在日無年金裁判原告で総連専従活動家女性をマンセーする毎日新聞

ニュースUP:
在日女性、涙の旅立ち=京都支局・古屋敷尚子
 <おおさか発・プラスアルファ>

http://mainichi.jp/select/opinion/newsup/news/20110831ddn013040032000c.html
 ◇77年の営み、認めてくれなかった日本
 90歳を迎えた1人の在日コリアンの女性が今月上旬、
77年間暮らした日本を後にし、朝鮮半島に帰った。
国籍を理由に老齢年金を受給されないのは差別だとして
国を訴え、敗訴した後のことだ。
支援団体によると、大阪、京都、福岡の3訴訟の原告
計20人のうち帰国した人は初めてという。
女性の最後の選択への思いとは--。

 ■「別れはつらい」

 女性は京都市南区に住んでいた高五生(コオセン)さん。
離日を2日後に控えた今月8日、利用していたデイサービス
施設で、親しい友人やスタッフら数人と別れを惜しんだ。
利用者には在日コリアンが多く、
「帰りたくても帰れん人もいるから」
と、にぎやかな催しは高さんが拒んだ。
高さんと友人たちは「いつまでも元気でね」と声をかけ、
抱きしめ合った。

 高さんは当日の10日朝、親類に付き添われて関西国際空港
に向かった。
韓国・済州島出身だが、北朝鮮の平壌(ピョンヤン)で暮らす
息子家族を頼って中国経由で北朝鮮に入国する。
身の回りの物だけを詰めた小さな手荷物に家族や友人らの
写真数枚を入れた。
「みんなにこの年までようしてもらって。
 私の周りの日本人はみんなええ人ばかり。
 別れるのはつらい……。
 もう日本には戻れんから」。
小さくつぶやき、目に涙をためた。

 済州島で5人姉妹の長女として生まれ、
13歳の頃に大阪で暮らす父を頼って来日した高さん
は、
「差別なんて受けたことはない」と言い切る。
言葉通り受け取ってよいのかは分からないが
周囲とはよい関係を築いてきたようだ。

 15歳年上の朝鮮人と18歳で結婚した後、
職を転々としながらたどり着いた京都・西陣では、
日本人夫婦宅を間借りした。
来日前に学んだカタカナで筆談した夫婦について、
「奥さんに頼んで浴衣を着せてもろうて……」と
懐かしそうに話す。

 戦後すぐ帰国する機会もあった。
日本の敗戦で朝鮮が独立を回復、
すぐにでも帰れると思った。
 仲間もバンザイって大いに沸いた」。

気持ちは高ぶった。
父親や、高さんとともに来日した妹は帰国を選んだ。
しかし、
戦争中に始めた鉄回収業が軌道に乗り始め、
食べるに困らない稼ぎがあった。
朝鮮半島に戻っても生活基盤はない。
ためらい、決断できなかった。

その後も、朝鮮へ帰る人を乗せた浮島丸沈没事件や済州島の
政情不安などを聞く度、
「様子をみて良かった」と自分に言い聞かせた。

 ■無年金への怒り

 迷った末とどまった日本は、安住の地にならなかった。

 戦後、夫は民族活動に没頭し、家族の生活は高さんの
肩にかかった。
鉄回収業自体は順調で、職人30人を雇っていた時期もある。
だが、
「商売が軌道に乗ると、
 行政から『立ち退け』って言われた。
 何度も何度もや」。

結局、立ち退きに応じたことが2、3度あった。

 強硬な姿勢をのぞかせた役所。
80歳を超えて、その行政、国と
法廷で正面から闘うことになる。
04年に無年金訴訟に参加した。
「どうせ(裁判で)言っても(年金は)もらわれへんやろ。
 それでも、苦しい時代を日本で生き抜いたことを
 国に認めてほしかった
と言う。

