ものを書かなきゃ気が付かない!だいじなこと
たまーに記事がバズる(なんて言えないくらいのアクセス急増ぐらいのレベル)んですが、そうなるとたくさんの人に見てもらうわけですよね。
私は嬉しいというかむしろ「もうやめて!私の心臓のライフはゼロよ!」状態になりますが、たくさんの人がたくさんの意見を残してくださいます。
もう右上に通知が来るだけで心臓がバクバクです。
はてブに来るコメントにはいろいろあります。
「参考になった」とか「面白い」という涙が出るほどありがたいコメントもあるし、「決めつけが強い」「論理の飛躍」みたいな
ごくごく真っ当正論ドストレート165km/h
のコメントもあります。こっちは別の意味で涙が出そうです。
結構傷つきますよ、これ。
たまーに、すっごくたまーにですが「〇ね」みたいなコメントも来ます(これはブログへのコメント欄です)し、まあ人間いろいろあるんだなぁとは思いますよね。おっ大丈夫か、というか。ムカつくというより心配になりますね。わざわざ記事を読んで、手間がかかる行為をこっちにしていくんですから、「フラれちゃったのかな」「悩みでもあるのかな」と思います。
でも、そういうマイナスコメントが来たときって、やっぱり落ち込むじゃないですか。私メンタル弱いので結構アレですよ。心臓バクバクですよ。でもね。そのおかげで二つだけ、大事なことに気が付いたんです。
二つですよ、たった。私は頭が悪いから、二つしか気が付けませんでした。それでも、ブログを始めて早一か月かな?一か月だけでこんなにも実感したなんて。
実は以前にも1年ほどブログを運営していたのは内緒の話。
自分の文章力のなさを実感
まずね。
壊れるほど愛しても3分の1も伝わらない
なんて名言があります。それですよ。
私は「思います」「だと感じます」という形を語尾につけるのがあまり好きじゃないので、結構強い言い切りになっていると思います(アッ……)
しかも、論理的な文章の書き方なんてあまり学んでないので、
頭の良い人が読んだら
「なんやこれ。論理が入ってないやん」
とか
「は?キッモこいつ」
ってなってもおかしくないはずですよ。っていうかなってます、たぶん。
(私は私自身の論理で書いていますから、論理性がないと感じるということはその人のアタマが良いということなんでしょう)
でも、自分の文章力の無さのせいで、その方々にいらぬストレスをかけているというか、誤解をさせてしまっているというか。具体的に例を挙げたりはしませんが、
書かれたコメントを見て
あっ、真意が伝わってなかったかー
という悔しい気持ちになるんですね。これはすっごく悔しいです。
私がもうちょっと工夫して書いていれば、私がもうちょっと慎重に書いていれば、この人たちに自分の思いが伝わっていたかもしれなかった。
タイトルの付け方も、読み返してみるとなんか「煽ってる」みたいになっちゃってる。
これじゃあ誤解されてもしょうがない。でも、やっぱり
ほんとに悔しいです。
これを記事を書くたびに思うんですよ。ブロガーって楽じゃないです。
何なら、今まで私の記事についたブクマ全部を引用して、一つ一つお礼を申し上げるとともに、彼らの誤解やらを解き、認識の相違をお話ししたい気分です。まあ私についてみんなそんなに考えていない、というのは正論なんですが、わざわざブクマしてくださるだけでも(こっちとしては)すっごく幸せなので。
もう全員会いたいです。会って話したい。
コトバを使うということはガーゼでこすことと似ています。
他の人の言葉が自分の心に溶けていく。時間が経ってから、自分の心の中に浮かんできた澱(おり)をこして、なるべく自分の意見になるように再精製された結晶が、私の記事に表れる文章。
問題はガーゼの目の粗さです。作家さんやプロブロガーさんなど、コトバを操ることを職業にする人たちは、本当に上手に想いを濾していきます。羨ましい限りです。
その一方私は趣味で文章を書いてきた、いわば下手の物好きってやつなので(と、開き直っているわけではありませんよ。ちゃんと自分なりに成長している……つもりです)目がめちゃくちゃ粗いです。
結果、自分の意見の核になる部分に不純物が混ざったり、拾いきれなかった澱の部分に大事なことが残ったりして、他の人から見たときに稚拙に見えてしまう。これは情けないことです。物書き失格。
自分の意見はあるのに、それがうまく伝わってない。なんというか、
