日本の「アカウンタビリティ」は「バカウンタビリティ」だ
1.アカウンタビリティーとは
バブルが崩壊した頃から日本では、アカウンタビリティー(説明責任)という言葉がさかんに使われるようになった。これは、カレル・ヴァン・ウォルフレン氏が「日本 権力構造の謎」や「人間を幸福にしない日本というシステム」などで概念を広めたことなどが、きっかけになっている。
Wikipediaによれば、この言葉は元々米国で国民に対し税金の使い道の説明するために生まれた。その後、言葉の定義が拡大され、株式会社の株主に対するアカウンタビリティー、金銭の使途に限らず活動の予定や権限行使の合理的理由に対するアカウンタビリティーなどが考えられるようになった。
確かに、日本の政府は国民に対して十分に政策の意義を伝えずに税の使い道を決めることが多いように感じられるし、株式会社は持ち合い制や生え抜き社員による経営という日本的な仕組みの中で株主に対する説明責任が不十分であった。そういった意味で、この言葉は必然的に流行したと言えるし、それなりに社会を良くしたとも言えるだろう。
しかしここ10年ほどの日本を見ると、どうもアカウンタビリティーが社会にとってマイナスになっているという例を非常に多く見かける気がしてならない。いつの間にか「アカウンタビリティ」は馬鹿みたいな説明を求められる「バカウンタビリティ」になってはいないだろうか。
2. 大学の例
例えば、日本の国立大学の研究費の使い方である。文部科学省の役人と大学職員が責任を逃れるために会計ルールを作った結果、例えば「海外出張費を支払う場合には、航空券の半券を提出するのみならず、かかった費用のうち各国の政府に払った税金がいくらであるかをそれぞれ計算すること」などという摩訶不思議なルールができている例もあるという。
確かに大学には多額の税金が投入されておりその使い道はきちんと国民に分かるようになってなければならない。しかし、本当に必要なのは、もっと本質的にどういった目的のためにお金が使われているかという説明ではないだろうか。
例えば、数学科を例にとろう。数学には古代から続く「文化としての側面」と「科学や工学の記述言語としての側面」がある。多くの数学者は文化としての数学を重んじるが、多くの国民が税金を投入してやって欲しいのは主に科学や工学を支えるための数学教育だろう。そこで数学科に求められるアカウンタビリティーとは、例えば「学部向け設置科目は卒業生が就職した企業の7割から賛同を得ています」とか「文化としての側面にもリソースを割いていますが、学科外から要請された設置科目で十分に収益を上げています」という説明だろう。
教授が使った海外出張費の内訳を仔細に計算しても誰にも利益がないし、その結果、本来、教育や研究に使うべき人的リソースを事務手続きに使ってしまっては本末転倒である。
3. 企業の例
企業で従業員が使う経費についても意味もなく細かい説明を求められている例が結構ある。これは単なる損失しか生まないことが多い。
ある企業では、海外転勤の際に渡していた数十万円の支度金を使途が不明瞭である(あるいは転勤のない従業員との公平性を欠く)として廃止して、実費を支給することにした。その結果、実費支給になったのを良いことに、ピアノを海外配送したり、ほんの数千円で買えるようなかさばる家電や家具を大量に送る社員が現れた。しかも、実費支給であるから申請側にも受け付ける側にも余計な手間がかかる。実は、かつての支度金は全く十分な額ではなく、従業員は工夫を重ねて何とか持ち出しが出ないようにしていたのだという。
確かに実費支給は公平で透明な制度ではあるが、経済的にはデメリットばかりである。アカウンタビリティーには非常にコストがかかるのである。そういうことは、すぐに政府や企業を叩く人達には理解できないのだろう。
4.まとめ
アカウンタビリティーという概念が、日本社会の仕組みが国民のためになっていないという反省から広まったのは事実だろう。しかし現在では、経済停滞と格差拡大から生まれた人々の不寛容さや、細部に拘る日本人の国民性が、アカウンタビリティーという概念をコストばかり生む馬鹿らしいものにしてしまっている。政府や企業を運営する人は、形式にこだわったり、責任転嫁を目的とするのではなく、よりよい社会の実現という本来の目的のためにアカウンタビリティーを意識して欲しいものだ。
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