息子は朝鮮高級学校3年の時、制止を振り切って
北朝鮮に渡っていた。
約40年前に夫に先立たれてからは1人暮らしだ。
それでも70歳を過ぎて生活保護を受け
生活は成り立っていた。
参加を決意したのは同年代の在日コリアンの困窮を
知っていたからだ。
お風呂に行くにも子供にお金をもらわなあかん。
 長年暮らして税金払うて、
 どうしてそんな生活をせなあかんのか


 07年2月の判決日。「小さな期待」が心の隅にあった。
しかし、京都地裁は国の裁量権の範囲内とし、訴えを退けた。
「腹が立ってたまらんかった。
 全く認めてくれないなんて」。
高裁でも敗訴し、09年2月に最高裁も1、2審を支持。
約4年にわたる闘いは終わった。

 ■息子を頼って

 いま息子は60歳を超えた。
北朝鮮には高さんの孫が3人、ひ孫も3人おり、
数年に1度は会いに行く。
3年ぶりに訪ねた今年6月、直前に自転車で転んで
車椅子に乗って来た高さんを見て、息子は
「面倒見るからこっちに来いよ」と言った。
衰えは自覚している。
帰るならこれが最後の機会だと思った。

 京都訴訟の元原告5人のうち1人は死亡、高さんを除く
3人は京都で暮らすが、高齢化が進む。
元原告の女性に帰国を告げると「行かんといて」と
引き留められた。
だが、息子家族と暮らしたいとの思いは断ち切れなかった。
敗訴も背中を押した。
「裁判も負けてしもうて。終わったんやな」

 高さんが通ったデイサービス施設で働く鄭明愛
(チョンミョンエ)さん(41)は、高さんに
訴訟に参加するよう頼んだ人だ。
控えめなオモニの高さんが京都地裁判決後の記者会見で、
「本当に腹が立ってたまりません」
と初めて憤りをあらわにした姿が目に焼き付いている。
「判決後は相当落ち込んでいた。
 高齢だし3年ぶりに息子さんと会って、
 一緒に暮らしたいという気持ちが強まったのでは」
と話す。

 高さんは国籍に関係なく周囲の人を愛し、周りも
そんな人柄に引かれてきたのだと、その半生を聞いて思う。
そんな高さんが、失望や怒りを抱えたまま日本を後にした。
在日1世の高齢化が進み、無年金のまま亡くなる人は
相次いでいる。
この問題を放置していいはずはない。
==============

 ◇在日コリアン高齢者無年金問題
 日本の植民地時代に渡日した朝鮮人は、1952年の
サンフランシスコ講和条約発効で日本国籍を喪失した。
一方、61年施行の旧国民年金法は国籍条項で
年金加入を日本国民に限った。この条項は82年に撤廃され、
86年の改正法で、国籍条項による未加入期間を
資格期間に算入できる措置が取られたが、
当時60歳以上の人は対象外となった。
日本国民であれば受給できた年金の
相当額の支払いなどを求め
、03年以降、大阪、京都、福岡
の在日コリアンが各地裁に提訴。
大阪、京都両訴訟は敗訴が確定。福岡訴訟は福岡高裁で係争中。

==============

 「ニュースUP」は毎週水曜日掲載です。
ご意見、ご感想は
〒530-8251 毎日新聞「プラスα面ニュースUP」係。
郵便、ファクス(06・6346・8104)、
メール(o.talk-news@mainichi.co.jp)へ。


根本的に間違っているのは
年金は
「日本国民であれば誰でも受給できる」のではなく
「掛け金を払い受給条件満たしている人であれば
誰でも受給できる」
制度。
86年の改正法で、国籍条項による未加入期間を
資格期間に算入できる措置が取られたが、
当時60歳以上の人は対象外となったのは、
掛け金を払っていないで受給開始年齢に達していた
60歳以上のコリアンに、未加入期間の掛け金の支払いは
請求できないから!


