この世界の片隅で(山代巴 編)
どこへいったかなと、ある本を探して本棚をすみずみまで眺めていると、こんな本あったっけという古い本に目が留まる。『この世界の片隅で』って、こうの史代のマンガと同じタイトルか?と思ったら、そっちは『この世界の片隅に』だった。それにしてもよく似たタイトルである。
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古くてびっくり、1965年7月刊の岩波新書。しおりヒモがついていて(今の岩波新書にはついてない)、ついでに岩波の新刊案内と、岩波のPR誌「図書」の購読申込書ハガキも挟まれたままだった。値段は150円。中の活字も、今の岩波新書に比べてかなり小さい。
この本は、もとはおそらく父のものだったのを、父が処分するという山から私がもらってきて本棚に入れていたやつだ。
古くてびっくり、1965年7月刊の岩波新書。しおりヒモがついていて(今の岩波新書にはついてない)、ついでに岩波の新刊案内と、岩波のPR誌「図書」の購読申込書ハガキも挟まれたままだった。値段は150円。中の活字も、今の岩波新書に比べてかなり小さい。
この本は、もとはおそらく父のものだったのを、父が処分するという山から私がもらってきて本棚に入れていたやつだ。
帯(裏表紙側)にはこうある。
▼1945年8月6日,広島が経験した悲惨は,日本人の歴史の一転機となった.本書は,「広島研究の会」の人々が現地に住みつつ,被爆者の真実の姿を掘り起こした書.原爆によるさまざまな苦悩と闘いながら,この20年を生き抜いてきた多数の被爆者たち─置去りにされ,片隅に埋没したその人々の実態は,日本人全体の平和に対する思考の盲点をつき,われわれの連帯意識に鋭く反省を迫る.
目次と各章の筆者:
相生通り・・・・・・・・・・・・・・文沢隆一
福島町・・・・・・・・・・・・・・・多地映一
IN UTERO・・・・・・・・・・・・・風早晃治
病理学者の怒り・・・・・・・・杉原芳夫
あすにむかって・・・・・・・・・山口勇子
原爆の子から二十年・・・・・小久保均
ひとつの母子像・・・・・・・・・山代巴
沖縄の被爆者たち・・・・・・・大牟田稔
あ、これは読もうと思い、前から順に全部読んでから、こうの史代の『夕凪の街 桜の国』をよみ、『この世界の片隅に』をよんだ。
『夕凪の街 桜の国』の巻末に「おもな参考資料」とあげられている本のふたつめに、山代巴ほか編の「原爆に生きて」が入っている。こうのが参照しているのは日本図書センターの『日本の原爆記録・三』だが、径書房から1991年に出ている山代巴文庫に同じタイトルの『原爆に生きて』があり、そこには、この岩波新書の内容と同じか、それを補足したものが入っているようだ(近いうちに図書館で借りてみるつもり)。
この古い新書を読んでいて、こうの史代はたぶんこれを読んでるんやなあと思った。たとえば最初の「相生通り」は、現在の相生通りとは別物で、"原爆スラム"ともよばれた相生通りのことである(「夕凪の街」の主人公・皆実が住んでいるところである)。
文沢隆一は、その相生通りに部屋を借りて住んで、まず隣家から訪問しながら、被爆者と会い、被爆者の話を聞いてこの章を書いた。こうのが描いた「夕凪の街」(被爆から10年後という設定)では、相生通りのバラックのあちこちに「立退き絶対反対」というビラが貼ってある。
ふたつめの「福島町」は、部落差別の問題をとりあげた章である。この町は、「西日本有数の未解放部落」として、周囲から差別を受けてきた。「広島研究の会」は、ここでも部屋を借りて住み、町の人たちと会い、話しあった。
爆心地からそう遠くなかった福島町は、市内中心部の他の町と同じように灰燼に帰した。だが、そこからの復興の過程には、差別が抜きがたくあったというしかない。昭和39年(1964年)6月の雨で、広島全市のうち、この町だけが床上浸水した。
町内でもっとも強硬に"差別は昔話"を主張していた人たちが、旅に出て、飛行機から広島市を見おろしたとき、「福島町だけが、穴ボコみたいに黒く見えた」(p.35)という。「"良いことは一番あと、悪いことは一番さき"というのが、ぼくらの置かれている立場です」(p.39)と、町の人が語る。
編者の山代巴は「まえがき」の中で、本のタイトルについてこう書いている。
