遭難「奇跡のサバイバル」の決断とは
奈良県南部の山で遭難し、13日後に奇跡的に救助された島根県の土木部長冨樫篤英さん(53)。26日、80日ぶりに職場に復帰しました。なぜ、しっかり計画していたはずの登山で遭難してしまったのか、13日後までどうやって生き延びたのか、そして、生死を分けたポイントは何だったのか。そこには、多くの登山者にも教訓となる、緊急事態での「決断」がありました。26日、その日々を赤裸々に語りました。
冨樫さんの趣味は登山。登り切って、山頂から見る風景は、何ものにも代えがたいといいます。登山歴は6年ほどで、これまでに20ぐらいの山に登りました。以前いた東京では、登山仲間と登っていましたが、島根県に来てからは周りに登山を趣味とする人がいないため、単独行が多いといいます。
今回も単独行で山頂を目指しました。大峰山系(おおみね)の弥山(みせん・標高1895メートル)に登ったのは、10月8日でした。前日に宿に泊まり、登山口の近くまではバスで行ったということです。登山地図だとそこから山頂まで7時間ほど。日帰りは難しいと見て、山頂近くの小屋で1泊して翌日降りる計画を立てました。ただ、天候は当初考えていたより、かなり悪くなると見られたため、慎重に登ろうと思ったということです。途中から雨が振り出し、用意しておいたカッパを着て登りました。その日は特に問題もなく、午後4時には弥山小屋に着き、そこで1泊しました。
今回も単独行で山頂を目指しました。大峰山系(おおみね)の弥山(みせん・標高1895メートル)に登ったのは、10月8日でした。前日に宿に泊まり、登山口の近くまではバスで行ったということです。登山地図だとそこから山頂まで7時間ほど。日帰りは難しいと見て、山頂近くの小屋で1泊して翌日降りる計画を立てました。ただ、天候は当初考えていたより、かなり悪くなると見られたため、慎重に登ろうと思ったということです。途中から雨が振り出し、用意しておいたカッパを着て登りました。その日は特に問題もなく、午後4時には弥山小屋に着き、そこで1泊しました。
10月8日(土)「計画どおりなら1泊だ」
冨樫さんの趣味は登山。登り切って、山頂から見る風景は、何ものにも代えがたいといいます。登山歴は6年ほどで、これまでに20ぐらいの山に登りました。以前いた東京では、登山仲間と登っていましたが、島根県に来てからは周りに登山を趣味とする人がいないため、単独行が多いといいます。
今回も単独行で山頂を目指しました。大峰山系(おおみね)の弥山(みせん・標高1895メートル)に登ったのは、10月8日でした。前日に宿に泊まり、登山口の近くまではバスで行ったということです。登山地図だとそこから山頂まで7時間ほど。日帰りは難しいと見て、山頂近くの小屋で1泊して翌日降りる計画を立てました。ただ、天候は当初考えていたより、かなり悪くなると見られたため、慎重に登ろうと思ったということです。途中から雨が振り出し、用意しておいたカッパを着て登りました。その日は特に問題もなく、午後4時には弥山小屋に着き、そこで1泊しました。
今回も単独行で山頂を目指しました。大峰山系(おおみね)の弥山(みせん・標高1895メートル)に登ったのは、10月8日でした。前日に宿に泊まり、登山口の近くまではバスで行ったということです。登山地図だとそこから山頂まで7時間ほど。日帰りは難しいと見て、山頂近くの小屋で1泊して翌日降りる計画を立てました。ただ、天候は当初考えていたより、かなり悪くなると見られたため、慎重に登ろうと思ったということです。途中から雨が振り出し、用意しておいたカッパを着て登りました。その日は特に問題もなく、午後4時には弥山小屋に着き、そこで1泊しました。
10月9日(日)突然「見失った!」そして…
寝ている間に風雨がかなり強くなり、午前2時か3時ぐらいには、「これは下山の時に大変だな」と思ったということです。
午前5時に起床。朝食をとって、6時20分に出発しました。下山には、八経ヶ岳を通るルートを選びました。冨樫さんは、登山をする時、全体の計画表を作って、それをチェックしながら登ったり下りたりしているといいます。午前8時50分ごろまでは順調で、あらかじめ決めていた場所に予定より1時間早く到達したことから、かなり余裕を持って下りられると思っていました。