さて、この高五生という婆さんの正体は・・・
●女性同盟京都南支部の名物ハルモニ-高五生さん
 朝鮮新報 2005.11.14
 http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2005/06/0506j1114-00001.htm
女性同盟京都南支部委員長を長く務め、
18年前に顧問になった。

南支部はJR京都駅の南東、京都市南区東九条にある。
顧問になってからも一人暮らしのアパートから
自転車で毎日、支部に顔を出し、活動家たち
昼食作りや掃除などに励んできた。
(略)
「20余年前には、朝鮮新報の現役分局長だった。
 当時日刊だった新報を230軒の同胞宅に配り、
 集金もした。
 それで新報社から還暦のお祝いをしてもらったこともある」

と当時を懐かしく振り返った。
(略)
1921年、済州島で6人兄弟の長女として生まれた。
日本の植民地支配によって土地を失って没落した
農民たちが生きる糧を求めて、日本や満州へと流浪して
いた頃である。
高さんの父も、北九州の炭鉱で働くことに。
長女の高さんも父を頼って13歳で渡日。朝鮮人労働者への
暴行は日常茶飯事で、高さんたち親子は、運良く逃げ出して、
大阪へ。
(略)
 大阪では古着の商いをしていた叔父を頼った。
済州島から家族もやってきた。

 17歳で結婚。夫になった人は15歳年上で、
連れ子がいた。
「親子一生懸命働いた。
 大阪で夫はくず鉄の仕事を始めたが、
 京都・西陣に間借りして紙屋に転業した」。

 日増しに戦争色が強まり、商売にも影響が出始めた。
紙も集まらなくなり、くず鉄業に戻ることに。
そこで、西陣から現在住んでいる東九条に移った。
だがくず鉄は軍への供出のため集まらなくなり、
夫は砥石屋に職を得た。
当時この地域には、旋盤の工場や刀を焼く町工場が
たくさんあった。

 日本敗戦の年には、またくず鉄業に戻るという
めまぐるしさだった。
やがて8.15。念願だった息子も生まれた。

「夫は大喜びして、布団や鍋などの家財道具を
 故郷に送ってしまった。
 誰も彼も『解放』に酔いしれて、
 すぐにでも帰郷できると思っていた」


 その喜びも束の間、祖国分断の悲劇が在日同胞の
頭上を覆い始めた。
48年には故郷・済州島で「4.3事件」が起きた。
「島民の一斉蜂起を、米軍政と南の当局が弾圧し、
 約3万人の人たちが虐殺された。
 私の親せきも、いまだに行方不明の人がいる。
 妊婦たちの中には山に逃げて、そこで命を落とした人も
 多かったらしい」。
その後朝鮮戦争が勃発。
高さん一家はそのまま京都に住むことになった。

 商売も繁盛し多くの人夫を雇うまでになった。
「一時は平屋の木造トタンの宿泊施設に30人ほどの
 人夫がいたことも。
 その資金で滋賀県にパチンコ屋を出したり、
 おもしろいように商売が当たった時期もあった


 55年、総連の結成とともに夫は愛国運動に
のめりこんでいった。
朝鮮学校の教育会会長として資金集めに奔走、
家を顧る余裕もなくなった。
必然的に商売は高さんがみることに。
隠れていた商才が開花し、順風満帆だった。

家には活動家がいつも出入りしていた。
 ご飯やスープ、おかずをいっぱい作って置いていた。
 彼らがおいしそうに食べるのが、私たちの喜びだった」


 民族学校に愛情のすべてを注いだ訳を高さんは、
家が貧しくて、一度も学校に通えなかったから
だと語った。
しかし、故郷で学べなかった朝鮮語の読み書きを後に
総連の成人学校で習得。
さらに、商いのために独学で仮名を覚え、いつの間にか
そろばんも学んだ。
文字通り、日本で朝鮮人としてのプライドを持って
生き抜くために、掴み取った「知恵」なのだった。

