少しだけ、この地の歴史のおさらいをしておこう。
中東紛争は、英国統治領の旧パレスチナを、この地に住んでいたアラブ人とシオニズムを掲げて欧州から移住してきたユダヤ人の間で分割するという1947年の国連決議の採択に始まる。48年にイスラエルは決議を受諾して独立を宣言。これに対し、アラブ諸国は決議を拒否し、第1次中東戦争が始まった。70万~80万人のアラブ人が土地を追われ、それがパレスチナ難民となった。
ヨルダン川西岸と東エルサレムはヨルダンが支配し、ガザはエジプトが支配した。しかし、67年の第3次中東戦争でイスラエルはエジプトのシナイ半島やシリアのゴラン高原とともに、西岸と東エルサレム、ガザを占領した。国連安保理は「イスラエルが占領地から撤退し、アラブ諸国がイスラエルの生存権を認める」とする決議を採択し、以後、「土地と和平の交換」が中東和平の原則となったのだ。
だが、いま、西岸はイスラエルによって分断されつつある。
エルサレム中心部から車で15分。マーレアドミムは人口3万5000人の大入植地だ。イスラエル人の多くがエルサレム郊外だと思っているが、実は占領地の西岸にある。さらに、この入植地とエルサレムとの間には、「E1」と呼ばれる広大な入植「予定地」がある。実際に入植地が着工されれば西岸は完全に南北に分断される。そうなれば、パレスチナ国家の樹立など不可能だ。
現在は、警察署がぽつんと立つだけだが、周辺では舗装道路が整備され、造成済みの土地もある。97年にハルホマ入植地の着工を強行したのは、ネタニヤフ政権だった。パレスチナ自治政府からエルサレム知事に任命されているアドナン・フセイニは「再びネタニヤフが首相になったら、E1の入植地建設を承認するかもしれない」と警戒する。
E1は、第2のハルホマになるのか。「それはイスラエルの危機でもある。和平がますます困難になるからだ」とピースナウの入植地監視員シムハ・レベンタルは言う。
イスラエル・ハーレツ紙の外交コラムニスト、アキバ・エルダールは「イスラエル人には占領が見えなくなっている」と語る。占領が始まってすでに40年以上過ぎ、マーレアドミムのように占領地はイスラエル人の日常の一部となっている。西岸に分散する入植地の入植者は、パレスチナの都市を迂回するバイパス道路を通ってエルサレムやテルアビブに通勤する。「バイパス道路を使えば、パレスチナ人と会わないで西岸を移動できる。占領しているという意識がないから、占領を終わらせて、和平を実現する必要も感じなくなっている」という。
パレスチナ人にとっては、これは災厄以外の何ものでもない。入植地近くにイスラエル軍の検問ができ、救急車さえ止められ、高架のバイパス道路で生活圏や生活道路は、あちこちで寸断されている。
自治評議会議員で人権活動家のハナン・アシュラウィは中東和平交渉パレスチナ代表団の広報担当を務めた。一貫して和平路線を唱えてきた彼女が「もうイスラエルとの和平交渉は意味がない」と言い切った。「この15年間、イスラエルは我々の土地を奪い、入植地を増やしてきた。必要なのは、国際的な場でパレスチナ問題の最終解決のあり方を決めて、実施に移すことです」
西岸で占領を物理的に見えなくしているのが「分離壁」だ。
67年以前の停戦ラインではなく、西岸の入植地をイスラエル側に取り込むように食い込んで建設されている。
私は分離壁に近いビライン村に入った。4年前にできた壁反対委員会代表のイヤド・ブルナ(38)は、村のはずれにある金網の分離壁を指しながらこう言った。「村の土地の3分の1が向こう側にあり、無許可の入植地ができてしまった」
ブルナらはイスラエル警察に「なぜ、無許可建設を許すのか」と抗議した。「家ができれば勝手に撤去できない」と警察は答えた。それを逆手にとって、ブルナは05年12月のある夜、仲間と共に分離壁の向こう側に数時間で仮設住宅をつくった。いまも毎日、村人が詰め、入植地の拡大を監視する小屋になっている。
イスラエルの人権組織と協力し、入植地と分離壁の撤去をイスラエルの最高裁判所に訴えた。06年1月、最高裁は入植地建設停止を命じ、07年9月には分離壁をイスラエル側に動かすルート変更命令が出た。
ブルナに話を聞いている、そのとき。近くで「イスラエル軍が村に入ったぞ」と叫び声があがった。
1台のイスラエル軍車両と数人の兵士が村中心部に入り、村のはずれに移動した際、村の少年たちが投石を始めた。兵士は催涙弾やゴム弾を撃ち始め、私も催涙弾のガスでむせび、息が詰まった。「我々が抵抗しているから、嫌がらせだ」とブルナは言った。
ビライン村とは対照的に、西岸の大半は平静を保っているが、入植地や分離壁が増殖するなか、パレスチナ側の声が抑え込まれているのは、より深刻だと言うべきかもしれない。
昨年末からのイスラエル軍の攻撃を受けたガザ市の南にあるムグラカ村を訪れた。30棟の住居ビルが、まるで巨人に踏みつぶされたように破壊されている。この村は05年9月にイスラエル軍がガザの入植地を撤去して撤退するまで、入植地ネツァリームと隣り合っていた。ネツァリームはパレスチナ武装組織の標的となり、入植者は装甲バスで移動していた。周辺のパレスチナの村にはイスラエル軍から頻繁に銃撃があった。05年の軍の撤退で、双方とも最も危険な状態からは解放されたはずだった……。
今回の侵攻で、イスラエル軍は元入植地に舞い戻り、周辺を激しく砲撃した。元入植地に最も近いアッザム家にはロケット弾が撃ち込まれ、父親(46)、長男(13)、次男(2)の3人が命を落とした。ガザの死者の多くは民間人で、4割が女性や子供だった。
イスラエルの世論調査ではユダヤ系国民の9割以上が攻撃を支持した。エルダールは「多くの国民は、イスラエル軍が05年に撤退したのに、ハマスはロケット弾を撃ち続けた、と思っている。実際には軍の撤退後、ガザは封鎖され、人々の生活は危機に陥った。壁の向こう側の悲劇に目をふさいでいる」と語った。
(文中敬称略)