英語を話すとき、日本語で何を言うかはわかっているのに、英語に直せなくてもどかしい思いをしたことはありませんか?それとだいたい同じです。ほら、本当は同じじゃないのに、伝わらないのに「だいたい同じ」なんて言っちゃった。
自分の気持ちが伝わらないのは悔しいですよね、歯がゆいですよね。
コトバは人間の武器です。ヒトという生き物が、自らを高みに置くために生み出した必死の技術。でもやっぱり情報を伝える媒体としては不完全です。これは否定できません。そうして数学が生まれました。哲学が生まれました。
数学はおのれの存在そのものから主観を排斥し、緻密な論理によって自らを成り立たせています。だから、話すコトバの違いによって差が生まれないのですね。
誰が見たって「sin x」はxという角度をもつ直角三角形の斜辺から見た高さの比です。
なんで差が出ないのか?それはもう、
そう定義されているから
ですよ。誰が見ても「そう定義されているから」で終わりだし、誤解も生まれない。
定義から演繹的に(もしくは帰納的に)成り立つことを、誰もが納得できる(せざるを得ない)論理で説明していくのだからすごいのです。
哲学も同じです。哲学における「真理」ってのは、絶対的に正しいこと、という意味の真理ではありません。(宗教での真理はこっちの意味です)
真理というのは、だいたいみんなが納得できるよねー、といういわば
世の中の本質
のようなもののことです。例えばタレースという哲学者が最初に言った
「万物の根本は水である」とかね。
つまり、世界のすべてのものは流転し、常にとどまることがないと彼は言ったんです。
存在するものはいつか消えていく。
日本で言う「祇園精舎の鐘の音~」ですよ。盛者必衰、邯鄲の夢、兵どもが夢の跡。
タレースのすごいところは、世界で初めて「神抜きで世界の本質を考えた」ところにあります。だから彼の言葉が世界で初めて哲学が生まれた瞬間だとされてるんですね。
彼らは言葉の意味をちゃんと定義し、自らの複雑さが生み出した論理的な矛盾(パラドックス、ともいう)に足を取られないようにしてきました。実際哲学ってすっごく論理的なんですよ。言葉遊びなんてディスられることもありますが。
でも、(人間が普通話すところの)コトバは違います。
太郎君が見たときの「留学は大事だ」という意見、
花子さんが見たときの「留学は大事だ」という意見。
そこの感じ方に差が生まれるのは当然です。70億いれば70億の生き方があり、お互いがお互いを侵犯しないように生きているわけですから、(言論の自由云々の問題を取り除くと)意見が違うのもやっぱり当たり前なんですよね。
意見が違えば誤解が生まれる。多義的な言葉、煽ったようなタイトル、的外れな文章、かみ合わない論理。
これらが誤解のもとになっていきます。
自分の意見を上手に言いながら、誤解されないようにするのは案外難しい。
言葉を尽くせばいいというものではないし、少なすぎても伝わらない。
でも、上手な文章を書く人は文章におけるS/N比が高いです。もうね、必要なことを必要な言葉だけで表現するんですよ。美しささえ感じます。後に言いますがはてブして下さる方はだいたいこのパターンです。
私もそんな人たちになりたいですが、何年かかるやら……。
とりあえず野菜を食べて、瞑想します。
批判こそ自らを成長させてくれるのだと実感
ブロガーさんの中には、もしかしたら私と同じような考えの人がいるかもしれない。
マイナスコメントくるの嫌だなぁー、とか、あいつら批判しかしてねえな、と思う人もいるでしょう。
ここからははてなブログの話になります。
はてブのコメントは辛辣なものが多いです。的を射てないような罵倒もたまにありますが、私が見る限りでは、某匿名掲示板やら某知恵袋よりは「非難」じゃなくて正当な「批判」になっているものが多いです。要するにド直球なんですよね。100文字しかないから、伝えたいことを思いっきり短い言葉に込める。
要するに彼らは言葉の濾過と再精製のプロなんですよね。だから傍から見てたらすごいなあとなるし、自分に来たらドキッとしちゃう。
そういう方々からマイナスコメントのようなものが来たらびっくりします。そりゃーびっくりします。ドキドキします。
でも、そこでブログを辞めようかな、なんて考える人もいるでしょう。これはすごく残念な話です。
先ほども言いましたが、自分の意見というのはあんまり伝わらないもんです。意見を100%言葉にできるなんてあり得ない。たとえ「小説家」やら「プロブロガー」でも。人間が言葉という媒体を情報伝達の手段にしている時点で、100%はありえないのです。