 70年、予期せぬ不幸が高さんを襲った。
あれほど愛国事業に没頭、組織を愛した夫が肺がんのため死去。
 夫の遺志を継いで、今度は高さんが運動の第一線へ。
事業は夫の連れ子に任せ、女性同盟の活動に踏み出した。

結局、店はその後の不景気と重なって倒産し、
 家も取られてしまった-。

 わが子も祖国で学びたいと帰国してしまって、
 日本では一人ぼっちになった」


 息子の呉炳致さんは60年、自らの意思で帰国。
金日成総合大学を経て、
政府機関紙民主朝鮮の記者となり、
今では要職にある。
 

「息子のつれあいも大学の同級生で、出版社勤務。
 3人の孫たちも家庭を持ち、10人を超える
 大家族になった。
 毎年、祖国を訪ね、孫やひ孫に会うのが楽しみ」
だと高さんは幸せそうにほほえんだ。


毎日新聞京都支局の古屋敷尚子さん、
「お涙頂戴記事」に仕立て上げて同情を煽る気満々です!

高五生さんは、筋金入りの朝鮮総連京都支部の元幹部ですよね。
しかも、実の息子は北朝鮮政府の要職に就いている!

「お風呂に行くにも子供にお金をもらわなあかん。」
これを、『日本のせいで情けない生活を送っている』と
主張していますが・・・
裁判証言では、お風呂=温泉旅行
パチンコ屋を倒産させた夫の連れ子に、老後の面倒も頼めず
温泉旅行に行く為の小遣いを要求したら・・・
そりゃ、夫の連れ子も嫌な顔をするでしょうよ。

その代り、北朝鮮に行って総連の傀儡として働く実の息子
頻繁に『北朝鮮旅行』をさせてくれる!
もう40回以上も北朝鮮に旅行しているそうですねぇ。

●京都・南支部で盛大な歓送会 
 高五生顧問 77年ぶりに、愛する祖国の懐へ

 http://jp.korea-np.co.jp/article.php?action=detail&pid=52013
   zainichi20110805j004.jpg
女性同盟京都南支部の高五生顧問(90)は、今月10日、
関西空港から空路、帰国の途につく。
1934年、13歳のときに済州島から日本へ来て77年。
来年、金日成主席生誕100年を迎える祖国へと、
高さんの心は、はや飛んでいる。

7月29日、高さんの歓送会が
総連南支部会館ホールで盛大に開かれた。

午後7時から開かれた集いは、総連京都府本部の金学福委員長、
京都府商工会の鄭東善会長をはじめ、商工会、朝青、女性同盟、
青商会、京都歌舞団など老若男女、日本の友人たち125人
顔をそろえる賑やかなものとなった。
(略)
一人息子の呉炳致さんは1960年、自らの意思で帰国
金日成総合大学を経て、政府機関紙の民主朝鮮の記者として
働き、定年を迎えた。平壌では3人の孫が家庭を持ち、
それぞれ3人のひ孫にも恵まれた。
1970年、夫が肺ガンのため他界した後、
高さんが平壌の息子を訪ねたのは実に40回以上。

夫の死後、高さんは1975年、
54歳のときに専従活動家になった。
女性同盟京都府本部・南支部副委員長兼朝鮮新報の
分局長として活動をスタート。日刊紙だった新報を
230軒の同胞宅へ毎日、自転車で配達しながら、
集金も受け持ち、約10年続けた。
1985年には同支部委員長に。
その後顧問になった後も、88歳まで現役のときと同様、
財政や集金を手伝った。

(中略)
この日の歓送会には、朴淳湖・女性同盟南支部委員長らが
3日前から心をこめて準備したごちそうが彩りよく並べられ、
京都府本部の康京姫委員長はじめ、魚秀玉、鄭禧淳、孫永姫の
歴代委員長らが顔をそろえた。そして、異口同音に
主席生誕100年の来年、平壌でまたお会いしましょう
と固く約束を交わしていた。


何が、
控えめなオモニですか!
バリバリの総連の専従活動家ではないですか!
88歳まで総連で財政や集金の仕事をしていながら
70歳を過ぎてから生活保護を受けて
ようやく生活が成り立っていた????