ところが、混乱は突然、訪れました。きっかけは、登山道を歩くうち、いきなりブナの原生林が広がっている場所に出たことです。ここまでは、ところどころに看板や表示があり、こちらが登山口、こちらが頂上と示された上で、ルートは「赤いテープ」で表示されていました。しかし、ここにきて、赤いテープが見つかりません。「登山道を見失ってしまった。どうしよう。立ち止まろうか」そう思ったといいます。ただ、前日、山頂の小屋に泊まっていたのはわずか9人で、下山のルートも3つほどあり、どのコースを下りてくるが分からないし、雨が降る状況では、登ってくる人も少ないだろうと考えたといいます。「ここで待っていても、誰にも会わないかもしれない」。待っているよりルート探そうと思いました。地図を広げ、ルート探しながら周囲を歩きましたが、赤いテープは見つかりません。それどころか、看板のところに戻ろうとしても戻れなくなりました。「完全に道に迷った」そう感じた瞬間でした。それでも、自力でルートを探すしかないと思い、地図とコンパスを使って1時間ほど歩いたといいます。すると、目の前に崖が。気が付くと、冨樫さんは、滑落してしまいました。壁のような崖は10メートルほどの高さで、その下にさらに「ガレ場」と言われる岩やれきが転がる急な斜面があり、そこを滑り落ちたということです。なんとか止まろうと、岩や木を必死につかみ、ようやく止まりましたが、木の枝で額をこすったためか、かなりの出血をして、そのまま気絶してしまったといいます。
午前5時に起床。朝食をとって、6時20分に出発しました。下山には、八経ヶ岳を通るルートを選びました。冨樫さんは、登山をする時、全体の計画表を作って、それをチェックしながら登ったり下りたりしているといいます。午前8時50分ごろまでは順調で、あらかじめ決めていた場所に予定より1時間早く到達したことから、かなり余裕を持って下りられると思っていました。
ところが、混乱は突然、訪れました。きっかけは、登山道を歩くうち、いきなりブナの原生林が広がっている場所に出たことです。ここまでは、ところどころに看板や表示があり、こちらが登山口、こちらが頂上と示された上で、ルートは「赤いテープ」で表示されていました。しかし、ここにきて、赤いテープが見つかりません。「登山道を見失ってしまった。どうしよう。立ち止まろうか」そう思ったといいます。ただ、前日、山頂の小屋に泊まっていたのはわずか9人で、下山のルートも3つほどあり、どのコースを下りてくるが分からないし、雨が降る状況では、登ってくる人も少ないだろうと考えたといいます。「ここで待っていても、誰にも会わないかもしれない」。待っているよりルート探そうと思いました。地図を広げ、ルート探しながら周囲を歩きましたが、赤いテープは見つかりません。それどころか、看板のところに戻ろうとしても戻れなくなりました。「完全に道に迷った」そう感じた瞬間でした。それでも、自力でルートを探すしかないと思い、地図とコンパスを使って1時間ほど歩いたといいます。すると、目の前に崖が。気が付くと、冨樫さんは、滑落してしまいました。壁のような崖は10メートルほどの高さで、その下にさらに「ガレ場」と言われる岩やれきが転がる急な斜面があり、そこを滑り落ちたということです。なんとか止まろうと、岩や木を必死につかみ、ようやく止まりましたが、木の枝で額をこすったためか、かなりの出血をして、そのまま気絶してしまったといいます。
目が覚めると「動けない」
どれくらい気絶していたのか、覚えていないといいます。
目が覚めて、時計を見ようとしたら、なくなっていました。
自分は大けがをしたのだろうか。胸が苦しい。左の脇腹も相当痛く、息をするのも苦しい。肋骨折れたことがすぐに分かりました。腰も相当痛い。すぐに起き上がるのは無理で、傷が癒えるまでその場にいなければと思い、1日半ほど、じっとしていたといいます。
下山にあたって、1リットルの水を持ってきていました。胸の痛みのために食欲はなく、その水を飲んで渇きを癒やしていましたが、1日半ほどの間に飲み干してしまいました。
目が覚めて、時計を見ようとしたら、なくなっていました。
自分は大けがをしたのだろうか。胸が苦しい。左の脇腹も相当痛く、息をするのも苦しい。肋骨折れたことがすぐに分かりました。腰も相当痛い。すぐに起き上がるのは無理で、傷が癒えるまでその場にいなければと思い、1日半ほど、じっとしていたといいます。
