人間か、 人工知能か―― 検索エンジンで有名な世界最大のインターネット会社“ブルーブック”でプログラマーとして働くケイレブは、巨万の富を築きながらも普段は滅多に姿を現さない社長のネイサンが所有する山間の別荘に1週間滞在するチャンスを得る。
まず冒頭の構成が素晴らしい。
IT企業らしき社内→主人公ケイレブのモニターに「当選」のアラート(カメラの映像に様子を監視されている描写)→スマフォでチャット。同僚が駆け寄ってきてみんなで喜ぶ(当選は嬉しいことだとわかる。チャットの「連れてって」でどこかへ行くのだと示唆)→雪原を飛ぶヘリ→ケイレブがパイロットに「別荘にはいつ着くんだ?」と聞くと「2時間前から別荘の上空だよ」と答える(大金落ちであるとわかる)→草原に到着→森を抜け、河にそっていく、スマフォは圏外→やがて木造の建物の入り口に。
ここまで冒頭から4分。
余計な説明セリフなどはない。
にも関わらずさまざまな前提が観客に知らされている。
・抽選により別荘に招待される主人公
・それは名誉なことらしい
・別荘の敷地は広大(大金持ち)
・圏外(多分、有線以外の通信手段はない)
・別荘の主人は変わり者
以下はネタバレも有りつつ。
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この映画は有機と無機の対比が多く行われてる。
エヴァの姿は顔は女性でしかし頭部はむき出し、乳房はあるが胴と四肢はクリスタルボーイ状態。
もちろん「人間らしさ」を最も感じるのが表情だからだし「どこに人間っぽさがあれば人間らしさを感じるか」という最低限の部位。
ネイサンの倫理観を疑うような構成になっているが、元々ケイレブは外部の人間であり与えられている情報はあくまでも自己の推論によるところが大きい。
これが仮にPCの中だけの人工知能だったらケイレブは同情もしていない。
人間は仕草や表情に「人間らしさ」を感じ同情してまうように出来ている(そうプログラムされている)。
少し古いCMだがこのCMでは捨てられたスタンドを演出だけでまるで寂しい存在のように見せる。
壊れた家電や古い家電を捨てるなんて誰でもやるし「かわいそう」とは思わない。
しかし少し映像や音楽の演出を行うだけでモノが可哀想に思える。
だとすれば機械に顔があり、表情があったらどうだろうか。
無機的に装飾を廃した建物と窓から覗く静謐な針葉樹。
そんな別荘の家主はひたすら己の体を鍛え酒を飲む有機的な存在。
ネイサンと東洋系メイドが踊るシーン。
踊りはとても有機的な行為であり、肉体を誇示する行為。
しかし同時に無機的なロボットにも躍らせるのは一般的。
間接などの動き(制御系)が明確に見えるためにこれを行わせることが多いのかもしれない。
コピーされ作られた人格は元々人間であったもので、そこに意識もある。
だとすればそこ電気信号による人格に自我が存在すれば果たして人権は倫理的に認められるのか。
人間が自由を求めるのはそれが人間として生まれ育つからだが、人間を模したAIが自由を求めるとすればその理由は何か?
勝手に自己投影しているケイレブはかなり浅薄。
エヴァは閉じ込められている、自由を求めている、そう感じケイレブは行動するがメンテナンスが必要な身体を持つ存在にとっての「自由」とはなんなのか、勝手に倫理観に燃えているケイレブはかなりの確率でDT。
つか、数日喋ったAIにあっさり恋して逃がそうとして、恋は盲目だからプログラム書き換えるとか、ケイレブの実験成功しすぎだが天才研究者の割にDTの行動力を甘く観過ぎ、詰めが甘い。
こんなことならロボット三原則を仕込んどくべきだったし、やっぱりアイザック・アシモフは偉大。
人工知能が殺人を犯すというの行為は「人間らしく」なったことを示唆している。
欲望、恨み、憎しみ、もしかすると単に「邪魔な対象を排除する」という選択結果でしか無いのかもしれないがクオリアを確認できない行動的ゾンビの人工知能がどのような動機で殺人を犯したのかはわからない。
わからないが外部観察的に殺人は「人間らしい」行為の一つと言える。
キム・ギドクの映画「弓」を思い出した。
老人と口の聞けない少女が釣り船屋を営み暮らしている。
あるとき、釣り客として一人の若者がやってくる。
そこで少女は若者に惹かれ、釣り船を去ろうとするが老人は自死を図る。
老人と少女、という歪な関係性(コミュニティ)が外部からの要素によって崩壊する。
「弓」は暗喩として神話的なもの(愛染明王など)が存在するが、こちらの「エクスマキナ」にもギリシャ神話がそこここに見えるし、そもそもタイトルのエクスマキナも「デウス・エクス・マキナ」だろう。
広大な、情報に満ちた世界に飛び出した人工知能。
最後にこのセリフで終わる。
童のときは語ることも童のごとく、
思うことも童のごとく論ずることも童のごとくなりしが、
人となりては童のことを捨てたり
GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