何が
「帰りたくても帰れん人もいるから」
 と、にぎやかな催しは高さんが拒んだ 』ですか。
総連主催の盛大な送迎会をしてもらっているではないか!

自分の意思で帰国できるけれど帰らない人
大きな顔をされるのは、もうウンザリです!
この人達を「可哀想な人達」に仕立てて
好き放題に活動しているサヨク連中はいい加減にして!

●李氏朝鮮時代の税法『大同法』
 http://wiki.livedoor.jp/crescent_castle/d/%C2%E7%C6%B1%CB%A1
大同法は1608年頃に導入が始まった、新しい税制である。
(略)
この大同法と言うのは、その地の穀物・産物など土地によって
まちまちだった徴税法を改め、土地に対して定率の税をかける
と言うものである。
この大同法以前の税制(貢納制)がくせ者の様である。

たとえば、魚の産地であれば魚を収めよと言う命令が下る。
みかんの産地であればみかん。
柿の産地であれば柿を収めよとなる。

しかし、農民は漁師ではない。
済州島がみかんの産地でもみかんに適した地に住んでいない
土地の農民はみかんなど収められない。

従って、商人から魚を買って収めるしかない。
商人側は税を納める農民の足下を見て値段をつけるため、
かなりの収奪を受けていた。
さらに、中間で官僚も搾取するために定められた税より
多数の産物を収めなければならなかった。
農民に死ねと言っている様なものである。

大同法は、簡単に言えば土地1結(1ha~4ha)に対し
米12斗払えと言うものである。

ソウル近辺では銭での支払いが行われていた様である。
要するに大同法が導入されてようやく物々交換経済から
貨幣流通への移行が始まったわけである。
(それに使える常平通宝は1678年~。
 流通が広まるのは18世紀頃の話である。)

なお、銭の材料になる銅は日本から全部輸入していました。

しかし、一見負担が軽くなったように見える税制だが、
この定率税と言うのがくせ者なのである。

なぜならば、

李氏朝鮮では農業技術が未熟なため
干ばつ・飢饉が頻発していた。

従って官僚の収奪と相まって李氏朝鮮後期は、
毎年のように農民反乱が多発している


富める者はさらに富み、
貧するものはさらに貧窮したのである。


肥えた土地に住んでいた農民は、富む訳でその金で、
族譜を買った。族譜を買えば両班になり、両班の特権
(軍布の免除などの免税特権)などが受けられる。
そしてさらに富むのであった。
富んだ農民は貧窮する農民の土地を買い取り、
小作人(奴婢扱い)にしその小作料の支払いだけで生活する様に
なる。ここに新しい両班地主層が産まれるわけである。


小作人にも奴婢になるメリットがあった。
奴婢には常民に科せられた徴兵やそれに変わる軍布などを払う
義務が無い。
飢え死にしないだけの食べ物にはありつける訳だ。

そうでは無い農民は悲惨である。
春になると春窮が、秋には秋窮が起きた。
米が有るときは米を食べ、大麦がある時は大麦を食べ、
それすら無ければ反乱を起こすか、
木の皮を食べて飢えをしのいでいたのである。
(なお、春窮対策に、李氏朝鮮は春に農民に穀物を貸し付け、
 高利をかけて秋に回収する『還穀』を行っていた。
 事実上の税金として機能した。)


そして、さらに貧しい地に住む者は山に逃げ火田?(焼畑農業)を
やったり火賊になって生活していた。

なお、姜在彦の「朝鮮の歴史と文化」(大阪書籍)と言う本によれば、
大同法の導入により、王宮は産物を商人から調達しなければ
為らなくなったため、17-18世紀頃になると御用商人(私商)なる
ものが発生し、富豪が産まれたような事が書いてある。
しかし、エッカートの『日本帝国の申し子 』によれば、
近代産業を興す資本を蓄えていた商人など存在しなかったとする。

