2003年2月に盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権が発足してからの1年余り、韓国と米国の間には一つ一つがメガトン級の破壊力を持った安全保障関連の懸案が次々に浮上した。韓米同盟よりも自主性を重視した盧政権は米国と神経戦を繰り広げ、危うい駆け引きを続けた。
特に03年6月、ローレス米国防副次官補が韓国青瓦台(大統領府)を訪れ、金熙相(キム・ヒサン)国防補佐官と潘基文(パン・ギムン)外交補佐官に対し、在韓米軍の兵力3万7500人のうち1万2500人を06年までに段階的に削減すると通知したことは青天の霹靂(へきれき)だった。1970年代初め、朴正熙(パク・チョンヒ)大統領に自主国防を決意させた在韓米軍第7師団の撤退以来、最大規模となる削減計画だったためだ。
韓国政府は当時、波紋が広がることを恐れて在韓米軍の削減問題をしばらく極秘扱いとすることを決めた。盧大統領は同年7月、ブッシュ米大統領に削減をめぐる議論の一時中断を求める親書まで送った。親書は、国内外の論争を避けるため、同年10月の韓米首脳会談で協議するまで削減の議論を一切しないことを提案するものだった。国内外で在韓米軍の削減が検討されているという報道が相次いだが、両国政府はしばらく「事実無根」ととぼけ続けた。
盧政権で国家安全保障会議(NSC)事務次長などを歴任したイ・ジョンソク元統一部(省に相当)長官の著書には、こうした状況が詳しく描写されている。約3600人の兵力を送ったイラクへの追加派兵も、盧政権では非常に難しい決断だった。同政権で発生した一連の外交・安保事案は、盧大統領が言及したように政治と統治は異なり、批判者と大統領というポストもまた違うということを如実に示している。