だからこそ、
意見の食い違いが生まれるんですよ。
批判が出てくるのはしょうがないことです。というか当たり前です。
そう、当たり前なんですよ。
だから、どんなに称賛されている記事の中にも、必ず1割くらいの批判コメント、皮肉コメントがあるはてブって結構優れたシステムだと思うんです。9割が称賛しても1割は反対。これ当たり前。
逆に、9割批判のコメント欄にも、1割くらいは称賛のコメントがある。
これが10割称賛10割批判だったら怖くないですか。
言論の自由が保障された情報交換の場という面で見れば、私ははてブを気に入ってます。甘えがちな自分という存在に鞭を打ってくれる恩師みたいなもんです。
恩師からの厳しい言葉に、私の心臓は冷水を浴びたようにびくっとします。それは彼らの言葉が100字というギリギリな制限の中で、極限まで圧力をこめて結晶化されているから。
私のメンタルが強かったら、「はっ、批判ウッザ。どうせ嫉妬だろ」なんてまともに取り合わなかったかもしれない。弱かったからこそこう気づいたんですよ。
もっと言葉を慎重に扱おう、とか、
ここの表現は確かにこう変えたほうがいいぞ、とか、
うーん、やっぱり論理性がねえな、とか。
彼らは厳しいです。すごく厳しいです。ですが、自らを成長させてくれるのは厳しい環境と自分の心意気です。留学に行ったとて日本人とばかりしゃべっていたら英語が上達しないように、お坊さんが早起きして滝に打たれるように、ぬるま湯に浸かってばかりいたら(それは楽しいかもしれませんが)成長もしない。
もちろんただの罵倒や意味のわからないコメントは無視するべきです。そんなのにかまっているほどこっちも暇じゃありません。
例えば、「下らんブログだな」とか「嫉妬乙」とか「浅い」とか。
そういう数文字レベルのコメントで、こっちはどう改善しろっていうんですか。
そもそも普通の人が100文字以内で批判するってのは無理な話です。一部の批判のうまい人だからこそそのコメントが輝くのであり、凡人はせいぜい主観を練りこみまくった「つまらない」ぐらいしか言えない。
彼らはこっちへの愛ゆえの厳しさを示しはしません。読んで自分がイラッとしたから、もしくは実生活で嫌なことがあったから、ストレス発散まぎれに書き殴っていくだけなのです。
そういうのに構う必要はない、ってこと。(傷つきはしますが……)
が、「耳が痛いな」と思ってしまった指摘(鋭い意見ともいう)については、ちゃんと聞き入れてみてもいいんじゃないか?と思うのです。耳が痛いということは自分に何かが足りていないということ。
それ自体……足りていないのが悪いということではありません。
足りていないなら成長して足せばいい。
最後に、批判コメントに傷ついちゃうウサギさんメンタル、トウフさんメンタルの方(つまり私)へ:
自分の意見への批判がくると冷静さを失う、というのは科学的にも証明されています。怒ったときのような反応を身体が示しますよね。鼓動が速くなったり、頭に血が上ったり、視界が狭くなったり。でもこれは正当な反応なのです。
ではなぜ自分が攻撃されたように感じるのか?これもごく当然の答えですが、
自分の意見は自分の子どものようなものだから
だと思います。
つまりですよ、自分の意見への批判が来ても全く動じない人ってのは、
相当メンタルがしっかりしているか
もしくは
自分の文章に熱意や誇りがないか
です。前者のほうは確かにすごいですが、後者だとしたら残念な話ですよね。
みんな、自分の文章に誇りを持って書いています。「みんなが変わってくれるといいなぁ」とか「俺の今の悩みを聞いてくれ!共感してくれ!」と思っていたのに、返ってきたのが批判だったらショックです。自分が生み出した文章とは、自分の中から生み出された心の結晶であり、濾過と再精製を繰り返して生み出された魂の渾身の一撃です。
それが裏目に出て、どうして無事でいられるでしょうか。
だから、批判が来てショックを受けたことを隠す必要なんてない、と私は思います。何ならこういう風に記事にしちゃうのも手かも……。
さらに言えば、批判を恐れて情報を発信しなくなるのはもっと残念です。
批判を生み出せる文章には力があります。読んだ人がコメントを残していくくらいのインパクトを、彼らの心に与えたのです。だからもっと誇りを持っていい、私はそう思います。
あ、でも、罵倒はやめてね。