下山にあたって、1リットルの水を持ってきていました。胸の痛みのために食欲はなく、その水を飲んで渇きを癒やしていましたが、1日半ほどの間に飲み干してしまいました。
その時、「命の水」が…
どうしようかと思っていたところ、水の流れる音に気付きました。「ここは沢だな」と思って耳をすまして探したところ、左手の先、5、6メートルほどの岩から水が流れる音がしていました。「あそこで水をくんで飲めば、しばらく生きていけるな」と、その時に生き延びる自信が持てたといいます。しかし、身を横たえているのは、急斜面の「ガレ場」で、そこにいたままでは、どんどん落ちていきます。「この場にいるのは気持ち悪い、どこかに移動しよう」と思いました。湧き水が出ているところは、「ガレ場」ほど急斜面ではなく、地面も見えていて体を休められそうです。そこで傷を癒しながら、救助を待つしかないと決断しました。そこでは、少しでも居心地のいい環境を作ろうと、枯れ葉を集めたり、枝を集めたりして過ごしたということです。
10月某日 2週目 寒さが襲ってくる
そこで待つことを決めたあと、救助のヘリの音がずっと聞こえていたといいます。「かなり近くを飛んでいる」と感じることもありました。「これならいずれ救助してくれるだろう」と思ってきましたが、救助隊はなかなか現れません。
次に訪れた危機は、「寒さ」でした。冷え込む山の上ですが、当初はそんなに寒くなかったといいます。雨具やカッパもあり、折りたたみ傘を風よけにして寒さ対策をしていました。しかし、2週目になって次第に夜は寒さが厳しくなってきました。もともと、濡れてもいいように2、3回着替えられるだけの服は持ってきていましたが、それを重ね着してなんとかもたせたといいます。それでも、夜中の2時、3時になると寒く、太陽が昇るまで乾布摩擦をして過ごすこともありました。眠れるのは、太陽が出て、暖かくなってからでした。それを5日ほど繰り返すと、「これ以上は体力的にも精神的にもキツい、もたないな」と感じたといいます。
このころにはもう、ヘリは見かけなくなっていました。
次に訪れた危機は、「寒さ」でした。冷え込む山の上ですが、当初はそんなに寒くなかったといいます。雨具やカッパもあり、折りたたみ傘を風よけにして寒さ対策をしていました。しかし、2週目になって次第に夜は寒さが厳しくなってきました。もともと、濡れてもいいように2、3回着替えられるだけの服は持ってきていましたが、それを重ね着してなんとかもたせたといいます。それでも、夜中の2時、3時になると寒く、太陽が昇るまで乾布摩擦をして過ごすこともありました。眠れるのは、太陽が出て、暖かくなってからでした。それを5日ほど繰り返すと、「これ以上は体力的にも精神的にもキツい、もたないな」と感じたといいます。
このころにはもう、ヘリは見かけなくなっていました。
最初は仕事、最後は家族のことを
遭難している間、冨樫さんは、最初は仕事のことを考えていたといいます。「仕事に穴を開けることで、土木部の職員には迷惑をかけるなと、でもみんなしっかりしているので、滞りなく仕事できるなと思いながらも、あの仕事、この仕事と、課題もいっぱいある中で本当に迷惑かけるなとずっと思いながら時間すごした」と話しています。
ただ、日を追うごとに仕事のことは薄れ、妻と子ども2人の顔が浮かんでくるようになったといいます。「このまま死んでいられない、絶対生きて帰って家族に会いたい」そう思っていたということです。
ただ、日を追うごとに仕事のことは薄れ、妻と子ども2人の顔が浮かんでくるようになったといいます。「このまま死んでいられない、絶対生きて帰って家族に会いたい」そう思っていたということです。
10月21日(金)生死を分けた決断
10日以上がたっても救助隊は現れず、「自分で見つけてもらえるところまで行かなければ」と思いました。
幸運だったのが、なくした時計を近くで見つけたことです。これで高度と方位が分かります。いまいる場所は、標高1150メートルの地点でした。地図を開いて、自分がいる場所におおよその当たりをつけました。南西方向に登れば登山道があるだろう、登山客の多い土日に、登山道にたどり着こうと計画を立てました。ただ、山を下るという選択もありました。下って川をたどれば、人の住むところにたどり着くとも思いましたが、下りられる場所が分からず、それならば困難でも登ろうと考えたといいます。
