実はトートロジーでも無いが経験的なものでも無いという考えは、未だに奇妙に聞こえるものだ。しかし、最近では、デレク・パーフィトが規範的な真実を擁護した注目すべき文章を書いている。

『On What Matters』にて、私たちが知識についての懐疑主義や倫理についての懐疑主義に陥らない限りは、私たちが信念を抱くための理由についての規範的真実が存在することや、望むための理由や行動をするための理由についての規範的真実が存在することを私たちは認めなければならない、とパーフィトは主張している。

 例えば、次の主張について考えてみよう。「ある議論は正当であると私たちが知っており、その議論が正しい前提を持っているなら、その議論の結論を受け入れることについて決定的な理由が私たちにはある」。この主張はトートロジーでもないが経験的な真実でもない、とパーフィトは論じる。この主張は、私たちが信念を抱くための理由についての真の規範的な主張なのである。

『拡大する輪』の第4章にて、私は「従われること(to-be-pursuedness)や「行なわれないこと(not-to-be-doneness)」の可能性が物事の本性に埋め込まれ得ることについてのマッキーの懐疑主義を持ち出している。世界についてのある信念が、その人が持っている望みや欲求にもかかわらず、その信念を抱く人を動機づけることがなぜそもそも可能なのか、ということを理解することにマッキーの議論の難点があるとパーフィトは主張している。

 このことは私にとっても問題であった。オックスファムに募金することは私の人生をはっきり悪くするほどの影響を私には与えず、募金することによって10人の子供の生命を救うことができて彼らの家族が感じている苦しみを大きく軽減することもできる、という信念を私は抱いているかもしれない。だが、この信念は、募金を行うように私を動機付けないかもしれない。なぜなら、私は他人の子供なんて気にもかけないかもしれないからだ。

 だが、パーフィットによると、ある信念が私たちに特定の行動をするための理由を与えるかどうかは規範的な問題であり、その信念が私たちを行動するように動機付けるかどうかは心理的な問題である。

 この例については、オックスファムが援助している人々について私が気にかけないとすれば私にはオックスファムに寄付する理由は何もない、と多くの人々が反論するかもしれない。だから、私がその行動を行うための理由はあるがその行動を行う欲求を私は持っていない、ということを否定するのが更に困難な事例を示そう。

 私はいま歯痛の初期徴候を感じたところであるが、私はこれから歯医者のない離島に行って一ヶ月ほどそこで過ごす予定である。過去の経験に基くと、もし私が今日歯医者に行かないとするならば私は次の一ヶ月間は激しい歯痛に苛まれ続けられる可能性が非常に高いのであり、島の自然美を眺めながらリラックスして過ごすという貴重な機会によって得られる楽しみが妨げられることになるだろう、という信念を私は抱いている。私が今日歯医者に行けば、私は穏やかな不快感を一時間以下味わうことになる。私が今日歯医者に行かないとすれば私は次の一ヶ月間激しい苦痛に苛まれ続けるであろう、という私の知識は、今日歯医者に行くための理由を私に与える。私が歯医者に行かないことによって感じる苦痛を無視することは、非合理的であるのだ。

 この例は、ある人の意識的な生活における全ての部分について偏りなく配慮しないことは非合理的である、というシジウィックによる思慮分別の公理にも一致している。また、この公理をより弱くした形でも…より離れた未来に対してはいくらか少なめに見積もることを認めるとしても、私が今日歯医者に行かないとすれば私は非合理的であると宣告するのに十分な根拠となるだろう。

 しかし、私が現在抱いている欲求については何も言われていないことについて注意をしてほしい。もしかしたら、私は明日や来週に自分に降りかかる出来事よりも、現在や数時間後に自分に降りかかる出来事の方により影響を受けてしまう種類の人であるかもしれないのだ。

 そうすると、もし現在の私が歯医者の診療所の前に立っているとして、私が最も望んていることとは今日受けるほんの僅かの苦痛でも避けることであるかもしれない。来週の私は苦痛に苛まれて島への滞在が台無しになってしまい、今日私が下した決断を後悔するであろうことを、知識としては私は理解している。だが、この瞬間には、来週に関する事実は私の欲求に何の影響も与えないのだ。しかし、来週私が苦痛に苛まれることはそのことを予防するための手段を行うように私を動機付けないという事実は、私には予防するための手段を行う理由があるという主張を無効にしないのだ。

 その理由が存在することを十分に理解している人であっても必ずしもその行動を行うように動機付けられるとは限らないということを認めなければ、ある行為を行うための客観的な理由が存在するという主張への理解が得られないとすれば、私たちは多大な犠牲を払う勝利しか得られないのであろうか?

