【あの時・不惑の本塁打王 門田博光】(1)夜中2時からの素振り

2017年1月2日14時0分  スポーツ報知
  • 豪快なフルスイングを見せる南海・門田博光(1987年8月撮影)

 元号が平成に変わる前年の1988年、関西の野球界は激しく揺れ動いた。南海、阪急の老舗2球団がそれぞれダイエー、オリックスに身売りし、近鉄は「10・19」で優勝を逃した。巨人の王監督、阪急の福本、山田、阪神の掛布が同年限りでユニホームを脱ぐ中、強烈な輝きを放ったのが南海の主砲、門田博光だった。40歳の当時の世界記録(現在もプロ野球記録)となる44本塁打をマーク。125打点との2冠でリーグMVPと正力賞に輝いた。「不惑の本塁打王」の闘いを、自身の証言で振り返る。

 王、野村は知っていても「門田を知らない」という人がいる。2人に次ぐプロ野球歴代3位の567本塁打を誇るが、近年は表舞台にほとんど姿を現さない。2005年に脳梗塞で倒れた後、野球解説業を離れた。腎臓を患い、週に4回通院しているが、出歩いたり、日常生活に支障はない。今は人里離れた山中で静かに暮らしている。趣味は枝いじり。勝負師の目はすっかり優しくなった。

 「こんな時代、あったんや」。68歳の門田は、1988年の報知新聞のコピーを手にした。「自分のフォームは汚くて嫌いやから写真は見たない。膝も開いてるし、よくこれで打てたな。意識してたのは当たる瞬間だけやから」。そうつぶやくと、まぶしく輝いた28年前の記憶を呼び起こした。

 「スイングスピード=飛距離」を追い求めた。ヤンキースの永久欠番「44」、レジー・ジャクソンをイメージし、体をひねって目いっぱい強く振った。形は二の次だった。春季キャンプでは、他の選手が寝静まった夜中の2時に毎晩むくりと起き、暗闇の中で3時まで素振りした。2月26日に40歳の誕生日を迎えた88年の呉キャンプもそうだった。

 「鶴の恩返しと一緒。誰にも見られてはいけないし、言ってない。見つからない場所を探して振った」。鏡は見なかった。空気を切り裂く音を確かめた。手のひらのマメはキャンプ中に2度破れた。バットの重さは1キロ。最初は体力が持たず、開幕1か月の4月までしか使えなかった代物だ。1年ごとに1か月ずつ延ばし、7年かけて武器とした。

 「ビュンやブンでなく、音が鳴らないんじゃないかというぐらいの真空状態の音。初めて聞いたときは鳥肌が出た。この音がキャンプ終盤に続けて出るようになると、戦う準備が整う」。引退するまで続けた毎年の確認作業。南海ホークス創立50周年の開幕も自信を持って臨んだ。

 だが、万年Bクラスのチームは球団ワーストの開幕7連敗とつまずいた。10試合目を迎える朝は訃報に接した。4月23日午前6時49分。川勝傳(かわかつ・でん)オーナーが脳梗塞のため、86歳で死去した。「オレの目が黒いうちはホークスを手放さない」が口癖だった。

 門田の開幕10試合を終えた成績は、打率1割5分6厘、1本塁打。元来がスロースターター。「甘い球が来なかっただけ」と焦りはなかったが、名物オーナーの死に「何かが起きるのでは」と胸騒ぎがした。(島尾 浩一郎)=敬称略=

 ◆門田 博光(かどた・ひろみつ)1948年2月26日、山口県生まれ。68歳。奈良・五条中で野球を始め、天理高では3年夏に甲子園出場。クラレ岡山に進み、68年ドラフトでは阪急から12位指名を受けたが入団を拒否し、69年ドラフト2位で南海入団。88年オフにオリックスへトレード。90年オフにダイエーに自由契約で移籍。プロ23年間で通算2571試合に出場し、2566安打の打率2割8分9厘、567本塁打、1678打点。本塁打王3回、打点王2回。06年に野球殿堂入り。左投左打。

あの時
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