▼この本の名を、『この世界の片隅で』ときめました。それは福島町の人々の、長年にわたる片隅での闘いの積み重ねや、被爆者たちの間でひそやかに培われている同じような闘いの芽生えが、この小篇をまとめさせてくれたという感動によるものであります。現地の片隅での闘いが私どもを変化させた力は大きく、「広島研究の会」は、どこまでも現地に密着して、中断することのない研究を進めなければならないと思われます。(pp.xv-xvi)
みっつめの章「IN UTERO」は、胎内被爆児のことを伝える。妊娠中に被爆した母親から産まれた子どもに小頭症がみられた。小頭児の親たちは、これが被爆によるものだと証明される機会もなく、一人ひとりが孤立していた。「広島研究の会」のはたらきかけもあり、親たちが集まり、顔を合わせて親の会(きのこ会)がうまれた。「この子らは原爆によってこうなったのだという証明がほしい」、そして「この子たちに終身保障を」という運動が始められた。
よっつめの章「病理学者の怒り」は、原爆症に対するあやまった認識のために、被爆者に対する偏見や差別が生じていることを、正そうと書かれている。
原水禁運動のなかで、被爆者の悲惨さを強調するために、不幸な部分ばかりが伝えられているのではないかということ。それは「あたかも被爆者のすべてが白血病やガンという不治の病気にかかるものときめこんだり、被爆者の子供はすべて畸形児であると思いこんだりする傾向」(p.102)としてあらわれ、「しかも救援運動に熱心なあまりか、被爆者が救いがたい悲惨さのなかに呻吟していなければ気のすまない人々さえいます」(p.102)というのだ。
▼「たしかに肉体的にも精神的にも、この上なく気の毒な被爆者が多数います。だがそのような悲惨な人々の実相が、全被爆者の姿ではありません。…被爆者だけが病気ばかりしているわけでもないのに、すべての被爆者を病弱だろうと言って、就職を拒否することこそ、悲惨なのです」(p.103)
こうのが「桜の国」で描いたのは、病気もせずピンピンして暮らしている、「死にもせず病気にもならない」(『夕凪の街 桜の国』の文庫版あとがき)被爆二世の姿でもあった。
いつつめ、むっつめ、ななつめの章は、原爆孤児のこと、そして女子どもで戦後を生きのびてきた母子のことが書かれた章である。
「たいていのものは話半分だが、あれだけはかならず話のほうが小さい」(p.143、下線は本文では傍点)というのが原爆なのだ。
そして、最後の章は、沖縄にもいる被爆者の話が書かれる。この本が出たのは、まだ沖縄が米軍占領下にある頃である。被爆による傷を「原爆だ」と言っても、原爆のことが報道されていないために分かってもらえないこと。米軍支配下では、本土復帰運動も平和運動もむずかしいこと。
こうの史代の『この世界の片隅に』では、遊郭ではたらく、りんという女性が登場する。この沖縄の章を読んでいて「当時の広島には沖縄の女の人がかなり流れ込んで、大半が遊郭のようなところで生活をしていました」(p.200)というのを読んで、こうのは広島を描く際に、意識して遊郭で暮らす女性を登場させたのかもしれないと思った。
私はいま、図書館で借りてきた小熊英二の『1968』の上巻を休みやすみ(上巻だけで1000ページ以上あり、本が重すぎて読みづらい)読んでもいるが、この1965年に出た古い新書を読みながら、これはほんまに同じ時代なんやろうかと思った。
『1968』は、"あの時代"の始まりとして、1964年の慶大での学費闘争をあげ、1968年の日大闘争や東大闘争に代表される大学紛争と全共闘を、ものすごいページ数で書こうとしている。こっちを読んでいると、世の中は高度成長で、子どもらはものすごい受験戦争にもまれ、どこかで「いま、現代」の原点につながっているような感じがするが、『この世界の片隅で』を読んでいると、そんな世界が同じ国の同時代とはとても思えないのだ。
▼1945年8月6日,広島が経験した悲惨は,日本人の歴史の一転機となった.本書は,「広島研究の会」の人々が現地に住みつつ,被爆者の真実の姿を掘り起こした書.原爆によるさまざまな苦悩と闘いながら,この20年を生き抜いてきた多数の被爆者たち─置去りにされ,片隅に埋没したその人々の実態は,日本人全体の平和に対する思考の盲点をつき,われわれの連帯意識に鋭く反省を迫る.