 私たちには、あなたにはオックスファムに募金する客観的な理由があると言うことができるかもしれないが、もし私たちが募金するようにあなたを動機付けることができないとすれば、貧しい人たちの状況は全く改善されないことになる。しかしながら、客観的な規範的真実という概念を私たちが認めることができるなら、私たちには日々の道徳的直感とは違ったものに頼ることができるようになるのだ。

 

 上述の引用部分でも言及されているが、ヒュームのような主観主義・非認知主義には、突き詰めれば、「死にかけている子供がいたら助けるべきである」と言った根本的で自明であると思われるような道徳的な主張ですらも「私はそうは思わない、私はそうは感じない」と言われしまうと否定される、という問題点がある。主観主義によると、「死にかけている子供がいたら助けるべきである」という主と「野球ではヤクルトスワローズを応援するべきである」という主張はどちらも当人の感情を根拠とした主張であるので、等価である。しかし、「野球ではどの球団を応援するべきであるか」という問題は個人の感情や環境によって答えが変わる恣意的な問題であると言ってもいいし、結局のところどの球団を応援したとしてもそれは大した問題ではない(not really matters, 重要なことではない)。一方で、道徳的な問題とは人々の利害や場合によっては生死が関わる重要な問題であり、ある道徳的な問題について人々はどう判断するべきか/どう行為するべきか、ということには恣意的な感情に依らない理性的な要素があるはずだ(p.48-50)。

 

 また、「〜という行為をするべきである、〜という判断をするべきである」という理由を理解することによって生じる「道徳的な感情」は、「共感(sympathy, empathy)」とは別物である。多くの場合には道徳的な感情と共感は同じ問題に対して起こり、複雑に絡み合っているが、それでも別物なのである。共感は、理性的な道徳判断と相反する判断を導く場合がある。この点については、以前に私が訳したシンガーの記事で言及されている心理学の実験が『普遍的な観点』でも紹介されているので、引用しよう*3

 

共感は私たちに不正な行動をさせる場合がある。ある実験では、被験者たちは病気の末期患者である子供へのインタビューを聞かされた。一部の被験者たちは可能な限り客観的であり続けるように努めることを指示されて、別の被験者たちはその子供が感じていることを想像するように指示された。どちらの被験者たちも、治療の優先順位が高いと査定されている他の子供たちを差し置いて、インタビューをされた子供を治療待ちリストの先頭に移動させたいか、と質問された。子供が感じていることを想像するように指示された被験者たちのうち4分の3はそれを求めたが、客観的であるように指示された被験者たちは3分の1しかそれを求めなかった。

 

 また、心理学者のサイモン・バロン・コーエンやテンプル・グランディンの著作を引用しながら、重度のアスペルガー症候群自閉症である人々は他人の感情を理解する能力(共感)や社会的な作法を理解する能力が欠如しているが、それでも彼らは道徳を理解して道徳的に行為することができること…むしろ、場合によっては過剰に道徳的(hyper-moral)になって自分や他人がルールや秩序に従うことを熱望すること…が言及されている。シジウィックは、仮定的な存在として、感情に影響されずに理性によってのみ道徳的判断を行う「合理的な存在者(ratonal beings as such)」について書いたが、ある意味ではアスペルガー症候群を持つ人々は現実における「合理的な存在者」であるかもしれないのだ(p.59-61)。

 一方、サイコパスの場合には「〜という行為をするべきである」という理由を理解したとしても「〜という行為をするべきだ」という感情が生じない。しかし、多くのサイコパスは道徳的な物事のみならず自己利益に関わることについても、「〜という行為をするべきである」という理由を理解したとしても「〜という行為をするべきだ」という感情が生じないために不合理で自己破壊的な行動をとる。サイコパスはそもそも不合理な存在なのである(p.56-59)。

 

 通常の人の場合は、「〜という行為をするべきである」という理由を理解して「〜という行為をするべきだ」という感情が生じたとしても、自己利益を保ちたいなどの様々な事情から「〜という行為をしなくてもよい/〜という行為をするべきでない」という理由を数多く思い付いてしまい、「〜という行為をするべきだ」という感情が掻き消されしまうことがある。これは、現代の心理学の用語で言うところの「認知的不協和」という現象である。

 一方で、「自分は正しい行為を行っている誠実な人間である」という自己評価(self-esteem)は人間の幸福にとって欠かせない要素であるために、「〜という行為をするべきである」という理由を理解しているのにそれを無視し続けて自己利益を優先した非道徳的な行為をし続ける、ということも難しい。通常の人は、自分のことを非合理的な人間であると他人から思われたくないものだし、自分がある程度以上には合理的な人間であると自分でも思っていたいものである。このことも、「〜という行為をするべきである」という理由を理解することが「〜という行為をする」という行為を導く一因となっているのだ。

 

 第2章までのメモはこんなところ。余談であるが、G.E.ムーアが「シジウィックが既に発見してた/述べていたことを、自分の手柄のように主張していた」と書かれていて扱いが悪いのが印象的だった。ジョン・メイナード・ケインズもムーアの影響でケインズをシジウィックを過小評価していたらしい。

 

 

On What Matters (The Berkeley Tanner Lectures)

On What Matters (The Berkeley Tanner Lectures)

 

 

 

*1:『普遍的な観点』の序文に書かれているエピソードによると、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは『倫理学の方法』を読んでみたたらあまりにも退屈すぎたために、それ以来他の倫理学の本を読むことすらしなくなったらしい。

 

*2:

davitrice.hatenadiary.jp

*3:

davitrice.hatenadiary.jp