ア イ ヌ の 歴 史
658年に阿部比羅夫による「蝦夷征伐」があったことが知られているが、
古くからエゾやアイヌは「まつろわぬ民」として、繰り返し攻撃の対象とされてきた。
(エゾとアイヌの関係については、同一であるという説と異なるという説がある。
いずれにせよ、東北地方にアイヌ語の地名が多く残っていることから、両者は密接な関係があったと思われる)
15世紀になると、奥羽地方北部の諸豪族が津軽海峡を渡って北海道に移り住むようになる。
和人豪族とその家来、商人らは北海道南部の松前や函館に「道南十二館」と呼ばれる12の砦を築く。
移住してきた和人は、アイヌに鮭、昆布、熊や鹿の毛皮などを獲らせ、それを本州に運んで利益を上げていた。
しかし和人はアイヌを脅したり、だましたりして搾取するようになったため、和人とアイヌの間でしばしば抗争が起きるようになった。
1456年には、アイヌの若者が和人に殺害されたことをきっかけに、積もり積もったアイヌの怒りが爆発。
翌57年、指導者コシャマインに率いられたアイヌ軍は、「道南十二館」のうち十館を陥落させることに成功した。
だが、コシャマインとその息子はだまし討ちに会い、射殺される。
その後も和人は、
アイヌ側が優勢になると、和議の酒宴を開いては、その場で酔ったアイヌたちを討つなどという卑怯な策略を駆使して、支配権を確立していった。
つまり、「桃太郎」以来、「悪い鬼」を退治するために常套手段として使われている卑劣な詭計が、
善良なゆえに「愚直」なアイヌに対しても繰り返し行われたのだ。
蝦夷地全島(北海道)の支配権を認可された松前の和人豪族蠣崎慶広は、天下を取った家康にもうまく取り入った。
松前藩とし、1604年に家康から「蝦夷地に出入りする商人その他の者は松前藩の許可が必要であり、
これを破る者は松前藩の手で処刑してもよい」というお墨付きを得る。
松前藩は道南を「和人地」に指定、アイヌを辺境の「蝦夷地」へ封じ込めた。
だが、和人たちはその蝦夷地をも侵食しはじめる。
初めは友好を装っていた和人は、アイヌに対し極端に不平等な産物交換を強要するようになる。
アイヌ側が強制された数量の物産を納入できないと、罰としてさらに不当な交換を強いて、それも達成できないとアイヌの子供を質に取ったりもしたという。
こうした不当な搾取と圧制に、アイヌは再び怒りを爆発させる。
1669年、日高のシペチャリ川(現在の静内川)に城砦を構えたアイヌの統領シャクシャインは、東西のアイヌ二〇〇〇余人とともに一斉蜂起。
和人の交易船などを襲いながら、道南へと攻め入った。アイヌの弓に対し松前藩は鉄砲で応戦。攻勢に転じたのを機にアイヌに和議をもちかけ、酒宴を開いた。
その酒宴の夜、酔ったシャクシャインは斬られ、アイヌは敗北する。
この結果、松前藩によるアイヌへの搾取と圧制は一段と厳しくなる。
アイヌは絶対服従を強いられ、事実上の「奴隷」として使われるようになる。
アイヌから収奪されたイリコ(ホシナマコ)などの産品は、中国への貴重な交易品となった。
18世紀半ばになると、帝政ロシアが千島列島に進出。通商を求めて根室地方にやって来た。
北方からの脅威を感じた幕府は、蝦夷地調査隊を派遣。その調査結果をもとに、幕府内では全国の「穢多(エタ)」7万人を移住させ、
北海道を開拓すべきだとする計画が立案されたが、推進派の老中・田沼意次の失脚もあり、計画そのものが消滅した。
18世紀後半、和人の圧制に対するアイヌ民族による最後の組織的蜂起が起きる。
その背景には、国後島や根室地方など北海道東部の交易権や漁業権を松前藩から手に入れた商人・飛騨屋による、先住民アイヌに対する暴虐・非道があった。
飛騨屋の現場監督は、アイヌ女性を犯したり、命令に従わないアイヌは打ち殺したりした。
1789年、妻を和人に殺されたマメキリを頭にして国後(クナシリ)のアイヌが蜂起、
同様に過酷な労働を強制されていたメナシ(アイヌ語で東方の意)アイヌもこれに加わり、交易所や交易船を次々と襲撃、和人71人を殺害した。
