【コラム】「護国英雄の不都合な真実」、その後

 陸軍軍史研究所は、当時の戦闘に関する生存者の証言が最も重要だと判断した。生きていても90歳以上。訪ねられる人間は全員訪ねたという。13人いた。これらの生存者と面談したり、電話をかけたりした。驚くべきことに生存者らは、一様に「その日、そんなことはなかった」と回答した。国防部で「相反する証言もある」として引用してきた生存者S氏(カナダ在住)は、今回は回答を避け、訪問も拒否した。一時、S氏は「沈少領がそういうことをしたのは間違いない。彼の中隊長だった私も、太極武功勲章を受けるべきではないか」と言っていた人物だ。

 沈少領の武勇伝の元となった従来の証言を検証してみても、ほとんどは牽強付会(けんきょうふかい)であったり、肝心な部分を削除・歪曲(わいきょく)していたりした。もしくは、直接目撃したのではなく「そうだと言っていた」という伝聞レベルのものだった。軍史研究所は、戦闘詳報・作戦日誌、韓国戦争史、個人の回顧録など40以上の文献を検討した。北朝鮮側の資料も探してみた。1970年代中盤より前の段階では、沈少領の戦功記録はどこにもなかった。しかも、沈少領が所属していた第7連隊の略史(1955年刊行)にも登場しておらず、78年版から現れた。

 かつて教科書には「沈鎰小隊長を先頭に5人の特攻隊が、北朝鮮軍のタンクに飛び乗って砲塔のハッチを開け、手りゅう弾と火炎瓶を投げ入れて飛び降りるや、火の手が上がり…」と書かれていたものだが、当時の北朝鮮軍の自走砲(タンク)は、砲塔のハッチを開け閉めする構造ではなく、オープントップだったことも判明した。さらに5人の特攻隊については、兵籍記録簿や賞勲、戦死記録などがなかった。これは、実在の人物ではなかったことを意味する。

 1カ月半にわたった陸軍軍史研究所側の調査結果が報告されたとき、事実が正されると思った。しかし、雰囲気はおかしな方向へと流れていった。国防部と軍史編さん研究所は、陸軍の調査結果を一から再検討したいと言い出した。国防部が陸軍に対して監査するような格好になった。この中には、沈少領の銅像建立に関与した利害関係者もいた。

チェ・ボシク先任記者
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