幸運だったのが、なくした時計を近くで見つけたことです。これで高度と方位が分かります。いまいる場所は、標高1150メートルの地点でした。地図を開いて、自分がいる場所におおよその当たりをつけました。南西方向に登れば登山道があるだろう、登山客の多い土日に、登山道にたどり着こうと計画を立てました。ただ、山を下るという選択もありました。下って川をたどれば、人の住むところにたどり着くとも思いましたが、下りられる場所が分からず、それならば困難でも登ろうと考えたといいます。
しかし、見つけてもらうためには、およそ300メートルは登らなければなりません。健康な状態でも数時間はかかります。ダメージのある体では2日か3日はかかりそうなので、20日の木曜日ぐらいから登ろうと考えましたが、木曜日は気温が低く諦めざるを得ませんでした。翌日の金曜日の正午ごろ、急に雲が切れ、太陽が姿を現しました。「このタイミングだ」と思ったという冨樫さん、身の回りのものをザックにつめて動き始めました。
肋骨が折れて痛む体で崖をよじ登りました。15分登って、10分休む。休んでいる間に崖を見て、右足をこっちにかけようなどと頭の中でシミュレーションし、少しずつ登っていきました。その日は、正午から午後4時半まで登りました。高度計を見ると150メートル、半分ぐらいは登れたことが分かりました。辺りも暗くなってきたので、木によりかかり落ちないようにして寝たということです。
10月22日(土) 奇跡の生還
翌日は朝7時に起きて、登り始めました。正午を回ったあたりで、登山道のような道が見えてきました。あまり整備されていない旧道のような感じでしたが、しばらく歩くことにしました。すると、見慣れた黄色い看板が目に入りました。「本当の登山道に来たんだ」と安心したとろ、すぐに鈴の音が聞こえたということです。「おーい」と大きな声をあげたところ、ちょうど後ろから登ってくる人がいたので、「すいません、2週間前に遭難した者です」と説明しました。「食事はされてましたか」と聞かれ、「食べてません」と答えたところ、おにぎりを2つくれたといいます。その登山客が冨樫さんのザックを背負い、2人で下りていきました。ところどころ、携帯電話が使える場所があり、登山客が警察に電話して、ヘリを呼びました。遭難した9日から13日後、冨樫さんは、救助されました。
あえて「登る」という決断が、生還につながりました。
あえて「登る」という決断が、生還につながりました。
「なぜ遭難したか」を考えるべき
遭難する間、冨樫さんが考えていたことは、もう一つあります。なぜ、遭難したのかということです。「これを反省しないと次の登山はない」そう考えて自分の行動を分析し、メモしていたといいます。
まず考えたのは、「迷ったら戻る」という山の基本ができていなかったということです。2時間半かけて下りてきたので戻る決断は難しいかったかも知れませんが、道が分からなくなった場所の写真を撮って、戻って山小屋の人にそれを見せて聞けば、ルートは分かったはずだと振り返りました。無理に降りようとした理由は、帰りの飛行機に間に合わせたいと考え、そればかりが頭にあったからだといいます。不測の事態が発生した時は戻る、止める、そういう計画も作っておくべきだったと考えたということです。また、発煙筒やマッチも持っていませんでした。持っていれば見つけてもらうことができたかも知れません。
どんなに計画を立てていても、「もっと慎重に行動するべきだった」そのひと言に尽きると話していました。
まず考えたのは、「迷ったら戻る」という山の基本ができていなかったということです。2時間半かけて下りてきたので戻る決断は難しいかったかも知れませんが、道が分からなくなった場所の写真を撮って、戻って山小屋の人にそれを見せて聞けば、ルートは分かったはずだと振り返りました。無理に降りようとした理由は、帰りの飛行機に間に合わせたいと考え、そればかりが頭にあったからだといいます。不測の事態が発生した時は戻る、止める、そういう計画も作っておくべきだったと考えたということです。また、発煙筒やマッチも持っていませんでした。持っていれば見つけてもらうことができたかも知れません。
どんなに計画を立てていても、「もっと慎重に行動するべきだった」そのひと言に尽きると話していました。