これに対し松前藩は、総勢260余人の鎮圧隊を派遣、アイヌ軍と対峙した。
事態を収拾するため、国後アイヌの長老ツキノエらがほう起したアイヌに武器を置くよう説得し、交渉による穏便な解決をめざした。
ところが松前軍は和人の殺害に加担した38人を特定させ、逃亡した一人を除く37人を見せしめのため処刑、斬首した。このときさらに多くのアイヌが虐殺されたとの説もある。
これが「クナシリ・メナシの戦い」と呼ばれるアイヌ最後の抵抗であった。
これ以後、アイヌは徹底的に管理・弾圧され、山歩きに必要な山刀(タシロ)も取り上げられたという。
当時のアイヌに対する差別と虐待の有様は、旅行家松浦武四郎の『近世蝦夷人物誌』などに詳しく書かれている。
そのほか貴重なアイヌ見聞録としては、菅江真澄の紀行文『菅江真澄遊覧記2』の中の「えぞのてぶり」がある。
アイヌは1871年の戸籍法公布とともに「平民」に編入されるが、戸籍には「旧土人」と記載され、事実上「二級国民」扱いされた。
翌72年にはアイヌの文化や風俗も取り締まり対象となり、女子の入れ墨や男子の耳輪が禁ぜられた。
アイヌの土地も大半は剥奪されたうえ、古来の生業である狩猟や漁業も明治政府により事実上禁止され、違反すれば「密漁」として罰せられることになった。
こうして生活基盤を奪われたアイヌの中には、生きる望みを失う者も出てくる。
生活は困窮し、肺結核や和人が持ち込んだ梅毒が多くのアイヌの生活を蝕んでいった。
アイヌの悲惨な生活状況を「改善」させるという名目で、明治政府は1899年、「北海道旧土人保護法」を公布・施行した。
しかしこの法律はアイヌを徹底的に差別し、アイヌの民族性と文化を著しく損なうものでもあった。
法律により設立されたアイヌ子弟のための小学校にしても、目的は天皇制国家の忠実な「臣民」となるよう、
アイヌ文化やアイヌ語を「撲滅」させることに重点が置かれたようだ。
この法律はまた、農業を営もうとするアイヌは優遇したが、漁業などの生業を営もうとするアイヌにはいっさい援助は出なかった。
ただ、大正期に入ると、明るい兆しも見えるようになる。
和人による不当な弾圧・差別に抗議するアイヌの魂の叫びが、本の出版などを通じて取り上げられるようになったからだ。
これに伴い、アイヌの文化や言語を守ろうとする動きも出てきた。
こうした動きは戦争で中断されるが、太平洋戦争で天皇制帝国主義が崩壊すると、再びアイヌ解放運動の機運が高まる。
世界五大叙事詩のひとつであるともされるアイヌのユーカラも筆録(「金成まつユーカラ集」など)され、
人類の貴重な文化遺産はかろうじて「撲滅」を免れた。
さて、時代を少し遡る。
アイヌがクナシリ・メナシの戦いで最後の抵抗を示していたころ、同じような先住民に対する迫害が18世紀のオーストラリアでも始まる。
1788年、
1044人(大半は流刑囚)の乗ったイギリス船団がオーストラリアに到着、先住民であるアボリジニの土地への侵略と徹底した迫害を白人たちが開始したのだ。
ちょうど和人がアイヌに対してやったように、
白人入植者たちはアボリジニを「野蛮人」(本当は白人こそ野蛮人であった)と見下し、抵抗するものは虐殺しながら、入植地を増やしていく。
白人が持ち込んだ天然痘のような病気や梅毒によってもアボリジニの人口は激減した。
インディアン、アボリジニ、アイヌといった 誇り高き民族がこのころ、地球上で相次いで迫害、虐殺されていたのである。
現在、北方領土問題で日本政府は「北方四島はわれわれ日本人の祖先が開拓したわが国固有の領土」などと称しているが、
アイヌの歴史を知っているなら、
北方領土がアイヌのものであり、つい二〇〇数十年ほど前に和人が侵略、強奪した島であることを認めざるをえないだろう。
真実の歴史を直視する能力があるなら、北方四島はアイヌにこそ返されるべきである。
http://www.k3.dion.ne.jp/~kamishin/Ainurekishi.htm ブリタニカ大百科事典より
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