全て開化期の波に乗りきれず没落したと記している。

イザベラ・バードの『朝鮮紀行』などの紀行本でも
そのような商人の存在を確認していない。

韓国の近代産業の担い手はすべて日韓併合以降に米を売って
もうけた地主層なのである。
(サムスンなどの韓国の財閥はロッテの様な戦後、
 日本で起業した日系資本を除けばほとんど地主出身であり、
 商人出身者はいない。)


済州島は貧しい島でした。
農地は地中深くまで石が混じり、火山灰地で保水が悪く、
大きな川もないから稲作には向かない・・・

日韓併合前の李氏朝鮮時代から、
貧しい人は貧しかった。
だから・・・日本に出稼ぎにやってきた。
帰らない理由は、ただそれだけ!
そして、
毎日新聞の古屋敷尚子記者は
来年「金日成主席生誕100年を迎える」北朝鮮が
日本バッシングの為に帰国させた朝鮮総連京都支部の顧問を
マンセーしているだけ!


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保険料を払わない奴らはダマッテロ!

いまさら差別するなでごねる奴って、早い話が、若いときに自分らからも保険料を取れとごねなかった連中でもあるのですよ。税金を払ったのにと言うのであれば、それくらいの事だって不可能だったわけでもあるまいに、要するに払わずに済んだことに関しては拱手傍観してきたのですから、年金もらえないことに関してもダマッテロ!((( ̄へ ̄井) フンッ

わが国は先進国だから、マスゴミはかような馬鹿どもだに、去る事を悲しむ場面をクローズアップするんですね。
これがフィリピンならば、その地に久しく居ても、去る事に関して何にも後ろ髪を詮索しない。嬉々として日本へ行こうとするこじきのような奴らを報道しています。
先月、日本からの移民の二世でしかない者を「残留日本人」として、日本に引き取るのが当然と言うスタンスの報道に出くわしました。
移民の一世は、フィリピンで結婚し、子供をこさえたのにもかかわらず、敗戦とともに日本に送還された後、家族を探そうともせず、そんなけしからん有様でありながら、二世はそんな父親と再会と言う「お涙物語」を創出しました。
結局のところが、日本移住がすべてに優先するという一例です。
http://pnlsc.com/media/pdf/20110807_1-1.pdf
フィリピンも北朝鮮も先進国でないから、このような出来事が存在するのであって、両国が先進国で、日本がそうでなかったならば、これらの連中の行動がどうなるか、容易に予想できますよね。

おぅ!?

あやうく騙されそうになりました(苦笑)この民族のやりそうな事ですね。

これで新聞記者?

何じゃこのお涙頂戴のポエム記事は!
新聞記者ってもう知的階級には属さないね。
生活保護貰って年金欲しいって強欲ばあさんの嘘八百に騙されたのか、知ってて書いたのか・・・?
年金は加入してないと日本人でも貰えない。
これは欲の皮の突っ張った強欲ばあさんなら先刻承知。
しかも生活保護の方が年金よりずーっと高額支給。
年金あげるから生活保護打ち切りって事にしたいけど、法治国家の日本では無理な話。このばあさん達は知っててやってるね。
オマケに悪名高い「人権弁護士」とやらが引っ付いているのでしょう。そして裁判に(思いどうりに)負けた後、「日本は私たちを差別する」ってスピーチ。
公安はこのばあさんをチェックしてるでしょう。この時期の帰国はいかにも怪しい。北朝鮮と総連と民主党の三角関係に絡んだ人の帰国は何を意味するか?
プロフィール

あや

  • Author:あや
  • 韓流に嵌った母と義母の為に
    韓国情報を調べていたら・・・
    韓流ブームに仕掛けられた
    怪しい罠に気付いてしまった。
    韓流の闇と、利権や陰謀
    仕掛け人を徹底研究!
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