目次と各章の筆者:
相生通り・・・・・・・・・・・・・・文沢隆一
福島町・・・・・・・・・・・・・・・多地映一
IN UTERO・・・・・・・・・・・・・風早晃治
病理学者の怒り・・・・・・・・杉原芳夫
あすにむかって・・・・・・・・・山口勇子
原爆の子から二十年・・・・・小久保均
ひとつの母子像・・・・・・・・・山代巴
沖縄の被爆者たち・・・・・・・大牟田稔
あ、これは読もうと思い、前から順に全部読んでから、こうの史代の『夕凪の街 桜の国』をよみ、『この世界の片隅に』をよんだ。
『夕凪の街 桜の国』の巻末に「おもな参考資料」とあげられている本のふたつめに、山代巴ほか編の「原爆に生きて」が入っている。こうのが参照しているのは日本図書センターの『日本の原爆記録・三』だが、径書房から1991年に出ている山代巴文庫に同じタイトルの『原爆に生きて』があり、そこには、この岩波新書の内容と同じか、それを補足したものが入っているようだ(近いうちに図書館で借りてみるつもり)。
この古い新書を読んでいて、こうの史代はたぶんこれを読んでるんやなあと思った。たとえば最初の「相生通り」は、現在の相生通りとは別物で、"原爆スラム"ともよばれた相生通りのことである(「夕凪の街」の主人公・皆実が住んでいるところである)。
文沢隆一は、その相生通りに部屋を借りて住んで、まず隣家から訪問しながら、被爆者と会い、被爆者の話を聞いてこの章を書いた。こうのが描いた「夕凪の街」(被爆から10年後という設定)では、相生通りのバラックのあちこちに「立退き絶対反対」というビラが貼ってある。
ふたつめの「福島町」は、部落差別の問題をとりあげた章である。この町は、「西日本有数の未解放部落」として、周囲から差別を受けてきた。「広島研究の会」は、ここでも部屋を借りて住み、町の人たちと会い、話しあった。
爆心地からそう遠くなかった福島町は、市内中心部の他の町と同じように灰燼に帰した。だが、そこからの復興の過程には、差別が抜きがたくあったというしかない。昭和39年(1964年)6月の雨で、広島全市のうち、この町だけが床上浸水した。
町内でもっとも強硬に"差別は昔話"を主張していた人たちが、旅に出て、飛行機から広島市を見おろしたとき、「福島町だけが、穴ボコみたいに黒く見えた」(p.35)という。「"良いことは一番あと、悪いことは一番さき"というのが、ぼくらの置かれている立場です」(p.39)と、町の人が語る。
編者の山代巴は「まえがき」の中で、本のタイトルについてこう書いている。
▼この本の名を、『この世界の片隅で』ときめました。それは福島町の人々の、長年にわたる片隅での闘いの積み重ねや、被爆者たちの間でひそやかに培われている同じような闘いの芽生えが、この小篇をまとめさせてくれたという感動によるものであります。現地の片隅での闘いが私どもを変化させた力は大きく、「広島研究の会」は、どこまでも現地に密着して、中断することのない研究を進めなければならないと思われます。(pp.xv-xvi)
みっつめの章「IN UTERO」は、胎内被爆児のことを伝える。妊娠中に被爆した母親から産まれた子どもに小頭症がみられた。小頭児の親たちは、これが被爆によるものだと証明される機会もなく、一人ひとりが孤立していた。「広島研究の会」のはたらきかけもあり、親たちが集まり、顔を合わせて親の会(きのこ会)がうまれた。「この子らは原爆によってこうなったのだという証明がほしい」、そして「この子たちに終身保障を」という運動が始められた。
よっつめの章「病理学者の怒り」は、原爆症に対するあやまった認識のために、被爆者に対する偏見や差別が生じていることを、正そうと書かれている。
原水禁運動のなかで、被爆者の悲惨さを強調するために、不幸な部分ばかりが伝えられているのではないかということ。それは「あたかも被爆者のすべてが白血病やガンという不治の病気にかかるものときめこんだり、被爆者の子供はすべて畸形児であると思いこんだりする傾向」(p.102)としてあらわれ、「しかも救援運動に熱心なあまりか、被爆者が救いがたい悲惨さのなかに呻吟していなければ気のすまない人々さえいます」(p.102)というのだ。
▼「たしかに肉体的にも精神的にも、この上なく気の毒な被爆者が多数います。だがそのような悲惨な人々の実相が、全被爆者の姿ではありません。…被爆者だけが病気ばかりしているわけでもないのに、すべての被爆者を病弱だろうと言って、就職を拒否することこそ、悲惨なのです」(p.103)
こうのが「桜の国」で描いたのは、病気もせずピンピンして暮らしている、「死にもせず病気にもならない」(『夕凪の街 桜の国』の文庫版あとがき)被爆二世の姿でもあった。
いつつめ、むっつめ、ななつめの章は、原爆孤児のこと、そして女子どもで戦後を生きのびてきた母子のことが書かれた章である。
「たいていのものは話半分だが、あれだけはかならず話のほうが小さい」(p.143、下線は本文では傍点)というのが原爆なのだ。
そして、最後の章は、沖縄にもいる被爆者の話が書かれる。この本が出たのは、まだ沖縄が米軍占領下にある頃である。被爆による傷を「原爆だ」と言っても、原爆のことが報道されていないために分かってもらえないこと。米軍支配下では、本土復帰運動も平和運動もむずかしいこと。
こうの史代の『この世界の片隅に』では、遊郭ではたらく、りんという女性が登場する。この沖縄の章を読んでいて「当時の広島には沖縄の女の人がかなり流れ込んで、大半が遊郭のようなところで生活をしていました」(p.200)というのを読んで、こうのは広島を描く際に、意識して遊郭で暮らす女性を登場させたのかもしれないと思った。
私はいま、図書館で借りてきた小熊英二の『1968』の上巻を休みやすみ(上巻だけで1000ページ以上あり、本が重すぎて読みづらい)読んでもいるが、この1965年に出た古い新書を読みながら、これはほんまに同じ時代なんやろうかと思った。
『1968』は、"あの時代"の始まりとして、1964年の慶大での学費闘争をあげ、1968年の日大闘争や東大闘争に代表される大学紛争と全共闘を、ものすごいページ数で書こうとしている。こっちを読んでいると、世の中は高度成長で、子どもらはものすごい受験戦争にもまれ、どこかで「いま、現代」の原点につながっているような感じがするが、『この世界の片隅で』を読んでいると、そんな世界が同じ国の同時代とはとても思えないのだ。
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