紙幣自体に価値がないことは証明されている
人はカネがなくなると、入ってくる情報の質が悪くなり、思考力が落ちるものだ。そしてカネがさらに減っていく悪循環に陥り、結果的に悪いカネに頼らざるを得なくなる。
カネがない悪循環に陥る原因は、環境がどうのという以前に、そもそも良質な情報を得る努力を怠っているからだ。
『中年会社員くん』編で、浪費を続ける中年サラリーマンの行く末を案じる部下に対して、ウシジマは「金は使ってこそ意味がある。金自体に価値はねえよ」と説いた。カネとは信用を数値化したものにすぎず、1万円札の紙切れ自体には、28円の換金価値もないのだ。(『闇金ウシジマくん』中年会社員くん編は29巻)
情報は入ってくるものではない。こちらから、取りに行くものだ。仕事やカネで失敗し、いつまでも悪い環境から抜け出せないような人は、環境に負けたのではなく、単純に情報弱者なのだ。情報弱者だから、カネの本質というものをまるでわかっていない。
おそらくカネを札束か、硬貨の山だと思っている。まったく違う。いろんなところで語っているが、あらためてカネの本質について説いておきたい。
カネは大きく、狭義のカネと広義のカネに分けられる。多くの人がイメージするお金とは、たいてい狭義の方だ。日本銀行券。せいぜいドル、ユーロあたりの紙幣のことだろう。
広義的には株券、土地の権利書も、カネと言える。換金性の高いもの、例えばブランドモノのバッグ、宝石とか、ゴールドもそう。Tポイントもカネと言えば、カネになるだろう。多くの人が価値ありと認めるものを一括して、誰でも万能で使えるようにしたのが紙幣、すなわちバンク・ ノートだ。
成り立ちの歴史を遡っていくと、もっと本質が見えてくる。
1897年、日本銀行は日本銀行兌換券を発行した。これは政府が同額の金貨と交換することを保証した、兌換紙幣だった。金本位制の始まりだ。その後、1931年の金貨兌換停止が決まるまで、金本位制の時代が続いた。
この兌換券が日本の紙幣の元であり、紙幣そのものには何の価値もない事実を示している。兌換のシステムが、カネの始まりと言える。
もともと、物々交換では効率が悪いからと、イスラム圏のユダヤ人が10~15世紀ぐらいにかけて、現在の流通貨幣の概念を生み出した。カネは物を交換する信用手形の機能を持った、人類の発明品だったわけだ。
中国では、貝が貨幣として使われていた。カネに関する漢字に、貝偏が使われているのは、その時代の名残だ。なぜ貝だったのか。内陸地の広い中国では、金銀と同様、貝は希少性が高かったのだ。希少だからこそ、モノとしての信用が高かった。
そして現代では、カネはモノではなく、デジタルデータでも代用できるようになった。
私のように、日常の買い物手段はクレジットカードのみで、ほとんど現金を使わない人もいるだろう。カードがなくても、カネのやりとりをオンライン上で済ますこともできる。紙幣・貨幣そのものには何の価値もないことの証明だ。
カネは信用を数値化したものにすぎない
すなわちカネとは、信用だ。モノを手に入れる、人に貸す、ビジネスを進めるなど、必要な求めに応じてくれる信用を、国家が数値で保証している。モノとしての実体なんて、別になくてもかまわない。
信用、それ自体が本質なのだ。
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